ミレニアムテロ:アメリカが育てたイスラム過激派1999年12月30日 田中 宇パキスタン北部、アフガニスタン国境近くの町ペシャワールにある公設市場は「モスレム市場」という名前だが、これは以前からのものではない。以前は「オサマ市場」という名前だった。今年、ペシャワールの当局が、この名前は危険だとして、市場の運営組織に対して、名称変更をするよう求めた結果、名前が変わった。 実はペシャワールの周辺地域では、いくつもの商店や会社に「オサマ」という名前が付けられている。生まれた子供の名前につける親もいる。 「オサマ」は「オサマ・ビンラディン」という人物の名前である。イスラム情勢に詳しい読者は、この名前をご存じだろう。中東や旧ソ連の「戦うイスラム教徒」にとって、彼は英雄である。 オサマは、サウジアラビアで大手建設会社を経営する一族に生まれた。彼の名前が、中東全域に知れ渡るようになったのは、1979年にソ連がアフガニスタンに侵攻してからだった。 ▼CIAの軍事訓練センターに集まったイスラム青年たち このとき、ソ連はアフガニスタンを自らの勢力圏内に置き、その南にあるインド洋へと、覇権を広げようとしていた。当時はまだ、冷戦の真っ盛りで、この侵攻はアメリカの危機感をつのらせた。 だが、ベトナム戦争の敗北以来、アメリカは自国民を兵士として外国の戦線に送ることができなくなっていた。そのためアメリカは、ソ連軍とイスラム教徒を戦わせることで、アフガニスタンでの戦争に勝とうとした。イスラム教など宗教信仰をすべて「迷信」として弾圧する方針を持った社会主義のソ連が、アフガニスタンを侵略したことは、中東全域のイスラム教徒の怒りをかっていた。 パキスタンからサウジアラビア、ヨルダン、エジプトなどの中東諸国で、アフガニスタンのイスラム同胞を救え、というキャンペーンが展開され、多くの若者が、アフガニスタンに行ってソ連軍と戦うことを志願した。志願兵とはいえ月給が出たことも、多くの希望者が集まることにつながった。 こうしたキャンペーンは、アメリカの同盟国だったサウジアラビアやパキスタンが率先して行い、キャンペーンの背後にいるアメリカの姿は見えにくかった。志願兵となった若者たちは、アフガニスタンやパキスタンにある軍事訓練センターに運ばれたが、訓練センターを運営しているのは、アメリカ当局(CIA)だった。 このキャンペーンの中で、まだ20歳代だったオサマは、自らアフガニスタンに乗り込むとともに、資金も注ぎ込んでいった。 ▼弾圧されたアフガン帰りの世直し運動 1989年にソ連軍は撤退し、その後間もなくソ連自体も崩壊した。アフガンの戦いは、アメリカとイスラム教徒の勝利となったが、問題はここで終わらなかった。中東全域から集められた志願兵たちは、再び母国に帰されたが、彼らは母国政府にとって、やっかいな存在となった。 志願兵たちはもともと、篤いイスラム信仰を持っていたが、アフガンの戦場で信仰は研ぎ澄まされ、反イスラム的なものを許さないようになっていた。しかも彼らは戦場で、出身国ごとに隊列を作ったので、帰国後も母国の全域に仲間がいる状態になった。 彼らは帰国後、母国をより良いイスラム社会にする活動を始めたが、彼らの目から見ると、サウジアラビアやヨルダンなどの母国政府は、清いイスラム組織ではく、貧しい人々を放置し、腐敗していた。そして、腐敗した母国政府を支えるのは、中東の石油利権や、イスラエルの安全を守ることを目標にしているアメリカだ、という構図も見えてきた。 「アフガン帰り」たちの世直し運動は、すぐに政府に弾圧されたが、彼らはアフガンで培った軍事技術を持っており、爆弾を作ったり政府要人を銃撃するのは、お手のものだった。こうして反政府・反米運動はテロリズムと結びつき、欧米で「イスラム原理主義運動」と呼ばれるものになった。 アフガン帰りを訓練したのはアメリカなのだから、アメリカは結局、自分たちを狙うテロリストを養成してしまったことになる。ソ連撤退後、アメリカは悪役となったが、オサマは、イスラム教徒の苦境を救う人物として名が残り、アフガニスタンからの難民が多く住むペシャワールだけでなく、中東全域で英雄視されるようになった。 ▼自分で作ったテロリスト養成所を爆撃したアメリカ アフガニスタンは、冷戦後も内戦が続き、アフガン帰りの戦士たちを取りまとめる力とはならなかったが、その代わりに1979年に「イスラム革命」を起こしたイランが、中東全域のイスラム原理主義者たちを支援する役割を担った。 だがイランでは、昨年から民主化運動が始まり、親米的なハタミ政権ができたため、イランが反米テロリズムを支援する傾向は薄まった。そして、その代わりに再び出てきたのが、オサマ・ビンラディンの名前だった。 1998年8月、アフリカ東部のケニヤとタンザニアで、アメリカ大使館が同時に爆破されるテロ事件が起き、アメリカ政府は、オサマの組織が行った可能性が強いと発表した。そしてアメリカは報復措置として、オサマが運営しているというスーダンの「化学兵器工場」と、アフガニスタンで「テロリストを養成している軍事訓練センター」を、長距離ミサイルで攻撃した。 ところが、このときにアメリカが攻撃した訓練センターは、実は、ソ連軍のアフガニスタン侵攻の後、アメリカが金を出して設立されたものだった。また、当初「化学兵器工場」だとして攻撃されたスーダンの工場は、その後のアメリカ政府内の調べで、単なる化学品工場だったことが分かった。 大使館爆破テロをオサマが計画したのかどうかも、明確にはなっていないが、その後もアメリカは、各地で起きるテロ行為を、オサマの組織によるものだと言い続けた。最近では、ロシア軍と戦っているチェチェンのイスラム教徒軍も、オサマの支援を受けているとされている。 ▼イスラム過激派の象徴としてのオサマ ところが、どうも私には、オサマが本当にテロ行為や戦闘を指揮・支援しているのかどうか、大きな疑問がある。オサマの名前を連発しているのはアメリカの当局とマスコミの側だけで、肝心のオサマ本人や、各地のイスラム組織は、テロへの関与や、相互のつながりを否定している。 イランやシリアといった、かつて「テロリストの後見人」と言われていた国が、もはやアメリカの敵ではなくなりつつある今、とらえどころがないイスラム過激派組織の存在を分かりやすく際立たせる象徴として、アメリカ当局がオサマをマスコミに登場させているのではないか、感じられる。 イスラム過激派組織は今、小さいグループが無数にある。お互いにイスラム教徒であるという、緩やかな結びつきがあるだけで、指揮系統もない、ばらばらの状態になっている。アメリカなどテロに狙われる当局側は、各グループの状況を把握し切れない。 それを象徴する出来事が、今まさに進行中だ。その一つは、爆弾の材料を車に積んで、カナダからアメリカへと入国しようとしていたアルジェリア人のイスラム教徒が捕まる事件が、12月14日と19日に、アメリカの東と西のはずれで、立て続けに起きたことだ。 逮捕されたアルジェリア人はいずれも、フランスやトルコ、旧ユーゴスラビアなどを拠点とする、イスラム過激派組織の関係者で、その組織のリーダーには、アフガン帰りのアルジェリア人がいると、アメリカ当局はみている。 爆弾の材料とともに見つかった、時限起爆装置とみられるシステムには、カシオの時計が使われていたが、オサマの組織が以前に仕掛けた爆弾にも、同社製の時計が使われていた、と報じられている。ニューヨークタイムスの記事に、問題の時計の写真がある。 ▼正月にテロの可能性 事件が起きる2日前の12月12日、アメリカ国務省は、正月明けにかけての4週間、海外でアメリカの施設やアメリカ人を狙ったテロ事件が起きる可能性があるとの警告を発表した。その2日後に起きたこの事件は、アメリカ本国もまた、テロの対象になっているとの懸念を、アメリカ国民に与えることになった。 年末年始を狙って、イスラム過激派がテロを起こすと言われている理由は、ミレニアムを祝うため、アメリカ人やヨーロッパ人などのキリスト教徒が多数、イスラエルなどの聖地を訪れるからだ。 アメリカ国内では、世紀末に大混乱が起き、キリストが再び地上に降りてくると考える終末論者のグループがいて、アトランタの近くの原子力発電所を爆破する計画を立てたとされる人物や、カリフォルニアでガスタンクを爆発させようとしたとされる組織が、最近相次いで摘発されている。イスラム過激派は、こうした状況に便乗してテロを起こすのではないか、と米当局は考えている。 今月に入って、ヨルダンとパキスタンでも、爆弾テロを計画しているイスラム組織が、相次いで摘発された。いずれもオサマ系の組織であるとされている。インド航空機がハイジャックされた事件も、イスラム過激派組織の犯行で、彼らの組織には多くの「アフガン帰り」がいる。このハイジャック事件については、真相が分かってきたら、また記事を書きたい。 (とりあえず続く)
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