激動するインドネシア(1)民族の逆流1999年5月10日 田中 宇 | |
約2億人の人々が住むインドネシアは、大小1万あまりの島々から成り立つ国だ。そのため、島々を結ぶ定期船は、飛行機に乗れない貧しい人々にとって、重要な交通手段となっている。 インドネシアは、首都ジャカルタから、東端のニューギニア島にあるイリアンジャヤ州の州都ジャヤプラまで3000キロ以上、船で行くと丸一週間もかかる大国だ。 そのため、国営船会社であるペルニ(PELNI)の定期船は、数隻の船が少しずつ異なるルートを回っているものの、各地の港には、1-2週間に一度ずつしか寄港してこないという、のんびりした交通手段である。船の中には、かつて青函連絡船として日本で活躍していた船もある。 外国人にとっては旅情豊かなインドネシアの船の旅だが、地元の人々にとっては、まったく違うイメージを持たれている。昨年5月まで、35年間にわたりインドネシアを統治してきたスハルト政権が推進してきた国内移民政策に、欠かせない輸送手段だったからである。 インドネシアでは、古くから稲作が盛んで食糧生産力が高く、人口がどんどん増えてきたジャワ島の人口が多い半面、ボルネオ島やスラウェシ島など、その他の島々の多くは、農業開発があまり進まず、人口が少ない状態が続いてきた。 1945年に独立したインドネシアは、食糧の増産に力を入れ、ジャワ島の過密な人口の一部を、人の少ない他の島々へと移住させ、開拓させる政策をとった。ジャワ島の農村で、大した仕事もなく暮らしていた青年たちは、ジャングルを開拓して自分の広い農地を持てるようになろう、などという移民奨励の呼びかけを聞いて夢を描き、ペルニの定期船に乗って、新天地へと向かった。 この移民政策は、食糧増産だけでなく、インドネシアの国家としての統合と開発という目的も持っていた。そのためペルニの定期船には、教師や医師、土木や電気の技師なども乗り込み、ジャワ島から離島に向かった。(日本の北海道開拓の歴史と似たものを、筆者は感じる) 教師は、独立後に統一言語に定められたインドネシア語を全国民が読み書きできるようにするため、僻地の学校へと派遣された。(独立以前のインドネシアの人々の多くは、インドネシア語ではなく、各地で異なる地元の言葉だけを話していた) 島々では、教師や医者、公務員、技術者など、「近代」を感じさせる職業の人々の多くは、ジャワ島からやってきた移民だった。 ●「開拓の夢」は「侵略」でもあった だが、こうした移民政策は、ジャワ島以外の島々に以前から住んでいた人々にとっては、「侵略」であることが多かった。移民たちが入植した土地は、往々にして、「近代」的な土地利用がなされていないだけで、以前から地元の人々が住み、伝統的なやり方で利用していた土地だった。 移民たちは、軍とその配下にある警察などの国家の力を背景として、入植してきた。当然あちこちで新旧住民の間の対立やいさかいがあったが、軍と警察の力で抑えつけられた。 こうしてインドネシアでは、1980年代までの間に、すみずみまで「インドネシア化」(ある面では「ジャワ化」といってもいいかもしれない)されていき、それがインドネシアの「近代化」そのものであった。 筆者は、何回かインドネシアの中で「辺境」と言われる地域に行ったことがあるが、そのたびに地元の人々から、政府の移民政策に対する反発の声を聞いた。 1991年に東チモールに行ったとき、州都ディリの港でぶらぶらしているチモール人の若者と知り合ったが、彼らはちょうど停泊していたペルニの定期船を見上げながら「あの船でどんどんジャワ島から人々が送り込まれ、われわれの土地を奪っていくのだ」などと、小声で言っていた。 (大きな声で言うと、軍や民兵に目をつけられるので小声だった。彼らはポルトガル語ができるため、単語を類似性を利用してカタコトの英語を話した) また1995年にイリアンジャヤ州の山奥のバリエム盆地へ飛行機で行ったときは、海岸部から奥地へと建設中の道路が、盆地まで開通してしまったら、ジャワ人の入植者が大挙して押しかけてくるので、伝統的な社会が破壊されてしまう、と地元のダニ人(ダニ族)の人々は懸念していた。 (バリエム盆地のことについては「民主化だけでは解決しないインドネシア」にも少し書いた) こうした対立の中で、東チモールやイリアンジャヤでは、インドネシアから独立したいと考える人々と、軍や民兵(移民などが軍の協力を受けて作った武装組織)との衝突が繰り返されてきた。 ●スハルト体制崩壊とともに対立激化 だが、こうした構図は、インドネシアの全権を一人で握り続けたスハルト大統領が昨年5月に失脚して以来、急速に崩壊していった。これまでは軍と警察が抑えて表面化しなかった新旧住民の対立が、あちこちで爆発し、殺し合いへと発展している。 たとえば4月下旬、ボルネオ島の西カリマンタン州では、ジャワ島のすぐ近くにあるマドゥラ島から移住してきた人々が、地元のダヤク人(ダヤク族)に襲撃され、200人以上が殺された。3万人以上のマドゥラ出身者が、入植した家を追われて難民となり、近くの都市ポンティアナクの体育館などで、避難生活を送っている。 マドゥラ島からカリマンタンへは、1960年代以来、数万人の移民が入っている。その流れの中で、ダヤク人が住んでいる土地の一部に、強引に入植者が家を建て、畑を作ってしまう、ということが頻発し、1968年以来9回にわたり、衝突が起きたが、いずれも軍と警察が鎮圧し、仲介に入っている。 ところが昨年以来、軍はスハルト時代にあった、上からの強力な国家統一意思を失ってしまい、今では暴動が起きても傍観するだけになっている。そのためダヤク人が、殺した入植者の首を棒の先に刺して立て、さらし首にするといったことが平然と行われ、マスコミで報じられた。 ダヤク人は歴史的に、戦闘時には敵の首狩りを行うことで知られている。ダヤク人の側から見れば、「インドネシア」を掲げて侵入してきた入植者の首を狩ることで、自分たちの伝統的な戦闘方法で逆襲したのだ、とも解釈できる。 移住者と、もともとの住民との対立激化は、各地で激しくなっている。たとえば東チモールでは、これまでに移住した15万人のうち、5万人が島を離れ、ジャワ島などへ戻っている。 とはいえ、これらの移住者たちの多くは、移住前にいたジャワ島などの故郷には、すでに身寄りがない。20歳以下の若者の多くは、ジャワ島の故郷の村など行ったこともなく、親が移住した移住先の島で生まれ育ち、それ以外の故郷などない。すでに移住して何年もたつ人々を、逆流させて元に戻すことはできなくなっている。 一方、チモール島の北方にあるモルッカ諸島では、今年1月以来、独立前から島に住んでいたキリスト教徒と、独立後にジャワ島やとなりのスラウェシ島などから入植してきたイスラム教徒との殺し合いが頻発し、のべ400人以上が殺された。 ことの起こりは1月19日、諸島の中心都市アンボンで、若者どうしが喧嘩を始めたという、ささいなことからだった。 モルッカ諸島はかつて、香辛料の世界的産地として知られ、500年近くにわたってポルトガル、そしてオランダの支配を受けてきた関係で、キリスト教徒が多い。1970年代以降は、移民政策でイスラム教徒が増え、現在では両者がほぼ半分ずつの割合で住んでいる。 これまでも、キリスト教徒とイスラム教徒の乱闘はときどき発生していたが、その都度、対立が大きくならないうちに和解してきた。 だが、今回は様相が異なった。ポルトガル時代からの古い建物も残るアンボンの街は、2月から3月にかけて内戦状態となり、市街地のかなりの部分が焼け落ちてしまった。移民としてやってきた人々のうち、約7万人が、かつての故郷であるスラウェシ島南部へと避難した。 騒乱は、独立前から住んでいた人々と、独立後に移住してきた人々との対立という形で始まったが、じきにキリスト教徒とイスラム教徒という、宗教対立へとエスカレートし、インドネシアじゅうの人々の宗教的対立意識を煽ることにつながっていった。 こうなった背景には、いくつかの要因があったのだが、それを語るには、インドネシアのイスラム教の現状や、政局などについて説明しなければならない。それは、次回に譲ることにする。
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