解体するインドネシア:海洋イスラム国アチェの戦い1999年12月16日 田中 宇日本で最初に、海外からの文化が入ってくる場所は、東京だろう。だが、昔からそうだったわけではない。中世に、ヨーロッパ文明が日本にもたらされたとき、最初にやってきた場所は、九州であった。ポルトガル人が持ってきた鉄砲は、種子島に上陸したし、中国からの文物は、長崎や平戸にやってきた。歴史的にみると、日本の「最先端」は、九州ということになる。 インドネシアで、これと同じ「歴史的最先端」の場所が、アチェである。アチェは、インドネシアの最も西、スマトラ島の西の端にあり、ポルトガルから日本に鉄砲がもたらされた「海のシルクロード」のルート上にある。 ヨーロッパからアフリカの喜望峰を回り、アラビア半島の港からインド南部を経由して、インド洋を渡り切ったところに、アチェはある。そこからマラッカ海峡を抜け、フィリピンや台湾、中国沿岸部、そして沖縄を経て、日本にたどり着く。このルートは5世紀ごろには航海が始まっており、アチェには仏教の国があった。 その後、13世紀ごろからはイスラム商人たちが寄港するようになり、15世紀にはアチェにイスラム教の国ができた。インドネシアで最初にイスラム教に改宗したのが、アチェの人々だった。アチェの住民は、古くからこの地域に住んでいた人々と、船に乗ってやってきたインド人、アラビア人、トルコ人、中国人などとの混血となった。 アチェはマラッカ海峡の入り口にあり、対岸にあった商業国家マラッカはライバルだった。1511年にポルトガルがマラッカを占領してからは、ポルトガルの圧政を嫌い、多くの商人がアチェに引っ越してきた。17世紀の初めごろが商業国家アチェの最盛期で、イスラム学者も数多く、東南アジアの文化的中心でもあった。 このころから、ヨーロッパ人がこの海域に押し掛け、ポルトガル人やイギリス人が、次々とアチェを攻略しようとした。アチェは何とか持ちこたえたが、1873年に攻めてきたオランダ人はしつこく、30年間もアチェを攻撃し続けた後、1903年にアチェの王様(スルタン)は破れ、亡命した。 ▼ジャワ島と大きく違うアチェの文化 アチェがヨーロッパ列強と戦いを展開していたころ、現在のインドネシアの中心をなすジャワ島では、神秘的、内向的で複雑な王朝文化が発展していた。ジャワの人々もイスラム教徒だったが、アチェの文化が商人と船乗りたちの、国際的な多様性の中で作られ、独立を維持しなければ略奪・支配される状況だったのに対し、ジャワでは人口が密集した無数の村々で稲作が行われ、その上に儀式に満ちた宮廷があった。文化的特徴は、大きく違っていたのである。 第2次大戦中、オランダが日本によって駆逐されている間に、アチェは独立宣言をした。そして戦後、インドネシアがオランダからの独立戦争を展開したとき、外来者との長い戦いの歴史を持っていたアチェの人々は、大きな貢献をした。アチェは独立運動の拠点となり、インドネシア空軍の最初の戦闘機は、アチェの人々がお金を出し合って買ったものだった。 インドネシアの独立後、イスラム教に基づく社会を作ろうとするアチェの指導者と、イスラム教による政治を好まないインドネシアの指導者との意見が合わなかったが、スカルノ大統領は、アチェに特別な自治権を与えると約束し、アチェは独立したインドネシアの一部になることを認めた。1953年のことだった。 だが、スカルノの約束は満たされなかった。その後、国家運営に失敗したスカルノに代わって1968年に大統領になったスハルトは、アチェの自治権を認めるどころか、経済発展のために、中央集権制を強化した。アチェを含むインドネシア各地で、民主化や自治、独立を求める人々は、軍の特殊部隊によって、容赦なく鎮圧されるようになった。 これでは、オランダ人に代わってジャワ人が、アチェを植民地支配しているようなものだった。1970年代に入って、アチェでは独立を求める武装組織「自由アチェ運動」が結成された。地元の実業家、ハッサン・ディ・ティロ(Hasan di Tiro)が中心となって結成され、自治政府を組織したが、すぐにインドネシア軍によって弾圧され、ティロら何人かはスウェーデンに亡命したが、他の幹部は軍に殺されてしまった。 ▼地元に入らなかった天然ガスの収入 その後、アチェの独立要求はいったん下火になったものの、1980年代後半になって復活した。このころ、隣国マレーシアでは高度経済成長が続き、生活が豊かになっていたが、アチェの人々は貧しいままだった。 アチェには天然ガス田があり、インドネシアで採れる天然ガスの3分の1を産出しているが、その収入はほとんど全部、ジャカルタの中央政府の金庫に入り、アチェにはほとんど何も与えられなかった。インドネシアから独立すれば、ガスの収入はアチェの人々のものになり、生活を向上させることができると考えて、独立運動が盛んになった。 だが、インドネシア軍はアチェに戒厳令を敷き、独立派と思われる村々を焼き打ちし、男たちを連行・拷問し、女たちに乱暴した。戒厳令は9年間続き、この間に2000-6000人が殺されたと概算されている。 独立派はこの間、イスラム教国のリビアや、フィリピンのミンダナオ島にあるイスラム教徒ゲリラの訓練所などで軍事訓練を受けていたが、インドネシア軍に対抗することはできなかった。 弾圧の時代は、1998年のスハルト大統領の失脚とともに、唐突に終わった。その後大統領になったハビビ、そして今年10月にその後を継いだワヒドには、もう強権政治は許されなかった。ハビビもワヒドも、アチェに自治権を与えることで、インドネシア国内にとどまってもらおうとした。 アチェだけでなく、東チモールやイリアンジャヤ、モルッカ諸島などでも、これまで弾圧されてきた独立要求が激しくなり、一カ所に独立を許したら、他の地域も独立宣言を強行しかねなかった。 インドネシア政府は欧米などからの圧力を受け、今年8月に東チモールで住民投票を実施し、独立が選択された。この後、インドネシア政府は「東チモールはもともとポルトガル植民地であり、オランダの植民地だった他の地域とは歴史的な事情が違う。東チモールの独立は、他の地域が独立することの先例にはならない」と主張したが、各地の独立要求は止められなかった。中でも、最も独立要求が厳しいのがアチェだった。 ▼功を奏したワヒドの戦略 ハビビ前大統領は任期切れ間際の今年9月、アチェに特別な自治権を認める方針を出した。これまで天然ガスの売り上げのうち、20%しかアチェに渡していなかったのを、75%まで引き上げるとか、インドネシアでは認めていなかったイスラム教に則った法律を、アチェに限って特別に認めるといった譲歩をした。またワヒド新政権は、軍のナンバー2や、新設ポストの人権担当大臣にアチェ出身者を起用したりした。 だがアチェの人々は満足せず、東チモールのような住民投票を求め続けた。ワヒド新大統領が就任して2週間後の11月上旬には、アチェの州都バンダアチェで、住民投票と独立を求める巨大な民衆デモが行われ、推計で50万-100万人が集まった。アチェの人口は450万人なので、アチェ全土の4人に1人が結集したことになる。インドネシア史上、最大のデモ行進となった。 デモの規模に驚いたワヒド大統領は、来年6月にアチェで住民投票を行うと宣言した。だがその数時間後、軍幹部がテレビに登場し「これ以上、住民投票を実施する方向に進むと、非常に危険な状態になる」と警告した。 アチェに住民投票を許し、分離独立されてしまったら、独立を要求している他の地域にも同じことを認めねばならなくなり、それはインドネシアという国家の解体を意味していた。テレビでの警告は、そんな状況を許すぐらいなら、クーデターを起こして政権を取った方が良いと考えざるを得ない、という軍のサインだった。 この前後から、ワヒド大統領は一つの戦略を実施していた。彼は大統領に就任してからの50日間のうち、17日間も海外を訪問していた。国内が大混乱している時に、海外に出ていて良いのかという批判が出たが、外遊には理由があった。 大統領は、東南アジアやアメリカ、中近東など13カ国を訪れ、インドネシアをイスラム教色の強い国にしないと約束して回った。ワヒドはもともと全国的なイスラム組織のリーダーであり、彼の大統領就任により、インドネシアはイスラム主義の国になり、周辺国のイスラム過激派を支援するのではないか、との懸念があったから、ワヒドの約束は関係国を安心させるものだった。 そしてその上でワヒドは「その代わり、アチェの独立を支援するようなことはやめてくれ」と各国に頼んだ。人権問題を重視するアメリカや、同じイスラム教徒ということでアチェを支持しかねない中東諸国に、クギを刺したのである。 ▼後継者問題で内紛する独立派 ちょうどそのころ、自由アチェ運動は、世界からアチェの人権侵害を認知してもらい、東チモールのように国連に支援してもらいたいと考え、ゲリラ部隊の幹部がジャングルの中の基地で、欧米などの記者に積極的に会うようになっていた。だが、ワヒドの作戦の方が勝っていた。 ほとんどどこの国も、アチェを支援しないことが確認できた段階で、インドネシア政府は「アチェで行う住民投票は、独立を問うものではなく、イスラム法の導入などの可否を問うものだ」と言い出した。 この変節に、アチェの人々は怒りを強めたが、すでにアチェ側は、他の面でも不利になっている。独立を推進してきた自由アチェ運動の中に、インドネシア政府との交渉結果次第では、独立しなくてもいいと言い出す勢力が出てきているのである。 ことの起こりは今年初め、解放軍の設立以来の指導者でスウェーデンに亡命中のハッサン・ディ・ティロが病気になり、後継者問題が持ち上がったことだった。ティロは自分の息子を後継ぎにしたいのだが、幹部の中から反対の声が上がった。 ティロは今年4月にストックホルムで開いた会議で反対派を追放したため、反対派は「自由アチェ運動政府」という、ほとんど同じ組織名と同じ旗を使った組織をアチェに立ち上げた。インドネシア政府との交渉を頑なに拒んでいるティロに対して、反対派は交渉に前向きな姿勢をとっている。 この問題をめぐっては「反対派はインドネシアの公安当局と内通している」とする記事が、ジャカルタのメディアに出るなど、真相は不透明だ。住民のほとんどが独立を支持しているにもかかわらず、アチェの戦う商人気質は、結局のところ、ジャワ宮廷の権謀術数を受け継ぐインドネシア政府筋の陰謀には、勝てないのかも知れない。
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