パレスチナ・もう一つの2000年問題

1999年11月5日   田中 宇

 記事の無料メール配信

 2000年問題といえば、コンピューターの問題である。だが中東のパレスチナ(イスラエル)では、ちょっと違う。イスラエルはハイテク産業に力を入れ、インターネットの普及も進んでいるので、もちろんコンピューターの2000年問題も存在する。

 だが「西暦」がもともとイエス・キリストが生まれてからの年数として規定されていると考えたとき、もう一つの2000年問題の存在がみえてくる。キリストは生まれたのも、はりつけにされたのも、パレスチナにおいてであった。(パレスチナは、イスラエルと、イスラエルが占領してきたアラブ人居住地域とを合わせた地域)

 キリストの母マリアは、パレスチナ北部の町ナザレに住んでおり、そこで天使からキリストを身ごもっていることを知らされた(受胎告知)。その後、マリアは旅行中に立ち寄ったベツレヘムの町で、イエスを出産した。ベツレヘムは、パレスチナの聖都エルサレムの近郊にあり、ナザレから南に130キロの場所にある。

 今ではナザレには、受胎告知があったとされる場所に受胎告知教会(Basilica of the Annunciation)が建っており、ベツレヘムにも、イエスが生まれたとされる場所に生誕教会(Church of the Nativity)がある。キリストはエルサレムではりつけにされたが、その事件の史跡も、エルサレム市内に点在している。

 例年、これらの聖地には、欧米など世界中から、200万人前後のキリスト教徒たちが、巡礼に訪れる。だが、千年に一度の節目の年である来年には、例年の倍以上の500万人がやってくると予測されている。ナザレやベツレヘムでは、ホテルや駐車場など、巡礼客や観光客の増加に対応するための施設の建設が、あちこちで進められている。ベツレヘムでは来年、ロックアーティストのスティングから、ウィーン少年合唱団まで、有名音楽家のコンサートも目白押しだ。

 3月には、ローマ法王の訪問を受ける予定もある。イスラエルはユダヤ教中心の国なのだが、50年にわたる中東戦争を終結させ、負けて抑圧されているアラブ人(パレスチナ人)との間で平和を確立したことを、世界に示せるイベントとして、法王の訪問を歓迎している。(パレスチナ人とは、パレスチナに住んでいるアラブ人)

▼問題を象徴する銃殺事件

 だが、その「平和」は、まだ確立したとはいいがたい。今年5月のイスラエル選挙で、和平交渉を進めたがらなかった首相のネタニヤフが落選し、どちらかといえば和平推進派である労働党のバラクが首相になった。バラク政権の誕生で、パレスチナ問題は解決への急展開が予測されたが、パレスチナ人の怒りと不信感は、依然として残っている。ナザレもベツレヘムも、住民の大半はイスラム教徒のアラブ人で、キリスト教徒は30−40%と少数派である。

 宗教をめぐるパレスチナの2000年問題を象徴するような事件が、最近ベツレヘムで起きた。イスラエルは1967年の中東戦争に勝って以来、パレスチナの西半分にあるアラブ人居住地域「ヨルダン川西岸」を占領し続けていたが、中東和平の進展により、西岸にはパレスチナ人の自治政府(国家)が作られることが決まっている。

 人口約5万人のベツレヘムは、この西岸地域にあり、パレスチナ人国家の主要都市の一つである。長い間の戦争状態で、パレスチナ人国家は独立しても、産業がほとんどない。パレスチナ政府は、2000年をきっかけに、観光を目玉産業にしようと狙っている。

 ベツレヘム市内には、ユダヤ教の聖地(旧約聖書に出てくるラケルの墓)もあり、パレスチナ人国家の内部にある町なのに、聖地の周囲にはイスラエル軍が検問所を作り、警備している。10月25日、検問所を通り抜けようとしたパレスチナ人青年を、イスラエル兵が射殺する事件が起きた。軍は、青年がナイフを出したので撃ったと発表したが、近所に住むパレスチナ人の証言からは、銃の暴発で間違って殺された可能性がうかがえた。

 パレスチナ人青年たちの間には、殺された青年が持っていたというナイフは、軍があとで青年の死体のポケットに入れたものに違いないとの見方が広がった。ホテル建設のなどが進む町中で、怒りの示威行動を始めた青年たちと軍が衝突し、30人以上のパレスチナ人青年が怪我をした。この手の紛争が続けば、観光客や巡礼者の客足が遠のいてしまうため、関係者は冷や冷やしている。

▼選挙がらみでややこしくなったナザレの聖地問題

 ベツレヘムがパレスチナ人国家に属するのに対し、ナザレはイスラエルに属している。そのため、この二つの町は、来年の観光客誘致をめぐってライバル状態にあり、ベツレヘムが物騒な状態であり続けることは、ナザレへの観光客誘致が有利になる、という側面もある。

 ところが、ナザレもまた、宗教の2000年問題と無関係ではいられない。
ナザレの大きな名所の一つは、受胎告知教会であるが、そのとなりには、イスラム教の聖地(十字軍を破った将軍の墓)がある。両方の聖地の間にある土地を、キリスト教会側が、2000年にローマ法王や巡礼者たちを迎え入れるための広場として使おうとしたところから、問題が始まった。

 この計画は1997年にイスラエル政府の承認を得たが、イスラム教側は、その土地は隣のイスラム聖地と一体のものであり、ここにモスクを建てる計画があるとして反対し、一部のイスラム教徒が広場にテントを張って住み始め、そこを仮のモスクとして使い始めた。

 今年5月のイスラエル総選挙の際、現職ながら負けそうだったネタニヤフ首相が、イスラム教徒たちに、自分に投票してくれたら、モスクの建設を認めると持ちかけた。ネタニヤフとイスラム教徒とは、本来は仇敵どうしなのだが、ナザレの有権者の過半数はイスラム教徒であるため、ネタニヤフは手段を選ばない戦法に出たのだった。

 ネタニヤフは破れたが、イスラム教徒は、ネタニヤフの現職首相時代の約束は、新政権に引き継がれていると主張した。一方でイスラエル外務省が、受胎告知教会の所有者であるカトリック教会の総本山バチカンに対して、モスクは建てさせないから安心してくれ、と通告していたことも明らかになった。

 ナザレでは昨年の地方選挙の結果、市長はキリスト教徒だが、議会与党はイスラム主義という、ねじれ現象が起きており、対立は容易に解けなかった。前政権の行動矛盾を解消する必要に迫られたバラク政権は10月13日に、モスクとキリスト教徒用の広場との両方を建設してよい、との決断を下した。

 だがこの折衷策は、逆効果であった。バチカンは、譲歩を迫られた状態でローマ法王がナザレに行くのはふさわしくないとして、法王がパレスチナ訪問の際、ナザレに寄らない可能性がある、と不満を示した。そしてイスラム教徒も、テントの撤収を拒否した。折衷策が発表された3日後には、市長が暗殺されかけた。お祝いになるはずの2000年の節目が、宗教対立を煽る結果となっている。

▼隣国ヨルダンも場外から参戦

 乱闘気味のパレスチナの2000年観光誘致戦には、場外からも参戦をうかがう勢力がある。パレスチナの西側、ヨルダン川の東岸にある隣国ヨルダンである。ヨルダンにはこれまで、キリスト本人の人生にまつわる世界的に有名な聖地がなかったが、最近になって、「キリスト教発祥の地」という看板を掲げることができそうな場所がクローズアップされている。

 福音書にある記述をもとに、「キリストが洗礼を受けた場所」とおぼしき一帯を、3年前からヨルダンの考古学者が発掘したところ、ワディ・カラル(Wadi Kharrar)という、死海近くのヨルダン川東岸から、初期のキリスト教の僧院と教会、それから洗礼用プールの跡と、今も水が湧き続けている泉が出てきた。

 ヨルダン政府は、キリストがこの場所で洗礼を受けた可能性が大きいとして、2000年をめざし、この地にビジターセンターや資料館、それからキリストの洗礼を追体験できるプールも作り、巡礼客に来てもらおうと計画している。このプロジェクトにはアメリカの公的資金援助も入っており、イスラム教中心の国であるヨルダンの独断ではなく、キリスト教世界も公認した事業という色彩を出している。

 「洗礼の地2000」(Baptism Land 2000)という、ヨルダン政府の肝いりで作られたとおぼしき英語のサイトもあり、力の入れようがうかがえる。(来客者数はまだ3000程度だが)

▼2000年に戦争を起こしたい人々

 イスラエルにとって、宗教の2000年問題は、イスラム教徒との対立に関してばかりではない。キリスト教巡礼客の中には、イスラエル政府からみて「招かざる客」も混じっているからだ。

 欧米には、西暦2000年に、キリストが再びこの世に降りてくると考えているキリスト教徒たちもいる。彼らの一部は、キリストが再降臨するのは今回もパレスチナだと予測し、降臨を待ち受けようと、早い人は数年前から、イスラエルに移住してきている。

 最近になって、イスラエルにやってくる降臨待ち受け組の中に「過激派」が混じるようになった、とイスラエル当局は懸念している。キリストは、人類が大惨事に遭わないと再降臨してこない、という理論をもとに、放っておいても大惨事が起きないなら、自分たちで大惨事を引き起こしてやろう、と考える人々である。

 彼らはたとえば、中東戦争を再び勃発させるため、イスラム教の大聖地であるエルサレムのモスクを爆破しよう、といった計画を持っているとされる。また逆に、キリストの再降臨に合わせて集団自殺するかもしない団体もあるそうで、欧米からイスラエルにやってくる10−20人程度の集団が、強制送還されたり、入国拒否されたりするケースが出ている。「過激派」のレッテルは、イスラエル当局によるもので、当の本人たちは、自分たちは平和なキリスト教徒であり、嫌疑はぬれぎぬだ、といった主張を展開している。

▼ようやく解放されるガザの人々

 パレスチナの宗教対立の背景には、中東和平がなかなか進展しないことへの、イスラム教徒の苛立ちがあるが、和平はゆっくりながら、少しずつ実現している。ベツレヘムでイスラエル兵がイスラム青年を射殺した日、ベツレヘムから70キロほど南にいった「ガザ地区」では、数百人の若い男たちが、生まれて初めてガザ地区から外に出ることを許され、バスに乗り込んだ。

 パレスチナの中で、イスラエルがパレスチナ人に返還する地域は、西寄りのヨルダン川西岸地区と、南東部のガザ地区に別れているが、二つの地域の間にはイスラエル領が横たわり、パレスチナ人は独立国家を持っても、陸路で自由に行き来できない。イスラエルは95年にパレスチナ人のために自国領内を通るルートを確保すると約束したが、翌年に和平消極派のネタニヤフ政権が誕生したため、その実現は大幅に遅れていた。

 西岸地区は境界線が長く、イスラエル領内への出入りが比較的自由なのと対照的に、海岸近くの平坦地であるガザ地区は、イスラエル軍による境界警備が厳しい。住民のパレスチナ人は、イスラエル企業が低賃金労働者として雇うための日帰り労働者に選ばれる以外、ほとんどガザの外に出ることができなかった。

 ガザには昨年まで空港もなかったから、南アフリカのアパルトヘイトのように、パレスチナ人たちは閉じ込められていた。私も2年前、ガザに行ったことがあるが、西欧のような風景のイスラエルからガザに入ると、急に風景や自動車などがみすぼらしくなり、いたるところで仕事のない男たちが、暗い目をしてうろうろしていた。

 イスラエルは戦争に勝って占領した地域に住んでいたパレスチナ人を、ガザに押し込めたので、ガザの人口密度は世界一といわれていた。ほとんど産業がないので、おそらく失業率も世界一だろう。

(とはいえガザの人は、話してみると気持ちの良い人々ばかりで、「神から選ばれた民」という自覚からか、行きずりの有色異教徒である私に対して傲慢な感じで接する人が多いイスラエル人とは、対照的だった)

 バラク政権になってからの和平交渉の進展で、ガザとイスラエルの「国境」であるエレツ(Erez)から、西岸地区南部のヘブロン市郊外まで、約40キロのイスラエル国内の道路が「回廊」として定められ、4年遅れの自由往来が10月25日に実現した。初日にバスや乗り合いタクシーで西岸に向かったのは約600人で、ほとんどはガザより賃金が高い西岸地区で仕事を見つけたい、若い男性だった。

 そして彼らの多くが仕事を求め、ヘブロンからバスを乗り継いで向かう先は、2000年を目指した建設ブームが続くベツレヘムであった。だが、西岸地区にも大した産業はないため、ガザに閉じこめられていた労働力が、どっと西岸に繰り出すことは、もともと西岸に住んでいる人々の失業率が高まる可能性もある。

 その意味で、ガザの人々の「解放」は、独立国としての体裁を整えつつあるパレスチナ国家内部の、新たな「2000年問題」を生み出すことになるのかもしれない。





田中宇の国際ニュース解説・メインページへ