激動のインドネシア(2)煽られた「聖戦」1999年5月18日 田中 宇 | |
この記事は「激動するインドネシア(1)民族の逆流」の続編です。 インドネシア東部、モルッカ諸島の中心地アンボンは、人口約30万人の、風光明媚な港町だった。 ここでは、約500年前にポルトガル人が要塞を建てて植民地とし、香辛料をヨーロッパに輸出するようになって以来、キリスト教の布教が行われた結果、住民の大半は、キリスト教徒となった。 1945年にインドネシアとして独立してからは、政府の移民政策によって、ジャワ島やスラウェシ島からの、イスラム教徒の移住が増え、現在では住民の58%がクリスチャン、42%がイスラム教徒という構成になっている。 インドネシア全体では、人口の約90%がイスラム教徒であり、アンボン周辺のモルッカ諸島南部地域は、インドネシアでは例外的にキリスト教徒の多い地域のひとつとして知られている。 アンボンでは、異教徒同士は混住せず、市内はキリスト教徒地区とイスラム教徒地区に分かれている。宗教ごとに別々のコミュニティが存在していたのだが、対立を防ぐため、双方の地区の住民代表が、昔から「ペラ・ガントン」(Pela Gandong)と呼ばれる協約を結んでいた。 キリスト教地区で教会を建てるときは、イスラム教徒も作業に参加する一方、イスラム教地区にモスクが建つときは、キリスト教徒も応援に行く、という風に、相互に友好関係を確かめつつ、協約を維持してきた。そうした異教徒間のハーモニーが、アンボンの人々の誇りでもあった。 1997年に通貨危機が発生し、インドネシア経済が苦境に陥った後も、モルッカ諸島では、インドネシア経済の中心地であるジャワ島と比べると、外国とのつながりが薄いこともあり、人々の生活への影響は、比較的少なかった。 ●世論操作に使われた襲撃 そんなアンボンの雰囲気が変化し始めたのは、経済危機が社会不安につながり、ジャワ島を中心に、宗教や民族対立を背景とした殺人や焼き討ちが増えた、昨年11月ごろからだった。 11月22日、首都ジャカルタの、アンボン出身者が多く住む地域で、賭博場が襲撃され、そこにいた警備員など、アンボン出身者と中国系住民の5人が殺された。 その前日、ジャカルタやその他のジャワ島北部で、アンボン出身者がモスクを襲撃したという、虚偽のうわさが急に広がり、その「仕返し」として、イスラム教徒が襲撃をかけた、というかたちになっていた。 賭博場のほか、ジャカルタ市内の7つのキリスト教会も暴徒の襲撃を受け、全部で合計14人が殺された。この事件で、故郷アンボンの人々の間に、恐怖と怒りが広がった。 さらに人々が不安を強めたのは、このジャカルタでの襲撃が、イスラム教徒側の純粋な怒りに基づくものではなく、何者かによって組織的に仕組まれた陰謀であった可能性が高いことが、じきに分かってきたためだった。 まず、襲撃直前に根拠のないうわさが、いっせいに広い範囲にわたって広がったことが不自然だった。また暴徒は、良く組織されていた。 賭博はイスラム教で禁止されているため、襲撃対象に選ばれたと考えられるが、賭博場にいたキリスト教徒と中国系の5人は、暴徒によって野次馬の前に引き出され、そこで「イスラム法廷」と称する尋問が行われた後、「死刑判決」を出され、暴徒によって刺し殺されてしまった。 インドネシアでは昨年9月ごろから、ジャワ島やスマトラ島で、中国系とキリスト教徒の店や教会が襲撃される、という事件が頻発しているが、その多くが、自然発生的なものとして解釈するには無理がある。 たとえば、襲撃が始まる2-3日前から、村に見慣れぬ若者が集団でうろうろしていたり、襲撃の直前に、村への送電線が切断され、真っ暗な状態の中で、武器を持った若者たちが襲撃を始める、といった具合である。 多数派であるイスラム教徒住民の心の底にある、漠然とした宗教対立の感情や、中国系の人々への妬みを煽りながら、暴動を実行していくというシナリオであろう。 また暴動の後、新聞記者などが現地に入って聞き回ってみると、「見知らぬ男から昼食と日当1万ルピア(100円強)を出すから、俺たちと一緒に行動してくれ、と誘われたので、ついて行った」などという、地元の若者が何人もいることが分かったりしている。 アンボン出身者が襲われた暴動より少し前の11月中旬には、国権の最高機関である国民協議会の臨時会が開かれ、今年6月に行われる議会選挙と、9月に行われる大統領選挙について、選挙制度の改革が審議された。 昨年5月にスハルト大統領が辞任して以来、スハルト氏がそれまで牛耳っていた与党ゴルカルや軍の内部では、権力闘争が激しくなっている。 闘争の中心は、政教分離した非イスラム教政治を続けていくか、もっとイスラム教色を内示の中に取り込むか、という対立だ。主要な政治家や軍人の間の権力闘争の上に、こうした政治路線の対立がかぶさっている。 そのため、大統領選挙の具体的日程などが固まっていく中で、イスラム教を強化しようという方向へ世論をコントロールすることを狙い、暴動が引き起こされたのではないか、との見方もある。 ●通信社の誤報は故意か? 11月のジャカルタでの暴動以降、アンボンで高まっていた緊張が、ついに爆発したのが、今年1月19日のことだった。 アンボン市内を走るミニバスの運転手(キリスト教徒)が、乗客の若者(イスラム教徒)と、運賃のことで喧嘩となり、それが発火点となって、市内全体で1ヶ月以上にわたって、異教徒間で殺し合いが展開され、数百人が殺された。 軍が介入し、空から「ペラ・ガントンを結び直し、再び仲良くしよう」などと書かれたビラがまかれたが、効果はなかった。 この内戦で、どれだけの「組織的挑発」があったかは、明らかではない。だが2月上旬、ジャーナリストの協会が、キリスト教徒とイスラム教徒の2人のジャーナリストをアンボンに派遣し、殺し合いが起きた背景をさぐる実態調査を行ったところ、根拠のないうわさがいくつも流布し、人々の憎み合いを煽っていたことが分かった。 たとえば、妊娠中の女性がお腹を刺されて殺された、といううわさが広がったのだが、キリスト教徒地区では、殺されたのはキリスト教徒の女性で、殺したのはイスラム教徒というストーリーだった一方、イスラム教徒地区ではまったく逆に、被害者はイスラム教徒で殺したのがキリスト教徒、という話として広がっていた。 こうした展開に対して、双方のコミュニティのリーダーたちは、なすすべがなかった。相手方の襲撃から地域を守るため、町のあちこちに関所を作って、往来する人々の宗教を尋ね、敵方の人々か自分の地域に入ってくることを防いだ。 イスラム教徒の検問所では、イスラム教徒と称して通行しようとする男たちに対して、本当にイスラム教徒かどうかを確かめるため、コーランの一部を暗唱させたりした。 今年3月になると、さらに事態を悪化させる出来事が起きた。3月1日、国営アンタラ通信社が、アンボンのモスクで礼拝中のイスラム教徒が銃撃されて殺された、というニュースを配信した。 このニュースには、誤報の部分があり、実は殺された場所はモスク内部ではなく、モスクの外であった。だがインドネシアの新聞はいっせいに、聖なるモスクの中でお祈り中の人を殺したことを、強く非難する記事を載せた。 昨年、スハルト政権が終わって以来、それまでの言論抑圧が一挙にとられ、、多くの新聞が創刊されたが、その中には事実確認を十分にせず、センセーショナリズムに走ることで、読者を獲得しようとするメディアも多い。そのため、誤報部分がさらに強調されてしまった。 これを受けて、ジャカルタでは2000人の学生が、怒りのデモ行進を行った。アンボンでは、誤報の記事を書いた通信社の記者が、怒ったキリスト教徒に命を狙われた。 さらにこの後、ジャカルタなどでは、いくつものイスラム教急進派組織が、アンボンのイスラム教徒を支援するための「聖戦」(ジハード)を呼びかけ始めた。 イスラム教系の新しい政党が設立した「決死隊員募集事務所」では、設置から2日間で600人の若者が登録した。また弁護士が個人的な事業として結成した「聖戦軍団」は、2週間で15000人の若者を集めた。ただし、実際にアンボンに行って人殺しをしたグループは、まだおらず、示威行為の段階にとどまっている。 若者の多くは失業中で、鬱屈した気持ちの中で、精神的なはけ口を求めており、それが「聖戦」への志願という行動につながっている。 ●背後に軍内の対立 とはいえ、もともとインドネシアのイスラム教徒は、イスラム伝播以前のヒンズー教信仰などの影響を受けたため、中東のイスラム教徒よりも厳格さが少なく、異教徒にも寛容だと言われてきた。 しかも、インドネシアにおけるイスラム教徒は、人口の90%を占めており、全体の数からいえば、抑圧されているのはむしろキリスト教徒の方であり、イスラム教徒から戦いを挑む必要はない。 なのになぜ「聖戦」が叫ばれ、「決死隊」が編成されるのか。 ひとつの理由は、インドネシアの民主主義を抑圧していたスハルト大統領が昨年5月に失脚したにもかかわらず、その後も人々の生活は楽にならず、募ったイライラが、異教徒に対する攻撃というかたちで噴出しているということだろう。 また、これまでみてきたように、宗教対立は組織的に煽られている可能性が強いが、煽っている黒幕は、インドネシア軍内部にいるのではないか、との指摘もある。 インドネシア軍は、国防や治安維持のための組織というだけでなく、インドネシアの政治にとって中心的な存在であり続けた。スハルト大統領も、元は軍人で、クーデターを経て政権を握った。 軍の内部には現在、政教分離を維持しようとする派閥と、政治のイスラム色を強めたい派閥がある。軍の主流派となっているウィラント国防大臣は、政教分離維持派である。 軍内のイスラム派は、ウィラント国防相を失脚させて、イスラム派の中から大統領を出そうと画策しているのではないかと思われるが、その方法として、国内の宗教対立を煽り、イスラム教に対する人々の支持を強化するとともに、社会を混乱させ、ウィラント国防相に責任を取らせて失脚させ、イスラム派が政権を握る、というシナリオが考えられる。 そして、その背後には、政界からすべて退いたはずのスハルト前大統領が、黒幕として存在しているのではないか、といった分析さえ、インドネシアでは流れている。 インドネシアでは6月7日に議会選挙が行われ、当選した議員らによって、9月には大統領の間接選挙を行う予定になっている。選挙に向けて、軍内の権力闘争も激しくなっているわけで、アンボンやジャカルタの宗教暴動も、選挙に向けた政治的謀略という側面もありそうだ。 またもうひとつ、軍内のイスラム派の勢力の中心が誰なのかはっきりしない、ということは、1960年代に、インドネシアの政治が大混乱したときと似ている、という点で気になる。 60年代の大混乱の結果、スハルト氏が大統領になったのだが、彼はその混乱より前は、ほとんど有名でない将校だった。こうした、歴史が繰り返されるかもしれないと考える人々の中には、昨年以来、最後に権力をとる者が誰なのか予測がつかない、という人もいる。 6月の選挙に向けて、インドネシアでは緊張感が高まっており、しばらくは目が離せない状態だ。
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