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「8月15日」状態のバグダッド

2003年5月8日   田中 宇

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 バグダッドにあるシーア派イスラム教の聖地「カズミヤ廟」(モスク)の門前町は、米軍がイラクに侵攻してくる前とほとんど同じ賑わいを見せていた。

 バグダッドの中心街は、めぼしい建物の多くが略奪され、略奪を免れた店の多くも、さらなる略奪を恐れ、シャッターを閉めたままだ。だが、中心街から車で20分ほど離れたカズミヤ廟の周辺は、私が訪れた5月5日、金細工を売る店も開いていたし、廟の近くの食料品市場には戦前と同様、野菜や魚、香辛料などが積まれ、「アバーヤ」と呼ばれる黒い布を頭からかぶったシーア派の女性買い物客らでごった返していた。

 私は今年1月にもイラクを訪問し、このカズミヤ廟にも来た。そのときとの違いは、戦争によってイラク政府が消滅して清掃局もなくなったため、ゴミ収集をする人がおらず、蠅がものすごく増えたことぐらいだった。あとは、市場のすみにあるお茶屋の店の奥に以前掲げられていた、お茶を飲んでいるサダム・フセイン大統領の肖像画が消えていたことぐらいしか、変わった点はない。( イラク日記(5)シーア派の聖地 )

 門前町が略奪されなかったのは、フセイン政権の消滅とともに、シーア派の人々が、廟の宗教指導者を中心に、廟とその周辺を自警する体制を作ったためだった。バグダッド市内では、官庁が多い地区では略奪がひどいが、それ以外の場所では、まったく略奪されていない地域も多い。

 略奪は4月9日のフセイン政権消滅の直後から始まったが、なぜ略奪が起きたかについては、市民の間で諸説あった。「米軍が人々を煽った」「略奪を指揮したのは米軍が連れてきたクウェート人の組織だ」「フセイン政権のシンパによる組織的な抵抗」「略奪は自然発生的なものだ」などである。米軍が略奪を止めようとしない、というのは市民の間で広く語られていた。

▼吹き出す宗教的な解放感

 表向きの町のたたずまいは戦前と同じだったが、人々の心の中は、大きく変わっていた。

 フセイン政権下では、人々は宗教的な自由を制限されていた。政府は、人々が宗教指導者のもとに結集して反政府の動きを始めることを恐れ、特にシーア派の宗教活動を監視した。シーア派は、イラク国民の6割、バグダッド市民の3割を占める人々だが、フセイン政権下では、フセイン大統領自身を初めとして国の上層部の人々の多くはシーア派ではなく、スンニ派だった。

 フセイン政権の消滅によって、宗教的な制限が急に外れたため、イラクの人々は、急に宗教的に目覚めていた。カズミヤ廟の門前町には、戦争が終結した4月中旬からの約3週間に、シーア派の物語やコーランのカセットテープ、イマームフセインやイランのホメイニ師などシーア派の聖人たちの写真やポスターといった「宗教グッズ」を売る専門店が、7軒生まれた。私が入ったそのうちの一軒では、1500ディナール(約100円)の宗教テープが、毎日500本ずつ売れているという。

 店の人によると、以前テープや写真はこっそりコピーされ、道ばたでゲリラ的に売るぐらいで、宗教グッズの店を構えることは規制されていたという。私がテープを1本買おうとしたら、イスラム教に興味を持ってくれてうれしいからお金はいらない、と店の人に言われた。

 タクシーに乗ると運転手が、悲壮感あふれるシーアの殉教の物語の歌をガンガンかけていたりした。イマームフセイン(7世紀に殉教したシーア派の最も重要な聖人)の大きなポスターを、前面のガラスに貼って走っている2階建てバスも見た。シーア派の人々は、宗教的な解放感を満喫していた。

 カズミヤ廟の入り口では、人々が水の入ったバケツを持ち、コップで水をくんで参拝者たちに配っていた。停電で信号機がつかない交差点で、自発的に交通整理をしている若者もいた。人々の間では、宗教的なボランティア精神が高揚しているようだった。

▼政治や言論も解放

 宗教だけでなく、政治や言論についても、イラクの人々は一気に解放された状態になっていた。

 バグダッドでは、フセイン政権の消滅とともに、政府系の5つの新聞の発行が止まったが、代わりに少なくとも5つの新聞の発行が新しく始まり、道ばたでは新聞売りが各紙を並べて売っている。1面にカラー印刷の写真が載っている新聞もあった。その完成度からは、ゼロから新規に刊行したのではなく、既存の政府系新聞社の印刷機や技術者をそのまま使って発行されているのではないかと思われた。

 また、イラク新政府の発足に間に合わせようと、終戦から3週間で80もの新しい政党が結成された。この大半は、何人かの個人が集まってとりあえず政党組織を作っただけで、国民の間に支持基盤を持っている事実上の政党は5つか6つだといわれている。

▼「シーアとスンニは対立しない」

 イラクではこれまで、少数派のスンニ派が多数派のシーア派を支配してきた歴史がある。そのため、シーア派が宗教的に解放されることは、スンニ派との対立が深まるのではないか、という懸念につながる。

 だが実際にシーア派の市民の話を聞くと、多くの人々が「シーアとスンニは対立しない。同じイスラム教徒、イラク人だということの方が大事だ」「シーアとスンニがことさらに区別して語られるのは、アメリカが私たちを分裂させたいからだ」といった意見を私に述べた。

 町をぶらぶらしていると、ちょっとしたきっかけで、近くにいる人が英語で話し掛けてくることがよくあった。大体は何らかのメッセージを、外国人の私に伝えたがっていた。「米軍は早く出て行くべきだ」とか「サダム政権がなくなって良かった」「略奪を指揮したのはイラク人ではない」といったメッセージが多かったが、それと並んでイラクの統一を維持することが大事だという意見が多かった。「シーアもスンニもクルドも、みんなイラク人だ。誰もイラクが分裂することを望んでいない」といった主張である。

 英語ができない人でも、主張は同じだった。タクシーの運転手が沿道のモスクの名前を一つずつ教えてくれたので、私は知っているだけのアラビア語を並べて「あなたはシーア派?スンニ派?」と聞いてみた。彼はシーア派だと答えたが、その後、ハンドルを持つ両手の人差し指どおしをすりあわせ「シーアとスンニは一緒だ」と付け加えた。イラク人の多くが、シーア派とスンニ派が対立してイラクが分断される事態を避けたいと思っていることは間違いないと思われた。

 それはクルド人も同じだった。私はバグダッドで、クルド人が経営している「マジリス・バグダディヤ」(Al-Majalis Al-Baghdadyah)という1日5ドルのホテルに泊まっていた。ホテルのロビーでは毎日、泊まり客や近所のクルド人の男たちが集まって歓談したりテレビを見たりしていたが、彼らの意見は「クルド人は自治を望んでいるが、イラクからの分離独立はしたくない」「イラクは連邦制になるのが良い」「経済面を考えると、イラク諸地域とつながっていた方がクルドにとって有利だ」といったものだった。

 クルド人は長く独立を希求してきたが、その気になれば独立できるという今の状態になってみると、逆に非常に現実的な思考をしている。

▼学生たちと話す

 私はアラビア語ができないので、英語ができるイラク人を探して話をしてみたいと思った。カズミヤ廟の内陣への入り口(そこから中へはイスラム教徒しか入れない)の靴脱ぎ場の番人に「英語ができる人はいませんか」と尋ねたりしていると、通りかかった若者の一人が名乗り出てきた。

 彼はムスタンシリヤ大学という名門校の6年制医学部の5年生で、同じ男子寮の医学生数人と一緒に礼拝に来ていた。彼らは話しているうちに、私を自分たちの寮に招待してくれ、それから半日、私は彼らと過ごした。

 医学部の寮には80人近くの学生が住んでいたが、開戦一週間前の3月15日に全員が実家に帰省するよう学校から命じられた。再び寮が開いたのは終戦後の4月下旬で、まだ80人のうち9人しか寮に戻ってきていないかった。9人は、テレビがある寮の集会室に集まって私を迎えてくれたが、そのうち8人がシーア派で、残る1人はクルド人だった。

 彼らと話して、まず印象的だったのは、フセイン政権がいかにひどかったかということを、何度も私に話したことだった。1991年の湾岸戦争直後にイラク南部で起きたシーア派の反政府蜂起が、いかに残酷に弾圧されたかとか、北部のクルド人がフセイン政権によって強制移住させられたことなどを私に話した。

 とはいえ、彼らの話は、自分の家族や親戚がひどい目に遭った、という話ではなかった。「あなたの家族でもひどい目に遭った人がいますか」と尋ねると「近所で撃たれた人がいる」といった答えは聞いたが、実体験というには距離感があった。学生たちは、自分たちの経験を語っているというよりむしろ、戦後のイラクで短期間に「常識」になったフセイン政権の残虐話を語っているように思えた。

▼イスラム主義と民主主義は同じもの?

 彼らが口々に語ったことのもう一つは「サダム・フセインは最初からアメリカのエージェントだった」ということだった。フセインは政権に就く前、クーデターに参加して破れ、エジプトに亡命していたが、この間にアメリカCIAのエージェントになったという話は、アラブ世界では広く信じられている。

 医学生たちによると、フセインは密かなアメリカの味方だったので、石油売却代金をイラクの経済発展のために使わず、アメリカから武器を買ってイランと戦争した。湾岸戦争後もアメリカはフセイン政権を温存していたが、最近になってフセインに利用価値がないと判断し、イラクに侵攻してきた・・・というのが、学生の分析だった。

 医学生たちは、アメリカはずっとイラクから出ていかないだろうと考えていた。アメリカはイラクを分断しようと考えてシーア派とスンニ派などの対立を煽っており、その罠にはまらないよう、スンニ派とシーア派、クルド人が仲良くしなければならないと考えていた。クルド人の学生も、同じ意見だった。

 米軍については、今は治安維持のために米軍にいてもらう必要があるが、イラク側で警察組織ができたら、すぐに出ていくべきであり、もし米軍がイラクに長く居残るようだと、反米感情が高まるだろう、と学生たちは言っていた。「サダム=CIA説」に象徴されるように、アメリカに対する不信感が強い。

 イスラム教がイラクの政治にどの程度影響を及ぼすべきか、という点について、1人の学生は「シャリア(イスラム法)の施行が必要だ」と言った。これまでのイラクは社会主義的な世俗法でやってきたので、それをシャリアに変えることは、イラクがイランやサウジアラビアのような宗教政体に変わることを意味しているように思えた。

 しかし、その学生は「シャリアと民主主義は同じものだ」という。学生の中には、イラン型のイスラム政体を支持する人と、イランとは違う政教分離した民主主義体制になるべきだと考える人がいた。「民主主義」という言葉は皆が使うが、その内容について、考え方はまちまちだった。

▼「まだ夢の中にいるようだ」

 学生の1人は「あまりに急にフセイン政権が崩壊したので、まだ夢の中にいるようで、何だか実感がない」と言った。民主主義だとかシャリアだとか、学生らが言っているいろいろなことを聞いた私が、今一つ現実感を感じなかった理由はそこにあると思われた。

 私は、これはもしかすると1945年の8月15日に日本人が体験したことと似たものを、今のイラク人は体験しているのかもしれない、と思った。

 戦前の軍国主義体制に唯々諾々と従っていた日本人が、8月15日の敗戦を境に突然「民主主義」に目覚め「日本は戦争に負けて本当に良かった」などと言い出したのに似ている。イラクの人々も、35年間続いたフセイン政権が急に終わり、急に自由になって戸惑いつつ、試行錯誤的にいろいろなことを言い出しているのかもしれない。

 ある晩、ホテルの近くの道ばたの簡易食堂で食事をしていたら、暗がりから現れた通行人の男が立ち止まり、私に「記者か」と英語で聞いてきた。

 そうだと答えると「今はイラク人は皆、サダムフセインのことを毛嫌いしているが、今後数カ月たっても治安や都市基盤が回復せず、政治の諸党派が対立して混乱が続いたら、人々は反米の度合いを強め、サダム時代の方が良かったと言い出し、サダムを殉教者として祭り上げるかもしれない。今の現実だけでイラク人の気持ちを判断してはいけない」などと話した。名乗りもせず、暗がりに消えていった彼の分析は、意外と的確かもしれない。

「戦争を乗り切ったバグダッドの病院」に続く】



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