変わり身の早さで中東の激動を泳ぎ渡ったフセイン国王1999年3月5日 田中 宇 | |
2月7日に63歳で亡くなったヨルダンのフセイン国王が、1952年に16歳で即位したとき、欧米の中東専門家の多くは、国王の在位期間はそれほど長くないだろう、と予測していた。父親のタラール国王は、1951年に即位したものの、病弱であったため1年後に退位させられ、その跡を継いだのが長男のフセインだった。 フセインは若かった。ヨルダンは、サウジアラビアやイスラエル、シリアといった強国に囲まれた小国である上、この地域を植民地支配していたイギリス、そしてイギリスの世界支配を引き継いだアメリカの意向も無視できなかった。 そうした中で、上手な国家運営をしていくことは、16歳の若者には望めないだろう、と多くの人は考えた。中東全体の政治情勢が変われば、ヨルダンという国自体がなくなってしまいかねなかった。 ところが現実は、大方の予想を裏切った。フセインは、47年間も国王であり続けた。フセイン国王は、イスラエルに対して1967年と73年の2回、戦いを挑んで敗れた上、1970年には国内にいたパレスチナゲリラと政府との対立が激しくなって混乱するなど、何度も窮地に追い詰められた。本人に対する暗殺未遂も、無数にあった。 1991年の湾岸戦争時はイラクに味方したため、イラクの敵だったサウジアラビアやクウェートから敵視され、サウジなどに出稼ぎに行っていたヨルダン人の多くが、国外退去させられるといった、手痛いしっぺ返しを受けた。 それでも何とか難局を乗り切って、晩年には、アメリカを中心とする中東の外交政策にとって、なくてはならない存在となっていた。たとえば昨年10月、イスラエルとパレスチナの代表がアメリカで会い、ワイ和平合意を結んだとき、仲介役として呼ばれたのはフセイン国王だった。 ●国際情勢を読み取って右へ、左へ 当初は危なげな存在だったフセイン国王が、結局は中東で最も長く在位した国家統治者となり、現在までヨルダンが発展することができた背景には、フセイン国王の「変わり身の早さ」があった。 たとえば、こんな風だ。1958年のこと、当時ソ連寄りだったシリアとエジプトが「アラブ連合」として合併した際、国王はアメリカ寄りの政策をとり、当時まだ王政だったイラクと合併して「アラブ連邦」を作ることを決めた。シリアとエジプトの組み合わせはソ連主導で中東を統合しようとする動き、ヨルダンとイラクの組み合わせはアメリカ主導で中東を統合しようとする動きだった。 だがヨルダン国民の多くはパレスチナ人で、米英の支援によって軍事力を急増させたイスラエルに、家や土地を奪われて難民となり、ヨルダンに流れてきた人々であった。そのため国王の親米英的な態度には、国内から批難が高まった。こうした動きを見るや、フセイン国王は態度をころりと変え、米英に対して急に距離を置く姿勢を取り始めた。 それまでヨルダン軍は、イギリスから将軍を招き、司令官をやってもらっていたのだが、その将軍をクビにして、米英に迎合しない姿勢を国民に見せたりした。その間に、お隣のイラクでは、アラブ連邦への加盟に反発する勢力が強まり、クーデターで王政が倒されて共和制になってしまった。フセイン国王も、英米寄りの態度を変えなかったら、当時のイラクのファイサル国王と同様、クーデターで殺されていたかもしれない。(ファイサルはフセインの祖父の弟だった) 「変わり身の早さ」は、死去の直前にもみられた。フセイン国王は昨年7月から、ガンの治療のため、アメリカに滞在していたが、今年1月19日に突然帰国し、後継ぎの皇太子を弟のハッサンから、長男のアブドラに変更する決定をした。そして1週間だけ祖国に滞在した後、再び容態が悪化してアメリカに戻って行った。弟のハッサン(51歳)は、1964年に皇太子に指名された後、35年間も自分の番が来るのを待ち、国王になれる直前に外されてしまったのだった。 フセイン国王は昨年からすでに、自分の後継ぎは弟ではなく、4男のハムゼ王子にしたいと考えている、と報じられていた。フセイン国王には何人かの息子がいるが、長男のアブドラ王子(36歳)らは、現在の妻であるノール王妃(アメリカ出身)の息子ではなく、離婚した前妻(イギリス出身)との子供だ。ノール王妃との間には2人の息子がおり、その長男が18歳のハムゼ王子だった。 そういった経緯から、フセイン国王はハムゼ王子を皇太子にしたかったのだが、年がまだ若いこともあり、もう少し先にしようと考えていたようだ。ところが自分の容態が悪化し、余命が短いと分かったため、国王は急遽帰国。そして、皇太子をハムゼ王子に変える王室会議を開こうとしたが、これまで皇太子だったハッサンの側から強い反対が出た。 国王は、自分が病床にいる間、ハッサンに摂政をしてもらっていたが、彼が国王に無断で軍の人事を動かしたという理由で解任し、皇太子から外してしまった。王室内で対立が続く中、国王の容態は再び悪化したため、とりあえず長男ということで、王室内外の理解を得やすいアブドラ王子を代わりの皇太子に指名して、国王はアメリカに戻った。 再び病状が良くなったら、またヨルダンに戻ってもう一度皇太子をアブドラからハムゼに変えればいい、と国王は考えていたようだが、結局、寿命がそれを許さなかった。 ●新国王は老獪な周辺国の政治家たちとやりあえるか フセイン国王が即位したときは16歳だったわけだから、それに比べれば36歳のアブドラ新国王は、多くの経験をしているわけだが、これまで彼は軍をまとめてきた経験はあるものの、外交や経済政策などの分野では、父親ほどの手腕は、まだ期待できない。そんな中、周辺国の老練な政治家たちのうごめきが始まっている。 フセイン国王の死から1週間もたたない2月12日、パレスチナ・PLOのアラファト議長が、パレスチナとヨルダンの連邦国家構想に関心があると述べ、アブドラ新国王がこの問題に取り組んでほしいとの意思を示した。 この構想はもともと、1973年にフセイン国王が、イスラエルに占領されていたヨルダン川西岸を取り戻すために、提案したものだった。その後ヨルダンとイスラエルは敵対が強まり、棚上げされていたが、1985年にはパレスチナ人の側(民族評議会)がこの案を再提案し、最初はヨルダンも乗り気だった。 だが、ヨルダンは長年にわたってパレスチナ難民を受け入れ、国籍を与えてきたため、国民の過半数がパレスチナ人(ヨルダン川西岸出身の人)である。これに対してヨルダン王室は、ヨルダン川東岸の人々を支持母体としている。1994年以来、ヨルダン政府はイスラエルと仲良くしてきたこともあり、ヨルダンのパレスチナ人は、必ずしも王室支持ではない。 もしヨルダンとパレスチナが連邦国家になったら、ヨルダンの政治支配の中心がパレスチナ寄りとなり、王室の権力が落ちて、アラファト議長のPLOが権力を握る可能性が強くなる。 そのためフセイン国王は、パレスチナ独立の可能性が高まってくるにつれ、「連邦国家構想については、パレスチナ独立後に話し合おう」と主張し、先延ばしの姿勢を強めた。 パレスチナは今年5月に独立宣言をする可能性が大きくなっている。1994年にイスラエルとアラブ側とで結ばれたオスロ合意によって、イスラエルが5年かけてパレスチナ占領地から撤退することになっていたのだが、その後イスラエルでは右派のネタニヤフ政権が生まれ、撤退を拒んだ。合意で定められた交渉期限である5年間は、今年5月に切れる。パレスチナ側としては、その後はいつでも独立宣言できる状況になると考えている。 パレスチナとヨルダンが連邦国家になった場合、政治力にたけたフセイン国王が相手だと、アラファト議長も苦戦するだろうが、今後の相手は経験の少ない新国王である。 しかもヨルダンは、かたちの上では議会制民主主義をとっているが、議会は国王の言いなりという傾向が強い。主な野党勢力は、前回の選挙の際、選挙制度が不公正だとして選挙への参加を拒否して以来、政界から完全に外されている。 そんな中、今後は国王の交代を機に、政治の民主化を進めるべきだという声が強まるかもしれない。そしてその背後でアラファト議長が、勢力拡大のために糸を引いていたとしても、不思議ではないだろう。ヨルダン王室としては、後継ぎ問題で分裂している場合ではないのである。 ヨルダンとしては、連邦国家構想を拒否することもできる。だがこの構想に対しては、イスラエルも乗り気だ。パレスチナ人がイスラエル敵視の強いイランやシリアと仲良くなるより、親米・親イスラエルのヨルダンと組んでもらった方がいいからだ。アラファト議長は、その辺のことも計算した上で、今の時期に連邦国家構想をぶち上げて、ヨルダンが断れない状況を作りたいのかもしれない。 とはいうものの、アラファト議長も、パーキンソン病ではないかと指摘されるなど、健康不安説が飛び交っている。PLOは権力闘争がきつく、アラファト議長は部下の裏切りを恐れ、後継者を指名していない。アラファト議長に、もしものことがあったら、その後のPLOは、権力闘争によって内部から崩壊するかもしれない。 アラファト議長だけではない。心臓が悪いと言われているシリアのアサド大統領や、エジプトのムバラク大統領など、アラブ世界では、後継者を指名しないまま、独裁型の政治を長く続けている権力者が多い。アラブ世界には今後、先行き不透明な時代が待ちうけているのである。
関連サイト(英語)エンカルタ百科事典 ●Analysis: Hussein's Death May Be Harbinger of Regional Change ニューヨークタイムスの解説記事 アラビックニュースの記事 エンカルタ百科事典
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