イラン:「革命」を知らない子供たち(1)1999年4月21日 田中 宇 | |
中東のイランでは今年、1979年のイスラム革命から20周年のお祝いが、国を挙げて行われた。 イスラム革命は、人類の歴史上、最も新しい革命である。革命というものは、そうしばしば実現するものではない。人類にとって、イランの革命よりひとつ前の革命は、1949年の中国革命だが、もはや50年も前の話である。 中国では、革命によって打ち立てられた体制が、その後の50年で大きく様変わりしてしまったが、同様のことがイランでも起きている。出生率が高いイランでは、革命を知らない若い世代が急増している。 そのため、アメリカによる支配を転覆した革命によって生み出された「イスラム共和」体制より、欧米流の「自由」な体制にあこがれる人が増えてしまっている。 イラン政府は年初来、革命20周年を祝うテレビ放送を何回も流し、コンサートや集会などの大きなイベントも挙行して、若い人々に革命の素晴らしさを感じてもらおうとしているが、効果のほどは疑問だ。 ●大国の狭間で揺れた革命以前 イランのイスラム革命は、パーレビ国王がそれまで行ってきたアメリカ型の近代化政策を、失敗であり良くないものとして断罪し、その代わりに聖典コーラン(クルアーン)そのものが法律でもあるイスラム教に基づいた政治を民主的に実行するという、イスラム共和体制を打ち立てたものだ。 イランは19世紀以来、南部で涌き出る石油の利権をイギリスにおさえられる一方、北方からはソ連(ロシア)がインド洋へと支配を広げるための南進の機会をうかがっており、この2大国によって領土を分割され、双方の陣取り合戦の陰謀がうずまく場所であった。 第2次大戦後は、そのまま冷戦の対立構造の中に組み込まれた。戦時中にイランは最初、ドイツの側についたが、その後の国王交代とともに連合軍側に寝返り、英米ソ連の軍隊が駐留した。戦後、英米は撤退したが、ソ連軍は撤退を渋ったため、イランをめぐる東西対立が厳しくなった。 イギリスに代わって西側の主力となったアメリカは、パーレビ体制にてこ入れした。政党指導者から首相になったモサデクが、1953年に石油会社の国有化に乗り出し、反パーレビのデモ行進が広がって、国王が一時イランを追い出されるという政権転覆があった。 だがその翌日、アメリカはCIAを使って首都テヘランで反モサデク勢力を結集し、対抗的なデモ行進を発生させ、その勢いに乗ってパーレビが帰国し、逆にモサデクを逮捕してしまう、というどんでん返しとなった。 これ以降、アメリカの力を背景にしたパーレビ体制が強化され、民主勢力や、ソ連の意を受けた共産党、そしてイスラム聖職者たちの勢力は、秘密警察などによって弾圧されることになった。 ●古代ペルシャ帝国の幻影 さらに、国王に自信をつけさせたのが、1973年の石油危機にともなう石油収入の急増だった。テヘランではにわかに高層ビルの建設などの大規模事業が始まり、国王は「2000年までに世界の6大経済大国の中に入る」という壮大な目標を掲げ、欧米式の開発を進めた。 イランはかつて、ペルシャと呼ばれたころ、西アジア地域で最大の強国だったことがある。その栄光を再び取り戻そうという野望であった。国王は、それまで使っていたイスラム暦を止めて、代わりにアケメネス朝ペルシャ時代のカレンダーを正式な暦として制定したりした。イスラム教を遅れた宗教とみなし、人々にイスラム教の習慣に従うことをやめて、欧米風の生活を送るよう求めたりした。 だが、急速な近代化は、都会の上流階級だけを富ませることになり、田舎に住む大多数の国民は、100年前とほとんど同じ生活をしていた。国民の6割は、字が読めないままだった。 やがて政策の失敗からインフレが発生し、経済状態が悪化すると、人々の不満は高まった。その中で勢力を伸ばしたのが、イスラム聖職者の集団だった。彼らは、モスクでの説教などを通じて、悪いのは国王と背後にいるアメリカだ、と主張して支持を広げた。 その中心的存在となったのが、テヘランの南にある聖地コムの聖職者だったホメイニ師である。彼は政府に追われて亡命を余儀なくされ、一時はイラクやフランスにいたが、そこから王制を倒す運動を指導し、ついに1979年に国王は亡命し、代わりにホメイニ師がテヘランへもどり、イスラム革命が成就した。 ホメイニ師が目標にした体制は、「イスラム」と「民主主義」が合体したものだった。イスラムによる政治とは、コーランに書いてあることや、マホメットが語ったとされる言葉の中にある判断基準にしたがって、物事の良し悪しを決定していくことだ。 コーランが書かれたのは1000年以上も前なので、そのままでは現代の出来事に対する判断を下せない。そこでイスラム聖職者たちが、コーランやマホメットの言葉を、現代の情勢に合うように解釈し、それを法律や政策とする、というのが、筆者の理解しているイスラム政治である。 そして、その判断を下す「専門家会議」(ワーリー・ファキーフ)と呼ばれるイスラム聖職者会議のメンバーを、国民投票によって選ぶというのが、イランの新体制の「民主的」な部分だった。 だがこの新体制は、十分に機能しないままになってしまった。ひとつは革命後、イスラム聖職者の間で、「イスラム」だけを重視する「イスラム原理主義」の人々と、「民主」も十分に重視すべきだという「穏健派」との対立が深まり、1981年に当時の大統領を失脚させた政争以降、原理主義の勢力が強くなっていったためだ。 最高権力を持つ専門家会議に対する選挙は実施されつづけたが、選挙に立候補したい人は、イスラム教徒として良い行いをしてきたかどうかを審査され、パスしなければ立候補できない。そして、その審査は、原理主義者を中心としたイスラム聖職者集団が行っているので、穏健派の人々はパスしにくい状況が作られた。 もうひとつイランの体制の余裕を失わせたのは、1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争だった。この戦争は大雑把に言うと、アメリカがイランの反米体制を潰すため、当時まだアメリカと親しかったイラクのサダム・フセイン大統領に、武器や資金を渡してイランに攻め込ませた、というものだ。 この戦争に応戦するため、イランでは挙国一致の戦時体制が組まれ、ますます「民主主義」よりも、イスラムのもとでの団結が強調されるようになった。この戦争でイランを潰せると考えたアメリカの思惑は外れ、逆にイランの人々の反米意識が強まった。 ホメイニ師がもうひとつの目標としていた「イスラム革命の輸出」が実行され、中東全域に反米のイスラム原理主義組織が生まれる結果となった。さらに言うなら、イラクのサダムフセイン大統領は、この戦争の際にアメリカなどから受け取った武器や資金を蓄えて、その後のクウェート侵攻を行い、アメリカの支配を脅かす存在となってしまった。 ●人海戦術が生んだ革命後の世代 とはいえ、イラン・イラク戦争は、イランにとっても、今につながる社会体制の変化を引き起こすことになった。そのひとつは、イラクやアメリカと戦うためには兵士がたくさん必要だから、どんどん子供を作れ、という「人海戦術」をとった結果、若者の人口が急増し、今や人口の6割以上が30歳未満という状態になっていることだ。 彼らの多くは、革命以降に生まれた世代であり、パーレビ国王がどんなにひどい奴で、それを倒したホメイニ師がどんなに素晴らしかったかを、大人たちから説明されても、今ひとつピンと来ない。 また戦争で経済が疲弊し、その後の欧米からの経済封鎖もあって、人々の生活が苦しくなっていることもある。もともとイスラム革命は、人々を幸せにするはずのものだったのに、現実の生活は厳しいままで、戦争で肉親を失った人も多い。何のための革命だったのだろう、と思う人が増えても不思議はなかった。 これらの人々の不満が結実したのが、1997年の大統領選挙で、穏健派のハタミ師が当選したことだった。
関連サイトイラン情報あれこれ 田口重久さんの「エディおじさんの書斎」のコーナー
|