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イスラム世界の激動

  田中 宇

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 ここ2-3年、東南アジアから中央アジア、中近東、北アフリカ、東欧にいたるイスラム世界での、紛争や政治の動きが激しくなっている。なぜ、そんな激動の背景には何があるのか、一つずつの出来事の表面を見ただけでは分からないが、ここに列挙した解説記事を読んでいくと、理解できるかもしれない。

イスラム過激派を強化したブッシュの戦略
 【2005年12月28日】「中東民主化」は、うまくやれば、アメリカとイスラエルにとって傀儡政権を増やせるので、ブッシュが2002年に中東民主化の戦略を打ち出したとき、イスラエルも米政界も賛成した。しかしその後、中東民主化がイスラム過激派を助長する結果になると「ブッシュは頑固な信仰に基づいて中東民主化をやっており、側近の忠告も聞かない」という話がまことしやかにマスコミに流され、イスラエルの要請は無視されている。これは、巧妙なイスラエル潰しの戦法であると思える。

米軍のイラク撤退
 【2005年12月13日】 米国内の反戦気運が高まり、新兵募集もとどこおり、もう米軍はイラクで従来の駐留兵力数を維持できない。米政府は、新生イラク軍を強化できなくても、できたことにして歪曲情報を流し、米軍撤退を実施するだろう。イラク軍兵士の大半は給料がもらえるから応募しただけで、ゲリラと戦う気がない。米軍が撤退したらイラク軍は崩壊し、アメリカが作った政権も倒されかねない。米政府は地上軍の撤退後、空爆を中心に戦いを続行するかもしれないが、その場合、誤爆などで戦争はますます凄惨になる。

政権転覆と石油利権
 【2005年12月6日】 リビアのカダフィ政権は、アメリカがネオコンの戦略に基づき、イラク、イラン、サウジアラビアといった、イスラエルの潜在敵であるペルシャ湾岸の産油国に対して政権転覆を試みる際に、代わりの石油供給源として、アメリカから存続を許された。ナイジェリアなど西アフリカや、アゼルバイジャンなど中央アジアの油田も、ペルシャ湾岸の代用として有望だと、米政権の中枢に陣取ったネオコンから提案されていた。しかし、代替地を用意する戦略はうまく機能せず、石油価格の高騰を招いた。

アメリカの機密漏洩事件とシリア
 【2005年10月18日】 アメリカの情報漏洩スキャンダルの本質は、米中枢の慎重派が好戦派を追い出し、イラクからの早期撤退や、財政赤字の拡大の阻止などを行って、アメリカが自滅するのを防ごうとする動きの一つである。こうした動きがあることを踏まえつつ眺めると、シリアやイランとアメリカとの対立をめぐるいくつかの話が、より深い意味を帯びて立ち現れてくる。

シリアの危機
 【2005年10月15日】 アサドの息子たちが無茶をして、古参の側近のアドバイスも聞かなくなっている、という話を拡大解釈していくと、バッシャールの弟や従兄弟らは、ラフードを大統領に再選させ、その結果反シリアに回ったハリリを暗殺し、これらの動きの全体に対して苦言を呈し続けたカナーン内務相をも自殺に追い込んだ(もしくは殺した)という推論になる。だが、ブッシュ政権がイラク侵攻以来、次はシリアを潰したいというメッセージを発し続けていることを考えると、この筋書きはアサド家にとってあまりに自滅的で馬鹿げた選択である。

アルカイダは諜報機関の作りもの
 【2005年8月18日】 ・・・トルコ警察の担当者は、アルカイダの幹部を尋問するのが初めてだったので面食らったが、当局の内部で情報をすりあわせてみると、アルカイダの幹部がアメリカなどの諜報機関のエージェントでもあるという話は、よくあることだと分かった。トルコのテロ専門家は「アルカイダという名前の組織は存在しない。アルカイダとは、テロ戦争を永続できる状況を作ることを目的としてCIAなどの諜報機関が行っている作戦の名前である」と述べている。

サウジ滞在記(3)911の功罪
 【2005年4月26日】 言論統制があるサウジでは、国内で銃撃戦や爆破事件が起きても、その背景や犯人像について詳細に報じられることが少ない。人々は、事件の背景が分からないことに慣れている。だから911事件が起き、その責任をアメリカからなすりつけられても、おかしいなと思って執念深く調べる土壌がないので、濡れ衣を容認してしまっている。とはいえ911はサウジ人の心情に影を落としている半面、サウジ経済に思わぬ好景気をもたらしている。

サウジ滞在記(2)服装にみる伝統パワー
 【2005年4月7日】 リヤドのサウジ人の多くは、男女問わず、イスラム教の信仰心が非常に強い。女性が顔自体をベールでおおうことは「イスラム教に基づいた決まりではない」として守らなくても良いと考える人もいるが、髪の毛をベールでおおうことは、イスラム教に基づいた決まりなので、ほとんど誰も破りたいと思っていない。

サウジアラビア滞在記(1)
 【2005年3月29日】 リヤドに来てまず感じたことは、人々の生活が物質的に豊かであることだ。多くの市民は複数台の自家用車を持ち、フィリピン人など外国人のお手伝いさんを雇っており、インド人などの運転手を雇う市民も多い。あるサウジ人は「他の国だったらメードや運転手として働いているような人々まで、ここではメードや運転手を雇っている」と、冗談交じりに言っていた。

アメリカの敗戦
 【2005年1月5日】 アメリカはすでにイラク人から徹底的に嫌われており、もはやイラク人に好かれることは無理だ。この戦争は、もうアメリカの勝ちで終わることはない。アメリカの敗北はすでに決定的で、負けを認めるのが早いか遅いかという問題が残っているだけである。負けを認めるのがあとになるほど、アメリカは国力を無駄に消耗し、世界の覇権国としての地位を失う傾向が強まる。

アラファトの「死」
 【2004年11月10日】 アメリカ政府内で中東和平を進めたがってきたパウエル国務長官から、和平に抵抗してきたイスラエルのシャロン、そしてシャロンの仇敵であるガザのハマスと、そのライバルであるダハランまでが、9月にこぞってアラファトに「辞めてほしい」「消えてほしい」と表明していた。推理小説的に言うと、これらの全員に殺意があったことになる。

アフガニスタン民主化の茶番
 【2004年10月19日】 アフガニスタン政局の動きを詳しく見ると、大統領選挙で大規模な不正が行われた疑惑が感じられる。アメリカ政府は何とかカルザイを勝たせたいと考え、選挙前、アメリカの駐アフガニスタン大使であるザルメイ・カリルザドが、すべての有力な対立候補に「立候補を取り下げれば、次期政権の閣僚ポストや州知事職を渡す」と提案して回った。事前の有権者登録の際、2回以上登録した有権者もかなりいた。有権者登録したアフガン人は1050万人と発表されたが、複数回登録した人を除いた実数は500万−700万人にすぎなかった。

石油大国サウジアラビアの反撃
 【2004年5月28日】 国民の反米感情と、アメリカからの非難の板ばさみになったサウジアラビア王室は、親米的なスタンスを離れ、アメリカが困っても石油価格を下げない方針に転換した。原油価格の高騰分は政府収入増につながり、それを国民の生活向上に回すことで、反政府感情をなだめることができる。サウジの石油高騰戦略はこうしたナショナリズムに基づいたものだと思われる。

アメリカに出し抜かれて暴動を起こしたイラクのシーア派
 【2004年4月6日】 イラクの米占領軍政府(CPA)は昨年11月、イラク人の暫定評議会と政権移譲のやり方と日程について取り決めを結んだ。これは、新生イラクの建設がイラク人の総意に基づいて行われていることを世界に示すためだった。システーニ師らシーア派は、懐疑の目を持ちながらもその動きに参加した。だが、3月初旬まで続いた暫定憲法の制定作業は、結局のところ、シーア派が自分たちの権力を限定するのを了承するかたちになってしまった。アメリカにはめられたシーア派は、怒りを爆発させた。

イランの生き残り戦略
 【2004年2月24日】 アメリカがイラクのシーア派やクルド人に言うことを聞かせたければ、イランに頼むのが得策だが、イランの対イラク政策を握っているのはホメイニ師以来の保守派勢力である。改革派は、外交的な権限を持っていない。大統領選挙で時間がないブッシュ政権は、イランの政権転覆を待って改革派と交渉するだけの余裕がない。保守派政権を容認した上で、イラクの安定化に協力してもらうしかない。

イスラエル・パレスチナのEU加盟
 【2004年2月10日】 イスラエルとパレスチナが和平を成功させ、パレスチナ人国家が誕生したあかつきには、イスラエルとパレスチナの両方がEUに加盟できるという、新たな中東和平のメカニズムが出てきた。EUに加盟すれば、イスラエル国家の存続はEUによって守られる。これは、これまでのイスラエルが採ってきた「アメリカの政界で影響力を拡大し、アメリカに守ってもらう」という戦略の代わりになるものだ。

見えてきたイラク復興の道筋
 【2004年2月6日】 国連がイラク復興を主導する動きが明確になってきたのと平行して、「イラクの分割」が現実のこととして姿を現し始めている。新しい動きのひとつは、イラクの憲法の中に大統領を3人にする権力形態が盛り込まれそうなことで、これは少数派に転落しつつあるスンニ派の不満を和らげる目的で、多数派であるシーア派が容認した方策だと思われる。

イスラエルの清算
 【2004年1月13日】 イスラエルのシャロン政権が、パレスチナ問題の「清算」を急いで始めている。入植地を拡大する「攻め」の方向から、すでに作った入植地を隔離壁によって「守る」方向に戦略転換した。シャロンは「入植運動の父」と称賛されてきたのに、自分についてきた入植者たちを切り捨てても方針転換しようとしている。そうせざるを得ないのは、アメリカ中枢の勢力争いが「中道派」の勝利でかたがつき、中東各地で危機回避の方向で事態が急進展していることと関係がありそうだ。

アメリカの戦略としてのフセイン拘束
 【2003年12月16日】 今年5月以降、米軍がサダム捕獲に消極的なのを見て、イラクでは「ブッシュは自分の選挙のために役立つように、サダムを捕まえるタイミングを考えているのだろう」という噂が立っていた。米軍はサダムの動向をかなり前から知っており、戦略的な観点から捕獲をこの時期に決めた可能性がある。なぜこの時期なのかを考えると、アメリカがイラク占領の泥沼から抜け出るための手助けを独仏やロシア、アラブ諸国などに頼みに行ったジェームス・ベーカーの訪欧作戦との関係が気になってくる。

世界大戦の予感
 【2003年11月27日】 戦争とは外交によって国際問題が解決できなくなったときに勃発することを考えると、アメリカがイラクに侵攻することで、中東地域で保たれていた微妙なバランスをうかつにも(もしくはわざと)壊してしまった以上、中東の問題は以前よりはるかに大きくなり、イラクから中東全域に戦争が拡大していく可能性が高まっている。

イスラエル化する米軍
 【2003年11月25日】 イスラエルの占領ノウハウは、パレスチナ人を怒らせ、テロを増やすノウハウであると感じられる。アメリカ軍がイラク占領の手法をイスラエルから学んでいることは、イラクでもテロが増え、民主的なイラクを作る方向から遠ざかっていることを意味している。ネオコンがイラク戦争を起こしたのは、イスラエルに占領ノウハウを頼らざるを得ない状況を作り、アメリカがイスラエルから離れられない状態にしたかったのではないか。

イスラエルは大丈夫か
 【2003年11月19日】 パレスチナ人は、いずれ多数派になった時点で、自前の国家を持つより、選挙権を獲得してイスラエルを政治的に乗っ取ろうとするだろう。イスラエルがそれを弾圧すれば、アパルトヘイト時代の南アフリカと同様、国際的に非難され、譲歩させられて、パレスチナ人の勝利に終わるだろう。ユダヤ人の国として作られたイスラエルは、その時点で消滅してしまう・・・

罠にはまったアメリカ
 【2003年11月11日】 米軍による統治が始まって数カ月たつと、しだいにイラク側からのゲリラ攻撃は巧妙になった。まるで、駐留米軍が十分にイラク国民に嫌われ、米軍兵士がかなり疲弊し、米国内で厭戦気運が高まるのを待っていたかのように、攻撃が強化洗練されている。これは、フセイン政権が最初から考えていたゲリラ戦の戦法だったのかもしれない。イラク戦争は終わっていないどころか、アメリカ側がどんどん不利になっている。

マハティールとユダヤ人
 【2003年11月3日】 欧米から非難されても懲りないマハティールは、タイの新聞のインタビューの中で「世界の多くの新聞はユダヤ人が所有している。世界のマスコミが『イスラム教徒は全員がテロリストで、遅れたおかしな奴らだ』という間違ったイメージをばらまき、世界の多くの人々がそれを軽信してしまっているという現状の裏側にユダヤ人がいると考えることは、不自然なことではない」と反論した・・・

ガザ訪問記(上)
 【2003年10月20日】 ガザのパレスチナ人は、自分たちの現状を見に来てくれた外国人客に対し、非常に親切にしてくれる。町を歩いただけで、あちこちから声をかけられ「お茶を飲んでいかないか」などと誘われた。彼らは旅行者に対して喜んで市内を案内し、自宅に招いてくれる。そしてパレスチナ問題について、カタコトの英語で説明しようとする。

ガザ訪問記(下)
 【2003年10月20日】 ハンユニスの3日間で私が実感したことは、イスラム教というのは「コミュニティの宗教」だということだった。みんなで同じものを食べ、モスクに集まり、断食などの戒律を一緒に行うことにより、人々の中に一体感が生まれる。イデオロギーではなく衣食住に基づくだけに一体感は強い。宗教を個人的な問題にする政教分離をやると、この強さが失われる。そのため、イスラム教の指導者たちは、欧米型の政教分離や個人主義を嫌うのだと思われた。

タリバンの復活
 【2003年10月1日】 タリバンを復活させてカルザイと連立を組ませようとする動きと、戦国大名にカネを渡して群雄割拠の不安定さを維持しようとする動き、ビンラディンを逮捕せずに放置しておく決定など、アメリカの中枢からは、アフガニスタンを安定させようとする方向の戦略と、不安定にしておこうとする戦略の両方が出ていると感じられる。

バグダッド国連爆破テロの深層
 【2003年8月27日】 イラクの旧秘密警察ムカバラトは国連事務所の爆破テロに関して容疑を持たれて当然だ。だがテロ事件後、アメリカがとった対策は、予想とは正反対のことだった。テロから数日後「米軍やCIAだけではイラクで勃興するテロを撲滅できない」という理由で、米軍占領政府がムカバラトの旧職員を数百人雇い始めた、という報道が出た。これはまるで、警察が人手不足なので容疑者に犯罪捜査を任せる、というようなものである。

イラクの治安を悪化させる特殊部隊
 【2003年8月11日】 もし米軍の行動の一部がイラク人をわざと反米に傾けようとする意図で行われているとしたら、その目的は何か。そこで私が気づくことは、国防総省が主導するブッシュ政権が世界に対してとっている戦略が世界中の人々に反米感情を抱かせようとする「一強主義」であり、その小型版としてイラク人に反米感情を抱かせようとする戦略があるのではないか、ということである。

イラク駐留米軍の泥沼
 【2003年8月6日】 今後さらに治安が悪くなりそうだと考えると、イラクの治安維持に必要な兵力は、1000人あたり10−20人、総勢23万−46万人ぐらいだと考えられるが、今のアメリカには、それだけの兵力をイラクに駐留させる兵力と資金力がない。アメリカは国連に協力を仰がざるを得ない状況になっているが、国連に頼むのはブッシュ大統領にとって屈辱的なことだ。

歴史は繰り返す? 湾岸戦争とイラク戦争
 【2003年7月22日】・・・ホワイトハウスの会議に出たパウエルは、パパブッシュ大統領が何としても戦争をやりたがっているのをみて、停戦案に再修正を加えた。それは、イラク軍の撤退完了までの期限を2日間に短縮することだった。こんな短期間ではイラク側が撤退できず、地上戦に突入せざるを得なかった。停戦案は地上戦を防ぐための案から、地上戦を行うための案に変身した。米軍の現地司令官たちを無視したこの変身によって、パウエルは「現実派」としてブッシュ家に重宝されるようになった。

戦争を乗り切ったバグダッドの病院
 【2003年5月10日】 バグダッド市内に米軍が入ってきた4月6−7日には、米軍戦車が病院の3階部分に対して砲撃を加えた。米軍は、イラク側の無線交信などから、3階に共和国防衛隊の部隊がいることを察知したらしいが、部隊は直前に逃げ出して被害を免れた。砲撃を受け、職員は患者たちを屋外の空き地に避難させた。砲撃で自家発電装置も破壊されたため、病院は完全に停電してしまい、集中治療室に不可欠な人工呼吸器などが止まった。これによって、何人かの患者が死亡した。

「8月15日」状態のバグダッド
 【2003年5月8日】 学生の1人は「あまりに急にフセイン政権が崩壊したので、まだ夢の中にいるようで、何だか実感がない」と言った。民主主義だとかシャリアだとか、学生らが言っているいろいろなことを聞いた私が、今一つ現実感を感じなかった理由はそこにあると思われた。私は、これはもしかすると1945年の8月15日に日本人が体験したことと似たものを、今のイラク人は体験しているのかもしれない、と思った。

2世指導者たちの中東和平
 【2003年5月5日】 パレスチナ問題を解決することができれば、シリアのアサド大統領もヨルダンのアブドラ国王も、若葉マークを脱し、父親の時代とまったく違う新しい国際関係を達成した頼もしい指導者として見られるだろう。それは、もう一人の「2世」であるブッシュ大統領にとっても同じことである。

動き出すパレスチナ和平と外交
 【2003年4月29日】 穏健派であるパレスチナ側のアブ・マーゼン新首相は、現実的な選択として、東エルサレムも放棄し、イスラエルが作った防護壁の存在も容認し、西岸内部の入植地の存在も容認するかもしれない。そうなれば、ロードマップが破綻せずに進むことになるが、その場合、ハマスやイスラム同胞団といった過激派が武力に訴えずに終るかどうか。

動き出すイラクの宗教と政治
 【2003年4月22日】 イラクでシーア派の政権ができても、それがイランのような反米のイスラム主義になるとは言い切れず、むしろこれまで権力の中枢にいたバース党の勢力が行政技能を武器に再び台頭してくるのを防ぐため、シーア派はアメリカや国連を必要としている点を考えると、反米になりにくいのではないか。

ブッシュの「粗暴」なパレスチナ解決策
 【2003年4月16日】イラクに侵攻するときのブッシュの粗野な単純さは世界の人々を怒らせ、絶望させたが、パレスチナ問題に対してもブッシュは新しい和平案「ロードマップ」をぶち上げ、同じような粗野で単純な解決策を目指そうとしている。ブッシュがこの方向で突進し続ければ、世界の人々のかなりの部分が一転してブッシュを支持し、彼の粗暴さを愛するようになり、彼が2005年にロードマップを完成してパレスチナ国家を無事に成立させることができるよう、来年の選挙で彼が大統領に再選されることを望むようになるかもしれない。

消えたイラク政府
 【2003年4月11日】・・・郊外からキルクーク市内に向かう道路は、武装勢力と、それに続く一般のクルド人たちの車の列ができ、大渋滞になった。反対車線には市内から撤退するイラク軍の車が延々と続いていた。市内に入る手前にイラク軍が作った原油の堀があった。これは米軍が迫ってきたときに点火して黒煙を発生させ、米軍の進軍を妨げようとする軍事施設だったが、イラク軍はこの堀に点火しないままキルクークを去った。結局、市内で戦闘は全く行われなかった。

ビンラディン逮捕劇の怪しさ
 【2003年3月15日】 ブッシュ政権は今、イラク侵攻することも撤回することもできない袋小路に入っている。そこから脱するための突破口として「ビンラディンの逮捕もしくは死亡確認」というニュースが使われる可能性がある。

イラク侵攻をめぐる迷い
 【2003年2月10日】 パウエル国務長官に対する「失望」が広がったのは2月5日、イラクがまだ大量破壊兵器を隠し持っているとアメリカが主張する根拠となる「証拠」について、国連で演説したときだった。だが、パウエルの主張はあまりに稚拙だったので、私は逆に勘ぐった。パウエルはわざとアメリカに対する信頼を損ない、世界の反戦運動を煽って、ネオコン主導で進められてきた開戦準備を止め、戦争を回避したいのではないか、という仮説が私の中に生まれた。

イラク日記(7)劣化ウラン弾の町
 【2003年2月4日】 バスラ周辺では、劣化ウラン弾が原因とみられる白血病やガンに冒された子供たちが毎日亡くなり、子供用の墓地に埋められる。今日は墓地の土の上で元気に遊んでいる子供たちも、いつ冷たくなって土の下に埋まる状態になるかもしれない。そんな状態なのに、子供たちは明るく全力で遊んでいる。それは衝撃的という表現を超え、不思議な光景だった。

イラク日記(6)庶民生活
 【2003年1月28日】 イラク政府は全国民に対し、毎月9キロの小麦粉のほか、コメ、植物油、砂糖、塩などを配給している。それらを加味しても、月給5万ディナールでは、食べるだけがやっとだろう。「公務員の月給だけでは、安い野菜は買えても、肉を全く口にできない」とガイドのフセインが言っていた。1ディナール1円の物価水準で計算しても、肉は100グラム450ディナールだから、日本の3−5倍の値段ということになる。

イラク日記(5)シーア派の聖地
 【2003年1月24日】 バクダッドのカズミヤ廟モスクは、建物はイスラム様式で、日本の寺社とは全く違う。だが、人々の信仰形態の雰囲気の中に「浅草」や「善光寺」が感じ取れ、さらにシーア派の聖者「イマーム」と「弥勒菩薩」の源流が同じと分かったとき、日本の古代信仰とペルシャの古代信仰はつながっていて、それがシーア派の中に息づいているのだと感じられる。

イラク日記(4)バクダッドの秋葉原
 【2003年1月17日】 経済制裁で新品の部品が輸入できないため、イラクではジャンク市場(中古部品市場)が発達し、人々は知恵を駆使してパソコンや自動車を修理している。パソコンショップの若い店長は「経済制裁は私たちを苦しめているが、その一方で制裁は、私たちの対処能力や実用的な技術力を向上させている。私たちを潰したいアメリカの制裁が、実は私たちを鍛えて強くしてくれているんですよ」と言って笑った。

イラク日記(3)表敬訪問
 【2003年1月12日】 最前列のベールをかぶった子はクラスの優等生らしく、先生の示唆に従って上手に発言し、クラスをリードしていく役を担っていた。この子の発言のあと、堰を切ったようにあちこちから手が上がり、フセイン大統領がいかに立派に国をまとめているか、ブッシュがいかに血に飢えているか、アメリカがイラクを占領したいのは石油を奪いたいからだ、など「親サダム・反米」の方向で次々に生徒たちが発言した・・・

イラク日記(2)バクダッドへの道
 【2003年1月10日】 ヨルダン国境から3時間ほど入ると、ユーフラテス川の流域に入り、景色は荒野から農村に変わった。高い椰子の木が茂り、畑や牧草地が連なっていた。イラクは一定の食糧を自国内で確保できる国なのだった。その点は、ほとんど砂漠だけのヨルダンやサウジアラビアと違う有利さだ。石油も食糧もあるとなれば、強国を作ることができる。中東を分割支配したいアメリカがイラクを警戒する理由がここにある、と思った。

イラク日記(1)大使館訪問
 【2003年1月6日】 イラクは世界の石油埋蔵量の11%を保有している。採掘して運び出すだけで、全国民が新品の日用品を十分に買えるようになるはずだ。それなのに現実には、ビザをとりにきた日本人に、書記官が中古の品々を詰めたかばんを託している。アメリカは「サダム・フセインが悪いからそうなるんだ」と公言し、その言葉を信じた「善良な」日本人が「フセインに鉄槌を」とばかり、嫌がらせ書記官室の電話を鳴り響かせている。私には、何かおかしいと感じられた。

イラク戦争を乗っ取ったパウエル
 【2002年12月26日】 12月18日、ホワイトハウスで行われた国家安全保障会議で、開戦に慎重だったはずのパウエル国務長官がイラクに対する強攻策を唱えた半面、好戦的だったはずのラムズフェルド国防長官は慎重な対応を主張した。これを「パウエルはタカ派に転向した」と解説する新聞もあったが、そうではなくてパウエルの強硬路線はむしろ、強硬路線を乗っ取ることで中道派がタカ派を封じ込めたのだと思える。対イラク外交の主導権を握った中道派は、中東を不安定にせずフセイン政権を終わらせるという難題を抱えつつ動き出した。

北朝鮮ミサイル船拿捕とイラク攻撃
 【2002年12月17日】 アメリカにとって、北朝鮮から送られてきたミサイルを中東沖で押収しても買い手であるイエメンが沈黙するという事態は、ミサイルが「イラクに運ばれる予定だったに違いない」と主張できることになる。何とか理由をつけてイラクに宣戦布告したい米政権内の右派にとって、これは格好のチャンスだった・・・

サウジアラビアとアメリカ(下)
 【2002年12月9日】 サウジアラビアの執政者アブドラ皇太子は、ネオコン=イスラエル側からかなり追い詰められた状態にあるが、実は追い詰められている状態はブッシュ大統領も同じである。もともと石油利権を使って政界のトップまで登りつめたブッシュ家は、サウジと縁を切ると政治資金を失い、トップの座を維持できなくなる可能性が大きくなる。

サウジアラビアとアメリカ(中)
 【2002年11月26日】 1993年の世界貿易センタービル爆破を計画したFBIの諜報員や、95年のオクラホマ爆破事件に関与した中東系の男たちから、911事件の実行犯やアルカイダまでの一連の人々が、アメリカ本土でテロ活動を行えるようにするには、テロリスト予備軍ともいうべきアラブ系やパキスタン人が、自由にアメリカに入国できる体制を作っておくことが必要で、そのルートとしてサウジアラビアが使われた。

サウジアラビアとアメリカ(上)
 【2002年11月19日】 サウジアラビアは石油危機のときは、石油相場をつり上げて、イスラエルを支援するアメリカなどに圧力をかけたが、その後はアメリカの敵になることを避け、逆に石油価格を安定させることで、アメリカに恩を売るようになった。サウジ王室は国内に新しい軍事基地を作り、アメリカから高価な設備を気前良く買い込み、軍需産業を喜ばせた。後に大統領を2人輩出したブッシュ家と、サウド家やビンラディン家との家族づきあいも深まった。

バリ島爆破事件とアメリカの「別働隊」
 【2002年10月24日】 バリ島爆破事件は、テロの首謀者が本当にアラブ人勢力なのか、それともアメリカがアルカイダという名の「別働隊」を使って世界支配の一環として行っている「作戦」なのか、そのあたりに対する疑問が残るだけに、日本人にとっても、以前よりさらに不気味な時代が始まったといえる。

イスラエル市民運動のラディカルさ
 【2002年10月7日】 私がイスラエルの左翼系市民運動を取材して感じたラディカルさは、左翼に限らず、イスラエル人(ユダヤ人)全体の民族的な特質かもしれない。そう思うのは、ユダヤ人の歴史を見ると、ラディカル(根本的)に考える歴史的な人物を多く輩出してきたからである。

イスラエルの高等戦略
 【2002年9月30日】 イスラエルは、イランやパレスチナ指導者といった、常識では「敵」だと思われている勢力に対して支援を行うことで、有利な戦略を展開している。だがそれとは正反対のこととして、イスラエルが最も頼みとする同盟国であるはずのアメリカには、すきあらばイスラエルの影響力を排除したいと考えている政治家も多い。敵は味方かもしれず、味方は敵かもしれない、という複雑な状況となっている。

イラク攻撃・イスラエルの大逆転
 【2002年9月16日】 イスラエルは「均衡戦略」の餌食になることを拒み、数年かけて逆にネオコンを通じてアメリカの政権を掌握し、ホワイトハウスの主流だった均衡戦略の人々を脇に追いやる、という大逆転を展開した。そしてパレスチナだけでなく、イラクやサウジアラビアなどイスラエルの脅威になっている国々の政権を破壊してアメリカを中東での長い戦争に引きずり込み、アメリカがイスラエルを捨てられない状況を作るのが、今のネオコンの戦略だとみることができる。

米イラク攻撃の謎を解く
 【2002年9月9日】 イラクをめぐるアメリカの「均衡戦略」(バランス・オブ・パワー)は、もはや限界にきている。そのため、ブッシュ政権中の「新保守主義派」の人々は、言うことを聞かない国はぜんぶ潰す、という「アメリカ一強主義」(ユニラテラリズム)に転換し、その一発目としてイラクを潰すのが良いと考えている。これは言い方を変えれば、第一次大戦以降、世界が続けてきた「外交」というもの自体を否定することである。

パレスチナ(4)アラファト官邸で考える
 【2002年8月26日】・・・その光景を見て、私が感じたのは「アラファトはマスコミに守られている」ということだった。マスコミの向こうには「国際社会の世論」があり、それを背景に、欧米の中でイスラエルを牽制したい政治勢力が、アラファトをイスラエル軍の攻撃から守っているのだと思われた。

パレスチナ(3)外出禁止令の町
 【2002年8月19日】 ・・・問題は、昼間の外出禁止令がいつ発動されるか、その日の朝にならないと分からないことだった。今日外出禁止になったら明日は大丈夫とも言えない。2日続けて外出禁止になるときもある。こういう状態なので、人々は日々の仕事の予定が立てられない。以前はラマラから東エルサレムに通勤していた人が多かったが、その多くが仕事を辞めざるを得なくなった。生活水準は下がり、イスラエルとその背後にいるアメリカに敵視と、同時にイスラム教に対する帰依が強まった。

パレスチナ(2)検問所に並ぶ
 【2002年8月12日】 ・・・パレスチナ人たちの側にブーイングが広がると、イスラエル兵が銃口をこちらに向けて行列に近づき、何か語気荒く言い、行列が静かになるまで威嚇し続けた。近くの男性が英語で「彼は、とても失礼なことを言った」と、うんざりした様子で私に説明してくれた。おそらく「お前たちは、きちんと待つこともできない無能な奴らだ」などと言われたのだろう。

パレスチナ・西岸紀行(1)
 【2002年8月5日】  パレスチナ人たちは厳しい占領下で暮らしているものの、服装や持ち物、物腰などは、カイロやアンマンなどアラブの他地域の市民と同様、高度な文明人である。服装では、カイロより西岸の方がおしゃれかもしれない。昨今の西岸の女性の間では、光沢のある薄いクリーム色のスカーフが流行っているようだった。真珠色のスカーフは、おしとやかな感じがした。

アラブ統一の夢は死んだか
 【2002年7月30日】  詩人タハ氏の話を聞いていて、日本の全共闘世代の心境の変化と似ている、と思った。日本にかつて理想主義の「反米闘争」があったように、エジプトにはナセル主義があり、それから30年以上たった今、理想主義は現実主義に取って代わられているのだった。とはいえ、パレスチナ問題やイラク制裁問題を目の当たりにしている今のエジプトの青年たちにとって、政治的な情熱は昔の話ではなかった・・・

中東問題「最終解決」の深奥
 【2002年7月22日】 アメリカがイラクを攻撃する際、イスラエルも地上軍をイラクに侵攻させる可能性がある。イスラエル軍が侵入してきたら、ヨルダン国内は戦場となって「ハマス」などパレスチナ人の武装組織が力を持ち、やがて矛先がハシミテ王家に向かい、王政が倒される可能性がある。ヨルダンが「パレスチナ人の国」になったら、パレスチナ人をヨルダンに強制移住させるイスラエルの計画が実行しやすくなる。

米イラク攻撃の表裏
 【2002年7月16日】 アメリカはテロ戦争を起こすことで経済悪化に対する国内からの批判を回避することに成功したが、アフガン戦争が一段落した後の今春以降、再び企業スキャンダルや株安など経済関係の難問が持ち上がっている。ブッシュ政権は世界のどこかで戦争を続けない限り、米国民の不満が高まって政治生命を維持できなくなっている・・・

米軍に揺さぶられる中央アジア
 【2002年7月8日】 中央アジアのトルクメニスタンでは、アメリカのアフガン攻撃が始まってしばらくすると、それまでニヤゾフ大統領に忠誠を誓っていたはずの政府高官たちが、少しずつ反旗を翻すようになった。4月ごろからは、米国務省などアメリカ政府の関係者が、この反政府勢力と接触するようになり、反政府勢力を支持する言動を見せ始めた。

アフガニスタンの通貨戦争
 【2002年6月21日】・・・ラバニ政権がカブールを撤退する前に刷った紙幣は、通し番号の冒頭の部分が1から34までだったが、モスクワで印刷を再開した新札には35以上の数字がついていた。やがてタリバンは攪乱作戦に気づき、通し番号の冒頭が35以上の紙幣を無効にした・・・

タリバン残党とインド・パキスタン戦争
 【2002年6月10日】 米軍がパキスタン国内を攻撃し始める前に、不正とはいえ国民投票をやっておいて良かったということは、すぐに明らかになった。イスラム過激派の側からムシャラフに対する反撃が始まったからだ。5月9日にはカラチで爆弾テロ、5月14日にはカシミール地方で武装集団がインド軍の兵士らが住む住宅街に突入して銃を乱射する自爆テロがあった。この後、インドとの関係は極度に悪化した。

変質するパレスチナ問題
 【2002年4月4日】 サウジアラビアが急にパレスチナ問題で和平提案を始めたのは、911テロ事件をめぐって米当局とサウジ当局との水面下のつながりがあったことと関係がありそうだ。事件に協力した見返りとして、アメリカはサウジがパレスチナ問題を解決してアラブ世界で指導的な立場につけるように取り計らい、その結果出てきたのがサウジ和平案なのだと推測できる。

ソマリアの和平を壊す米軍の「戦場探し」
 【2001年12月24日】 アメリカは、長い内戦を乗り越えて国連の協力下で民主的な国づくりを始めているソマリア暫定政府に言いがかりをつけ、「やらせ」の戦争を起こして破壊しようとした。その理由は、アメリカがアフガニスタン平定後もどこかで戦争を続けなければ、ブッシュ政権に都合が良い戦時体制を維持できないからだろう。

オサマ・ビンラディンとCIAの愛憎関係
 【2001年11月5日】 1996年、スーダン政府がアメリカに「ビンラディンをアメリカで引き渡したい」と持ちかけたが、CIAは断ってしまった。このときアメリカがビンラディンを引き取っていれば、9月11日の大規模テロ事件は防げたわけだが、実はCIAは98年にもビンラディンを捕捉するチャンスを自ら逃している。

よみがえるパシュトニスタンの亡霊
 【2001年10月15日】 パシュトン人は、誇り高く、古式ゆかしい山村の人々である。彼らは「傀儡政権」を嫌ってイギリスやソ連の支配と戦い、パキスタンにも服従しなかった。アメリカや「国際社会」が彼らの歴史と伝統を理解・尊重せず、タリバンを倒して元国王を指導者に仕立てれば、パキスタンも内戦に陥り、ベトナム戦争以上の大失敗になるだろう。むしろ、アメリカはタリバンと交渉し直した方がいい。

パキスタンの不遇と野心(2)
 【2001年10月10日】 10月8日、アメリカ軍のアフガニスタン空爆を映し出すテレビ画面に世界中の目が釘付けになっている時、パキスタンの首都イスラマバードでは、テレビに映らない、しかしアメリカにとっては空爆そのものが成功するかどうかより重要かもしれないと思われる、もう一つの戦いが進行していた・・・

パキスタンの不遇と野心
 【2001年10月3日】 軍事政権というと一般には悪いイメージがあるが、冷戦後の10年間ずっと安定した文民政権ができるのを希望しながら裏切られ続けたパキスタンの国民はそう思っていない。何回やっても不正を止められないブットやシャリフのような文民政治家より、ムシャラフのような軍人の方がずっとましだと思っている。

アメリカを助けるオサマ・ビンラディン
 【2001年9月27日】 オサマ・ビンラディンやサダム・フセインがいるばかりに、中東では自立した穏健な政治体制が育たず、常にアメリカに頼らざるを得ない不安定な政権ばかりになっている。中東で安定が続けば、イスラム教の考え方に基づきつつ西欧合理主義を取り入れた経済的に豊かで自由なイスラム社会が作れるかもしれない。しかし、オサマやサダムと、アメリカの右派とが結託して中東の発展を防いでいる。エジプトの知識人はそう考えていた。

「戦争」はアメリカをもっと不幸にする
 【2001年9月18日】 ソ連軍が侵攻してきた20年前からずっと戦場であり続けたアフガニスタンは、さらなる攻撃を受けても、人々はペシャワールに戻るだけで、新たに失うものが比較的少ない。それに比べ、アメリカは今回の「戦争」によって失うものがあまりに大きい。

米大規模テロの犯人像を考える
 【2001年9月13日】 今回の事件を機に、アメリカの世論が自国の対イスラエル政策に疑問を持った場合、ブッシュ政権がそれに呼応して外交政策を微妙に変える必要が出てくるが、そんな動きは強力なイスラエルロビーからの圧力を受けて潰れる可能性がある。その矛盾を避けるため、早々と「悪役」をオサマ・ビンラディンに設定したのではないかと勘ぐれる。

アメリカのテロ事件を読む 【2001年9月11日】

戦争を準備するイスラエル
 【2001年7月23日】 イスラエル軍の報復作戦は、パレスチナ側からのさらなる報復を呼び、それが次第にエスカレートした結果、イスラエル側では右派の人々を中心に「パレスチナ自治政府を潰さざるを得ない」という主戦論が強まり、戦争準備が進められることになった。

難民都市ペシャワール(2)
 【2001年5月28日】 ・・・86歳の長老に、タリバンをどう思っているか、思い切って尋ねてみた。すると「コーランとイスラム教にのっとって統治するのが正しい政治で、それをやらないのであれば、たとえ為政者が自分の父親であったとしても、許すことはできない。彼らが正しいかどうか、それはアラーだけが知っていることだ」と含蓄のある言葉を返して微笑んだ。

難民都市ペシャワール(1)
 【2001年5月21日】 アフガン国境に近いパキスタンの町ペシャワールには、「ユニバーシティタウン」(大学町)という3つめの市街地があり、最も立派な家が並んでいる。ここにはペシャワール大学があり、そのため「大学町」と呼ばれているのだが、この町を発達させてきたのは大学ではない。それは「アフガン難民」であった・・・

パレスチナ見聞録(4)イスラエル市民生活
 【2001年4月23日】 私が会ったイスラエルの人々は、左派の人も右派の人も、まじめで誠実な感じで好感を持てた。兵士や私服公安担当者などは威圧的で嫌な奴が多かったが、彼らも勤務時間外に市民として会うなら、違った表情を見せるのだろう。しかし私は、イスラエルの市民生活の未来を考えたとき、あまり明るい展望を描くことができない・・・

パレスチナ見聞録(3)分裂する聖都 (4月16日)

アメリカとイラク・対立の行方 (2月19日)

イスラエルに未来はあるか (2月12日)

【短信】イスラエル選挙で「冷戦後」が終わった中東 (2月7日)

金融の元祖ユダヤ人 (2月1日)

パレスチナ見聞録(2)聖地争奪戦:一神教の親近憎悪 (2001年1月22日)

パレスチナ見聞録(1)ガザ地区 (2001年1月15日)

世界の出稼ぎと移民(1)アフガニスタン
 【2000年9月4日】 パキスタンでは、IDカード(住民登録カード)を「買う」ことができる。役人にお金を渡し、市民登録をするのである。IDカードがあればパキスタン国民としてパスポートをとれるから、アフガン人の難民キャンプでは、パキスタン人になりすましてペルシャ湾岸諸国などに出稼ぎに行く人も多い。戦争が長引くアフガニスタンでは、海外への出稼ぎは最も実入りの良い収入源となっている。

日本がよみがえらせたアフガンの村
 【2000年7月17日】 アズロは復興の真っ最中であった。97年には数100人しか住んでいなかったが、今では1万人前後がこの地域に住んでいる。谷沿いでは灌漑用水路の工事中で、下流ではすでに小麦が青々と実っていた。とはいえこの村で正業から得られる収入は少なく、一部の人々は麻薬原料のケシ栽培や森林の乱伐に手を染めていた。

イスラエルとレバノン
 【2000年6月12日】 イスラエルは、レバノンの微妙な政治バランスの中でキリスト教勢力を支援したが、イスラエル建国そのものがレバノンのバランスを崩してしまった。1948年の建国直後から3回の中東戦争でイスラエルの領土は拡大したが、北部のパレスチナ人たちは北隣のレバノンへと追い出されて難民となり、レバノンにイスラム教徒の急増をもたらした。イスラエルに向かってゲリラ攻撃を始めたパレスチナ人を鎮圧するため、22年間にわたるパレスチナのレバノン南部占領が始まった・・・

アフガニスタン紀行(3)禁断の音楽
 【2000年6月1日】 アフガニスタンでは、音楽は「反イスラム的」だとして禁止されている。だが、カブールを出て2つ目の検問所を過ぎた後、運転手はおもむろに片足を上げ、靴下とすねの間に挟まっていたカセットテープを取り出した。彼は、それをカーステレオにセットした後、こちらをちらりと見て、いたずらっぽく笑った。車内には、スパイスの効いたアフガンの歌謡曲が流れ始めた・・・

アフガニスタン紀行(2)地雷の話
 【2000年6月1日】 ・・・道端で立ち小便をする場合は、注意が必要だ。道路の近くに崩れた建物の壁があったりすると、ついその物陰に行って用を足そうとしてしまうが、それは危険である。その建物がかつてソ連軍の検問所だったりした場合、周囲に対人地雷が敷設されている可能性があるからだ。

アフガニスタン紀行(1)カブールの朝
 【2000年5月29日】 ・・・車は、カブール市内を南に向かっていた。中心街は内戦で廃墟になっていた。破壊から7年しか経っていないのに、何百年も打ち捨てられた古代遺跡のようだ。とはいえ逆に、7年もたつのに復興は始まらず、きのう戦争が終わったかのようで、商人は路上に粗末な小屋を作り、営業している。悲惨な状況だが、美しい朝の光に照らされて人々がうごめいている光景には活気が感じられた。

モルッカ諸島:宗教戦争という名の利権争い
 【1月31日】 インドネシアのモルッカ諸島で昨年初めから続いている、キリスト教徒とイスラム教徒の間で殺し合いの遠因は、50年以上前、まだこの地がオランダの植民地だったころ、オランダ当局がキリスト教徒を重用する政策を行っていたことにある。2つのコミュニティは、インドネシア独立後の50年間、政治的に利権を争うライバルだった。

チェチェン戦争が育んだプチンの権力
 【1月21日】 ロシア軍のチェチェン攻撃は、共同住宅に対する連続爆破テロがきっかけだったが、チェチェン人の犯行とされているこの事件、実はロシア当局が関与している可能性がある。戦争を起こすことで自らの権力を広げてきたと考えられるプチン大統領だが、欧米諸国の評価は高い。エリツィン前大統領と同様、欧米と協調する政策を貫きそうだからだ。

チェチェンをめぐる絶望の三角関係
 【2000年1月17日】 ペレストロイカによってチェチェンでも宗教信仰が自由になると、サウジアラビアの富豪などが、モスクを建ててくれたり、メッカ巡礼に資金援助をしてくれたりした。だがそれは「ひも付き」だった。サウジの厳格なイスラム信仰と原理主義の考え方が、伝統的な信仰を押しのけ、ロシアとの武装闘争の泥沼へと陥らせた。

真の囚人:負けないチェチェン人
 【2000年1月13日】 スターリン時代のソ連、多くの民族が強制移住の苦難の中で、服従の精神に落ち込んでいった時、唯一非服従の精神を貫いたのがチェチェン人だった。作家ソルジェニーツィンが「正真正銘の囚人」と呼んだ彼らが、強圧的なロシアとの200年にわたる戦いに屈しなかった背景には、信仰と血縁の関係が密接につながっている神秘主義イスラム教の存在があった。現在のロシア軍など、実は彼らにとって、大した敵ではない。

ミレニアムテロ:アメリカが育てたイスラム過激派
 【1999年12月29日】 「アフガン帰り」たちの世直し運動は弾圧されたが、彼らはアフガニスタンで培った軍事技術を持ち、爆弾を作ったり政府要人を銃撃するのは、お手のものだった。中東の反政府・反米運動はテロリズムと結びつき「イスラム原理主義運動」になった。アフガン帰りを訓練したアメリカは結局、自分たちを狙うテロリストを養成したことになる。

解体するインドネシア:海洋イスラム国アチェの戦い
 【12月16日】 インドネシアの最も西にあるアチェ地方は、欧州・中東と東アジアを結ぶ「海のシルクロード」に位置しており、昔から商業都市国家として栄えていた。彼らはインドネシアの中心であるジャワ島とは違う文化を持ち、それがアチェ独立要求の背景にある。アチェ住民のほとんどは独立を支持するが、ジャワ宮廷の陰謀の伝統を受け継ぐインドネシア政府の策に翻弄され、指導者間の対立も起きている。

アラブ世界の女性解放は一進一退
 【12月2日】 ペルシャ湾岸のアラブ諸国では、女性に参政権がない。クウェートでは、女性に選挙権を与えると国王が宣言したが、議会が否決してしまった。経済面では、仕事を持つ女性が増え、地位向上は進み始めたが、政治面では、1960年代に中東戦争が始まり、女性軽視のイスラム主義勢力が中東全域で台頭して以来の停滞が、まだ続いている。

生まれながらの不幸を抱えた国、パキスタン
 【11月29日】 パキスタンでは、前首相もその前も、国有銀行から融資させて返さず、儲かる事業を一族に発注し、極度の腐敗が続いてきた。その背景には、国の基礎がないままにイギリスからの独立し、その後はインドとの対立やアフガニスタンの混乱などの影響を受け、安定した内政を築けなかった苦難の歴史がある。10月のクーデターは腐敗一掃を狙ったものだが、前途は多難だ。

パレスチナ・もう一つの2000年問題
 【11月5日】 パレスチナ(イスラエル)では、コンピューター問題ではない「2000年問題」が起きている。キリスト教にとって来年が、キリスト生誕2000年目であることから、例年の2倍以上の巡礼客がパレスチナを訪れると予測される。その準備を急ぐキリスト教勢力と、それに反発するイスラム教勢力、そして2000年祭を政治的に利用したいイスラエルの思惑がせめぎ合い、対立を生んでいる。

聖戦の泥沼に沈みゆくパキスタン
 【10月14日】 パキスタンで10月13日に起きたクーデターは、パキスタンが「アフガン化」していく第一歩になるかもしれない。冷戦時代を通じてアメリカ寄りの政権が続いたが、その後、イスラム主義組織「タリバン」を使って隣国アフガニスタンの内戦に介入したことが逆に、反米・親イスラムの勢力をパキスタンの軍や政治組織の中に広げてしまった。

イスラム共和国の表と裏(1)乗っ取られた革命
 【9月21日】 1979年に起きたイランのイスラム革命とは、イスラム教に基づいて、アメリカなど欧米型の社会よりも、人々が幸せになれる社会を作るためのものだった。少なくとも、革命が始まった当初は、そう思われていた。だが、その後が問題だった。「革命が、ホメイニ師らイスラム聖職者たちによって乗っ取られてしまったことが、問題の始まりだった」と知識人たちは言う。

イスラム共和国の表と裏(2)ひそやかな自由化
 【1999年9月27日】 テヘラン北部の高級住宅街では、イスラムの教えも、玄関から中には入ってこない。そこでは、自宅に友人たちを招いて開くパーティが盛んだが、女性たちが玄関でチャドルを脱ぐと、下には水着のような大胆な格好をしている人が多い。酒を飲み、タバコを吸い、ダンスに興じ、宴たけなわになるとボーイフレンドに肩を抱いてもらう。

「水は命」を思い知る中東の水戦争
 【8月2日】 中東の地中海側では今年、60年ぶりの水不足に襲われている。こんな時には「水の確保こそ安全保障」という現実を痛感する事態となる。中東戦争の勝者であるイスラエル人は、渇水期でも何とか平常通りの生活を送れているが、「負け組」であるパレスチナ人とヨルダン人は、悲惨な目にあっている。

イスラエル英雄伝:ネタニヤフとバラク
 【6月7日】 イスラエル新首相のバラクと、前首相のネタニヤフは1970年代、パレスチナゲリラと戦うイスラエル軍の特殊部隊に所属する「英雄」だった。だが、二人が戦闘から学んだ政治観は対照的なもので、その違いから二人は30年後、首相の座をめぐって選挙戦を戦うことになった。

分解するイスラエル(1)2種類のユダヤ人
 【5月28日】 イスラエルには、欧州から移民してきたアシュケナジーと、中東・北アフリカからの移民であるスファラディという、2種類の系統の人々が、2大勢力として存在する。アシュケナジーはエリート層で労働党支持、スファラディはブルーカラー層でリクード支持、というのがこれまでの傾向だった。5月の選挙ではこの2項対立が崩れ、政権交代につながった。

分解するイスラエル(2)「誰がユダヤ人か」をめぐる陣取り合戦
 【6月2日】 イスラエルでは選挙を前に、市民権授与や出生・結婚などに関する登録を管轄する内務省の大臣ポストをめぐり、それまで大臣ポストを握ってきた正統派ユダヤ教徒の政党シャスと、シャスの大臣によってイスラエル市民権を拒否されがちなロシア系移民で作る政党との間で、激しい対立があった。「ユダヤ人」の定義をめぐり、イスラエルの国論は二分している。

激動のインドネシア:煽られた「聖戦」
 【5月18日】 キリスト教徒とイスラム教徒とが半分ずつ住むモルッカ諸島のアンボンは、かつて異教徒間のハーモニーを誇りとしていた。雰囲気が変化したのは、組織的な扇動によって昨年11月、ジャカルタでイスラム教徒がキリスト教徒を襲撃する事件が起きてからだ。その後アンボンで殺し合いが始まると、待っていたかのように、キリスト教徒に対する「聖戦」を呼びかけるイスラム教団体がいくつも作られた。

「原理主義」に疲れたイランの人々
 【4月23日】 イランで権力を握る原理主義派の長老たちと、「民主主義」を求める穏健派の勢力との対決の頂点となったのが、今年2月の地方議会選挙だった。その半年ほど前から両派の暗闘が始まり、民主活動家への殺人や誘拐が続いたが、犯行は原理主義派が掌握する情報省の職員によるものと判明し、形勢は穏健派に有利となった。いまや、首都テヘランは、中東でも自由度の高い都市として数えられるようになった。

イラン:「革命」を知らない子供たち
 【4月21日】 イスラム革命を成功させたホメイニ師が目指したのは、「イスラム」と「民主主義」が合体した体制だった。だが、聖典を解釈して政策にする聖職者集団を、国民投票によって選ぶという「イスラム共和体制」は、権力内部の闘争やイラン・イラク戦争、経済封鎖などによって歪められた。それが革命から20年たった今、若い世代の不満につながっている。

世界をゆるがしたクルド人(上)
 【3月9日】 2月中旬に逮捕されたクルド人ゲリラの指導者、アブドラ・オジャランは、多くのトルコ人にとって「悪魔」だが、独立派クルド人にとっては「英雄」だった。シリアが彼を追い出したのは、イスラエルとトルコの軍事協力で挟み撃ちされるのを恐れたからだった。彼は逮捕されるまで4カ月間の逃避行を続けたが、その過程で西欧諸国の「人権重視」政策の限界が露呈してしまった。

クルド人(下)オジャランの悲劇
 【3月12日】 180年前に血みどろの戦いを繰り広げた後にトルコから独立したギリシャの人々にとって、クルド人の苦悩は十分に理解できるものだ。だが、クルド人ゲリラの指導者オジャランがギリシャに入国したと分かった時、ギリシャ政府は彼をやっかい者扱いした。トルコとの軍事対立を激化させるより、軍事費縮小の方が大事だ、との政策をとっていたからだった。

変わり身の早さで中東の激動を泳ぎ渡ったフセイン国王
 【1999年3月5日】 16歳で即位した当初は、危なげな存在だったフセイン国王が、結局は中東で最も長く在位した国家統治者となり、現在までヨルダンが発展することができた背景には、国王の「変わり身の早さ」があった。フセインの後を継いだ36歳のアブドラ新国王は、外交や経済政策分野では、父親ほどの手腕は期待できない。そんな中、周辺国の老練な政治家たちのうごめきが始まっている。

過激化するイスラム:パキスタンに広がる殺し合い
 【1998年11月28日】 パキスタンが掲げてきた欧米風の国家システムが、経済悪化などによって崩壊しつつある。隣国アフガニスタンでイスラム原理主義政権が誕生した影響もあり、イスラム教に基づく村落社会の権威が復活し、ライバル派閥どうしの殺し合いが各地で発生している。政府は、イスラム法の強化を打ち出したが、これは首相の独裁につながると批判されている。

アメリカ大使館爆破テロの背景をさぐる
 【1998年8月14日】 ケニアとタンザニアで起きたアメリカ大使館爆破テロの裏には、中東のパレスチナ和平交渉の座礁がある?・・・イスラム主義者が犯人という証拠はないものの、エジプトの大統領が「世界中がテロの舞台となりうる」と警告した矢先の事件だっただけに、事件とイスラム主義組織との関係が気になる。

産油国の金庫は空っぽ - 政治不安呼ぶ原油安
 【1998年7月28日】 日本では歓迎される原油安だが、サウジアラビアなど中東の産油国では、国家財政に致命的な打撃を与えており、王室を攻撃するイスラム原理主義が広がりそうな気配だ。石油収入を増やすため、アジア経済危機など需要減の要因を無視してOPECが生産枠を増やしたことが、逆に石油相場の下落を招いてしまった。

敵と味方が逆転しはじめた中東情勢
 【1997年12月18日】 アメリカ対イラン、イラン対イラクといった、これまでの中東の敵対構造が急速に溶解しはじめている。一方、強い信頼関係があったはずのイスラエルとアメリカの関係が危うくなっている。ソ連崩壊後、権力の真空地帯となった中央アジアの莫大な地下資源の存在が、回りまわってイスラエルの孤立につながっている・・・。

トルコはヨーロッパの永遠の敵か
 【1997年11月8日】 ヨーロッパ人は16世紀、オスマントルコに攻め込まれて以来、トルコ人を敵視してきた。トルコがEUに入りたいと希望しても、色々な理由をつけて断り続けるのはそのためだ。地中海の島国キプロスをめぐるトルコとギリシャの紛争も、この敵対構造の中にある。

国家体制の危機しのび寄るサウジアラビア
 【1996年11月28日】 豊富な石油収入で豊かな生活を謳歌してきたサウジアラビアの人々に、貧困への不安が広がっている。湾岸戦争による軍事出費の増大と石油価格の下落が主因だ。サウジ政府に巨額の軍事出費を強いたアメリカに対する反感も強まり、米軍施設への爆弾テロが相次いでいる。その真の標的は、成金体質で腐敗している王室だともいわれている。

終わらないアフガン内戦
 【1996年10月30日】 アフガンでは以前から、戦争が終わると間もなく次の戦争が始まる、という歴史が繰り返されてきた。1989年にソ連の侵略が終わったらゲリラどうしの戦いへと突入したし、60年代にイギリスのテコ入れで立憲君主制のもとでの政治・社会制度の近代化が進められた時も、9年後にはソ連に後押しされた共産主義勢力がクーデターを起こし、混乱期に入っていった。今回もまた、そうしたパターンから逃れることは難しい要因がたくさん残っている。



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