終わらないアフガン内戦

1996年10月30日   田中 宇

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 アフガニスタンでイスラム教の聖職者を中心としたゲリラ組織「タリバン」が1996年9月末、ゲリラどうしの内戦に勝ち、首都カブールを占領したことで、79年のソ連の侵略で始まったアフガニスタン内戦は、一つの区切りを迎えた。

 だがアフガンでは以前から、戦争が終わると間もなく次の戦争が始まる、という歴史が繰り返されてきた。1989年にソ連の侵略が終わったらゲリラどうしの戦いへと突入したし、1960年代にイギリスのテコ入れで立憲君主制のもとでの政治・社会制度の近代化が進められた時も、9年後にはソ連に後押しされた共産主義勢力がクーデターを起こし、ソ連侵略につながる混乱期に入っていった。今回もまた、そうしたパターンから逃れることは難しい要因がたくさん残っている。

 タリバンの勝利は、ソ連撤退後のアフガニスタンに対し、周辺国の中で最も大きな関心を持っていたパキスタンが、94年にそれまでのムジャヘディン・ゲリラへの支援から、タリバン支援へと切り換えたことが元になっている。ムジャヘディンはソ連侵略以来、89年にソ連を撤退に追い込むまで戦い続けたゲリラの統一戦線である。

 彼らに対してはアメリカやパキスタンがソ連打倒の意味を込めて、大量の武器を与えていた。武器を買う資金調達のため、ゲリラの占領地域で麻薬原料のケシを栽培し、海外へ輸出することも大目にみていた。(コロンビアやタイ北部と同様の、CIAによる「汚い密かな戦争」のだったのではないか)

 イスラム教を侮辱する共産主義者たちを決して許さない、という固い信仰心と、野山を移動しながら生活してきた遊牧民の伝統からくるゲリラ戦術のうまさにより、89年にムジャヘディンはソ連を追い出した。この敗北により、ソ連国民の共産党への絶望感が増大したことが、ソ連崩壊の一因といわれている。


 ベトナム人がアメリカに勝ったことと並ぶ、世界史に残る大勝利をおさめたムジャヘディンだったが、国内での団結が必要となったその後の局面では無能だった。ソ連が撤退し、統一目標が失われると、ムジャヘディンは急速に分裂した。89年にはパキスタンの仲介により、国家再建の方向をめぐるムジャヘディン各派間の会議が開かれた。だが、コーランに書いてある通りの政治を行うことを主張するイスラム原理主義者と、政教分離して政治は欧米スタイルを導入しようとする世俗政治主義者とが激しく対立した。

 パキスタンや欧米の取りなしで連立政権を樹立したものの、92年には原理主義を主張するリーダーの一人、ヘクマティアル元首相とその同調者が政権を飛び出して反政府ゲリラ戦を始め、ラバニ大統領の政府軍との内戦に突入。ウズベク人が多い北部では、別のリーダーであるドスタム将軍がウズベク人ゲリラをまとめて軍事的に独立した。

 ムジャヘディンが分裂したのは、内部が15−20派の小グループに分かれていたのが原因で、その背景にはアフガニスタンが多民族国家であることがあった。アフガニスタンの人々は、言語からみる民族区分では、次のようになっている。

・パシュト語(イラン系)を話すパシュトン人が全人口の約50%
・タジク語(イラン系)のタジク人(北の隣国タジキスタンと同一民族)が25%
・13世紀にアフガニスタンを占領したチンギスハン帝国のモンゴル人の子孫ともいわれるハザラ人(今では同化してイラン系のハザラ語を話す)が10%
・北西の隣国ウズベキスタンと同一民族のウズベク人(トルコ系のウズベク語)が10%

 国民のほぼ全員がイスラム教徒だが、パシュトン人など約7割はイスラム教の中でも多数派のスンニ派で、残りは西隣のイランと同じシーア派を信仰している。パシュトン人は遊牧民が多いが、他の人々は農民や商人も多い。さらにパシュトン人の中でも、さらにいくつもの部族があり、覇権をめぐり互いに戦ってきた歴史がある。こうした民族の市松模様が、ムジャヘディン内部の勢力争いを起こす原因となった。

 またソ連撤退後、アフガニスタンには米ソ双方が残していった大量の武器があった。ソ連侵略当初、アメリカはムジャヘディンの力を過小評価していたため、できるだけ多くの武器を渡していた。そのため、内紛の火種さえあれば、すぐにロケット砲などを使う本格的な戦闘になってしまった。

 国内が統一できなかったもう一つの理由は、ゲリラ各派が自分の支配地域を私物化し、そこで得られる利権を手放したくなかったという状況がある。アフガニスタン各地のゲリラのリーダーの中には、自分が支配している地域でやりたい放題のことをしている者も多かった。意にそぐわない人を殺したり、女性を強姦したり、村人から税金の名目で金品をとったり、幹線道路に検問所を設けて通行する車から関税と称して金を巻き上げたりしていた。

 中東のイスラム社会では、強大なソ連を追い出したムジャヘディンは英雄的な存在で、対ソ戦時代を通して、アラブ各地からアフガニスタンに義勇兵や後方支援要因として参加し、帰国後にはイスラム原理主義運動(テロなど)を自分の国で続けている「アフガン帰り(アフガニー)」と呼ばれる人々を生み出すほど影響力が強かった。しかし、実際はかなり腐敗していたとの指摘もある。


 こうした閉塞状況を打開する必要を感じていた人々が二組いた。タリバンと、それを支援したパキスタン政府だった。タリバンは94年、戦火を逃れてパキスタンの難民キャンプにいたパシュトン人のイスラム教聖職者たちと、彼らが運営している学校(伝統的なイスラム社会では、学校はモスクの中にある)に通う若者たちによって結成された。タリバンとは「学生」という意味だ。

 イスラム教による理想的な政治を求めていた彼らは、ムジャヘディンの腐敗体質が許せなかった。彼らの故郷はパキスタン国境に近い東部のカンダハル市周辺で、その地域を支配していたヘクマティアル派系のゲリラたちから権力を奪うことを考えていた。

 一方、パキスタンが反発していたのはムジャヘディンの内紛や腐敗体質そのものではなく、内紛によってアフガニスタン内部の交通が寸断されていることだった。パキスタンは、天然資源が豊富な中央アジア諸国との貿易を活発にしたいのに、アフガン内戦が長引いているため、アフガニスタンを通って中央アジアに至る道路はゲリラの徴税行為によって事実上、封鎖されていた。西のイランは、中央アジアとの鉄道接続工事を計画するなど着々と手を打っており、パキスタンの焦りはつのっていた。

 そんな中、パキスタンの有力財界人の一人が一計を案じた。貿易ルートを切り開くため、貨物を満載したトラック部隊を仕立て、アフガニスタンを通って中央アジアに向かう道路を出発させたのだった。当然、アフガン領内に入りカンダハルへ向かう途中でゲリラによって止められ、貨物を奪われそうになった。そこで正義の味方としてデビューしたのがタリバンだった。

 彼らは300人程度の武装勢力でゲリラと戦い、トラック部隊を救い出した。この筋書きがもともと、パキスタン側とタリバンの間で打ち合わされていたものなのか、それとも困ったパキスタン財界人がタリバンに対して武器とともに支援を要請したのか、その辺の真相は今も不明である。

 タリバンはその後さらに、カンダハルのゲリラが若い女性を連れてきて監禁・虐待しているとの通報を受けて救出作戦を展開、ゲリラを倒し、カンダハルを占拠した。彼らは故郷の町に凱旋したわけで、人々は歓喜をもって正義の青年兵士たちの帰郷を歓迎した。他のゲリラ組織の兵士にも、イスラムの原点に帰ることを求めたタリバンへの同調者が増え、自分のボスの元を離れ、タリバンに合流する兵士が相次いだ。

 とはいえ、アフガニスタン全土の人々がタリバンを歓迎したわけではない。イラン国境に近いアフガン第2の都市ヘラートを占領した際には、住民の強い抵抗にあった。ヘラートはイランとの交易で古くから栄えた商都で、人々はアフガニスタンの中では比較的開放的で欧米の文化を取り入れ、女子の教育にも熱心な人が多かった。また宗教上はイランと同じシーア派イスラム教徒が多い。

 それに対してタリバンの出身地カンダハル周辺の人々はスンニ派イスラム教徒で、遊牧民が多いパシュトン人で、商人からみれば野暮な人々だ。タリバンが描く正当なイスラム社会は、女性が教育を受けたり、社会の中で男性同様に働いてはいけない。

 女性が外出するときは親戚縁者に同伴された上、頭から布ですっぽりと被い、身体の線が想像できないようにしなければならない。女性はいやらしい存在だから、そういう決まりを作っておかないと、すぐに男を誘惑する、という考えがその根底にある。(本当は男の方がいやらしいのだが)

 男性は必ずあご髭を蓄え、男らしい風貌をしていなければならない。サッカーや野球、テレビや欧米音楽の鑑賞は、すべて反イスラムなので禁止。こうしたタリバンの考え方を押しつけられたヘラートの人々はタリバンを「ニセのイスラム信仰者」「パシュトン人の中世そのままの伝統を押しつけている」として反発したのだった。イラン政府も同様にタリバンを批判する態度をとっている。


 首都カブールもまた、アフガニスタンの中では比較的近代化された市民が住んでいた。96年9月、タリバンがカブールを占領した後、歴史を逆転させようとする圧政に反発して、多くの中産階級市民がパキスタンなどに逃れた。ソ連の侵略以来、500万人以上がパキスタンやイランに難民として逃れていたが、難民はさらに増えることになった。

 タリバンはムジャヘディンを倒してアフガン全土を統一し、新政府を作ることを目標としているが、女性差別や欧米風文化の全面否定を続けている限り、国家建設に必要な技術や知識を持った人々は流出先から戻らず、早々とタリバンを新政府として承認したパキスタン以外の各国からの経済支援を得ることも難しい、というジレンマを抱えている。

 一方、タリバンがカブールを占領しても、まだ内戦は終わっていない。アフガン北部には、カブールを追われたラバニ大統領率いるラバニ派、ラバニ派と戦っていたヘクマティアル派、ウズベク人系のドスタム将軍派のゲリラ3派が、それぞれの支配地域を確保している。

 このうち、ドスタム将軍派はアフガニスタン北隣のウズベキスタン政府などとのつながりを持っている。ドスタム派は、タリバンがイスラム原理主義とタジクなど中央アジア諸国に輸出する道をふさぎ、ロシア寄りの政権が支配している中央アジアにイスラム原理主義を守反イスラム原理主義の防波堤ともなっている。

 特にタジキスタンでは、タリバンとは別のゲリラが現政権を倒してイスラム原理主義政権を作ることを目標に反政府ゲリラ活動を続けている。このためタリバンが彼らを支援する可能性もあるだけに、タリバンへの危機感を強めている。

 またイランは、ヘラートなどでイラン系の住民がタリバンにひどい目にあっているうえ、米国とつながっているパキスタンがタリバンを支援していることから、反タリバンの立場を鮮明にしている。

 アメリカとパキスタンでは、タリバンとドスタム派を和合させてムジャヘディンを倒した上、アフガニスタンに新政府を作る構想を持っている。国家再建に際しては、多民族国家の統合の象徴として、1973年のクーデターで国外亡命してイタリアに住んでいる元国王を再び担ぎ出してくる案もあり、80歳を超えている元国王も乗り気だという。

 だが10月下旬にドスタム将軍はパキスタンがタリバンを直接支援していると非難する声明を出し、パキスタン側の提案を拒否した。こうしたことから、話し合いによる内戦終結の可能性は少なくなっている。



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