クルド人問題(下)オジャランの悲劇
1999年3月12日 田中 宇
この記事は「世界をゆるがしたクルド人」の下巻です。
1月16日、オジャランは国外退去命令を受け、イタリアから立ち去った。その後彼は、欧州など各地の空港を転々としながら、亡命申請を続けたが、全て断られた。彼が亡命申請をしたのは、ドイツ、フランス、オランダ、スイス、デンマーク、ノルウェー、スウェーデン、エストニア、ウクライナ、ベラルーシなど。そのほか、アメリカ、南アフリカ、リビア、スーダン、イラン、レバノン、そして北朝鮮にまで、電話などを使って亡命を打診したが、断られた。
オジャランが亡命申請をしそうな国には、あらかじめトルコ政府からの警告の手紙が出されていた。「オジャランはテロリストであり、彼の亡命申請を認めた国は、テロリストの共犯者として責められることになる」といったようなものだった。これと平行して、アメリカからも、同様の警告が発せられることが多かった。
▼巻き込まれたギリシャ政府
こうしたオジャランの苦境に対し、手を差し伸べた一人のギリシャ人がいた。元海軍将校のアンドニス・ナクサキス(Andonis Naxakis)だった。彼は以前から、クルド人ゲリラ組織との連絡ルートを持っていたが、オジャランの身が危険にさらされていると聞き、知人の財界人からビジネスジェット機を借りて、その時オジャランがいたロシアのセントピータースバーグの空港に乗りつけた。1月29日のことだった。
こうしてオジャランは、その日のうちにアテネ入りした。ナクサキスはアテネの空港入管の係員に対して、オジャランのことをロシア政府の次官だと偽って申告し、入国させた。
だがその後間もなく、ギリシャ当局は、それがオジャランだったことを知る。報告を受けたギリシャのシミティス首相は、やっかいな問題に巻き込まれることを恐れ、すぐに国外退去を命じた。
ギリシャは今から180年前に、トルコ(オスマン帝国)から独立した歴史を持つが、その前後には血みどろの戦いと、相互の虐殺があった。ギリシャの人々のトルコへの憎しみの根底には、そうした歴史背景がある。
その意味で、クルド人の苦悩は、ギリシャ人には十分理解できるものだ。そして「敵の敵は味方なり」と考えれば、ギリシャがオジャランをかくまっても、不思議はなかった。
だが、ギリシャの現政権は、そうした政策を取らなかった。むしろ、トルコとの軍事的緊張を減らし、EU諸国の中でGDPに占める軍事費の割合が飛びぬけて高いという状況を、改めようとした。その裏には、ギリシャは財政赤字が多いので、このままでは欧州通貨統合に参加できない、という事情があった。
トルコと和解し、相互の貿易を増やせば、経済的な利益も出る。ギリシャ政府は、いくつかの島の領有権をトルコから勝ち取るよりも、軍事費の削減と貿易振興によって、豊かになることを重視していた。
そんな中に飛び込んできたオジャランは、厄介者として扱われた。国外退去を命じられたオジャランは、その条件として、オランダのハーグにある国際司法裁判所に行くことを求めた。国際法廷の場で、クルド人がトルコから受けてきた人権侵害の数々について述べ、審判を仰ごうと考えたのである。
▼最後まで「国際司法裁判所」にこだわった
こうしてギリシャに2泊した後、オジャランは再びジェット機に乗せてもらい、オランダを目指した。ところが、乗っているのがオジャランだと知ったオランダ当局は、領空への進入を許可しなかった。オジャランが裁かれる権利すら、認めなかったのである。仕方なく、ジェット機はギリシャに戻った。着陸したのは、エーゲ海のコルフ島だった。困難を抱えたギリシャ政府が次に考えたことは、オジャランをこの騒ぎの中心であるヨーロッパから遠く離れたアフリカのケニヤに移動させ、そこのギリシャ大使館にしばらくかくまう、ということだった。その後、アフリカのどこかの国のギリシャ正教の修道院に隠れ場所を作る、という計画が、ギリシャ当局からオジャランに説明された。
とはいえ、ギリシャ政府がオジャランをずっとかくまうつもりだったかどうか、という点には、疑念が残る。というのは、ケニヤでは半年前にアメリカ大使館の爆破事件があり、FBIやCIAの要員が、今もうろうろしているからだ。そんな中にオジャランを連れて行けば、すぐに所在がアメリカやトルコに筒抜けになってしまうことは明白だった。
そうした疑念をオジャランが抱いていたかどうか不明だが、どっちにしても、残された選択肢は他になかった。彼は2月2日、ギリシャの情報当局要員に同伴され、ナイロビに向かった。
ナイロビの空港入管は、迎えに来ていた在ケニヤ・ギリシャ大使の外交特権を使って通り抜け、オジャランはナイロビ市内のギリシャ大使公邸に落ち着いた。
オジャランがナイロビにいるという情報は、間もなくトルコ政府の知るところとなった。トルコ政府は、オジャランを捕まえるための秘密の軍部隊を組織し。彼らは目立たぬよう、民間のビジネスジェット機を借り上げて、機体についているトルコ国旗を隠し、その上からマレーシア国旗を描いて偽装し、2月12日にナイロビへ飛んだ。
そのころオジャランは、次の手が決まらず、焦り始めていた。彼の本望としては、ヨーロッパのどこかの国の法廷に立ち、テロリストとして裁かれつつも、クルド人の苦難について主張することで、世界の関心をかい、トルコ非難の論調を高めたかった。
彼はギリシャ大使館から、ヨーロッパ諸国の当局に電話をかけ、入国を許可してほしいと訴えた。さらには、入国時にウソをついた相手であるケニヤ政府にも電話を入れ、苦境を訴え出した。
これにはギリシャ当局も困惑した。こっそり連れてきたオジャランが、自分の存在を声高に世界にアピールし始めたからである。2月14日にはケニヤの治安部隊がギリシャ大使館と大使公邸の周囲に配置され出した。
危機感を強めたオジャランは、ギリシャ当局に対し、自分用のニセのパスポートを作り、オランダまでの飛行機を用意するよう求めた。再び国際司法裁判所に行こうとしたのだった。ギリシャ当局はこの要求を飲み、ケニヤ政府と相談した上で、2月15日、ケニヤ当局がオジャランを空港に連れて行くことになった。
だが、空港に着いたオジャランを待っていた飛行機は、オランダに行くものではなく、トルコの特殊部隊のジェット機だった。オジャランは飛行機に乗った直後にハメられたと気づいたが、あとの祭だった。
▼ギリシャ当局はハメられたのか、それとも・・・
ギリシャ当局側は、「飛行機などの手配はケニヤ当局に任せてあったので、自分たちはオジャランがトルコ側に引き渡されることなど一切知らず、だまされた」と主張している。だが、それを信じるには不自然なことがひとつある。ギリシャの首都アテネでは、オジャランがトルコ側に捕まる数時間前、クルド人難民約1000人が住んでいたキャンプ地が、不法占拠だという理由で、警官隊によって強制退去させられ、クルド人たちはバスに乗せられ、アテネから遠く離れた山の中の軍の宿舎跡に連れて行かれ、そこに住むよう命じられた。
これは、クルド人たちが「ギリシャ政府はオジャランをトルコ側に引き渡した」と主張して暴動を起こすのではないか、と当局が恐れたからではないか、とみられている。
ギリシャでは今回の事件の責任をとって、閣僚クラスの4人が辞任したが、その理由もまた、2重の意味がありそうだ。つまり、欧米に対しては、政府の公式決定を経ずに「テロリスト」オジャランをかくまった責任をとって辞めた、と言える半面、国内向けには、オジャランを仇敵トルコの手に渡してしまった責任をとって辞めた、と言えるようにしてあるのではないか。
今回の件で起きそうなもうひとつの変化は、ヨーロッパ在住のクルド人の団結力が強まるかもしれない、ということだ。これまでクルド人は、トルコ、イラン、イラク、シリアの4カ国に分かれて住んでいるため、それぞれの政府の傘下にある勢力と、敵対する勢力がいくつも入り乱れて憎み合い、その分裂は、周辺4カ国やアメリカにいいように使われてきた。
ヨーロッパ在住のクルド人もその渦の中におり、団結力を欠いていた。ところが、今回のオジャランに対する欧米諸国のひどい扱いで、激怒するクルド人が多く、その気持ちが従来の分裂を乗り越える起爆剤になる可能性がある。
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