生まれながらの不幸を抱えた国、パキスタン

1999年11月29日   田中 宇

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 「島国の日本がうらやましい」
 先日、あるパキスタン人と話していて、そう言われた。島国の日本が、海外からの攻撃を受けにくいのに対して、パキスタンでは、インドとの対立や、アフガニスタン、中国など近隣諸国が抱える混乱が、すぐに自国に波及してしまう。そんな違いをさしての言葉だった。

 パキスタンという国を運営していくのは、確かに大変だ。パキスタンでは先月、軍事クーデターが起き、それまでのシャリフ政権が、軍によって追放されたが、それはシャリフ政権が極度に腐敗していたからだった。

 シャリフ政権の腐敗は、単に軍がそう主張しているということではない。たとえばパキスタンでは、銀行業界が貸し出した総額の3割近い、2100億ルピー(40億ドル、約4000億円)が回収されず不良債権となっているが、これらの金の借り手は、シャリフ首相を始めとする大物政治家や、その取り巻きの人々など、全部でわずか1000人あまりの、パキスタンのトップエリートたちである。

 シャリフ一族だけで、不良債権全額の25%にあたる10億ドルを借り、ほとんど返していない。彼は首相としての自分の権限を使い、国有銀行から自分の一族あてに、無担保でどんどん金を貸させていた。そしてその金を、欧米の銀行口座に移して隠したり、豪華な邸宅を建てたりしていた。借りた金を返すつもりがあったとは、考えにくい。

 日本ではバブル経済の始めのころ、企業舎弟と呼ばれる暴力団の関係者が、大手都市銀行の幹部を巻き込み、大手商社「イトマン」を食い物にした事件があったが、それに似たような事件が、パキスタンでは国家レベルで起きていた。パキスタンの人々は、暴力団同様の人物を、首相に選んでいたというわけだ。

 シャリフ氏は最高裁判所や議会など、自分と対立しそうな政治組織との政争に次々と勝ち、汚いことをしても、誰にも文句を言われない状態を作っていた。そして、最後に残った軍の権力も奪おうとしたため、軍司令官であるムシャラフが反撃し、クーデターでシャリフを倒したのだった。

 シャリフら国の中枢のいた人々は、お手盛りで許認可を出して、自分の一族に、さまざまなビジネスを営ませていたが、ほとんど税金は払っていなかった。国税局長も、首相のイエスマンなのだから、払えと言うわけがなかった。

 パキスタンでは、都会に住むホワイトカラーでも、月に2-3万円も月給があれば良いほうだ。そしてそのくらいの収入の中産階級が、主に税金を払わされている一方で、それよりずっと金持ちの人々は、権力を使うことで、税金を払わずにすんでいた。私が話をしたパキスタン人も「シャリフが払っていた税金は、私よりずっと少なかっただろう」と、冗談めかして言っていた。

 銀行が貸した金は返ってこないし、税金もきちんと集められないとなれば、国の経済がうまく回るわけがない。パキスタンは海外から借りた320億ドル(3兆円強)の借金を返せず、破綻寸前の状態だ。

▼民主的にやると腐敗する政府

 パキスタンの苦悩が深いのは、シャリフの前任者の首相であったブット女史もまた、シャリフに劣らず、腐敗していたことだ。ブットは一昨年、腐敗を理由に、当時の大統領によって解任された。その後、追訴されそうになったため、海外に亡命している。

 シャリフは、パキスタンの大都市の一つ、ラホールを拠点として、金儲けと権力維持をしてきたのに対して、ブット一族はもう一つの大都市、カラチを拠点にしている。いわば、関東の暴力団、稲川会が出していた首相の汚職がばれた後に、関西の山口組が首相を引き継いだようなものだ。

 さらに言うなら、ブットとシャリフばかりでなく、パキスタンでは、もっと前から、民主的に選ばれた政権が腐敗し、軍事クーデターによって腐敗が一掃されるという歴史が繰り返されてきた。

 独立から10年後の1958年にはすでに、軍事クーデターの後、アユブ・カーン将軍の政権によって、政治家がからんだ密輸や闇市が取り締まられ、IMFなどに対して返せなくなっていた借金を、返済できる状態に戻している。パキスタンでは、国民が選んだ政治家の方が、軍人よりも信頼できない、という状態が続いてきた。

 10月にパキスタンで起きたクーデターによる政権交代を、こうした歴史的な流れでみると「民主的な良い政治家が、独裁的な悪い軍人によって倒された」という見方は、当たらないことがわかる。

 クーデターで政権についたムシャラフ将軍は、銀行から巨額の金を借りて返さない人々を取り締まる特別な裁判所を作って裁くなど、世直し的な政策を、次々と打ち出している。(とはいえシャリフ前首相らが借り出した資金の多くは海外に流出し、5%も回収できていないのだが)

▼ムシャラフに協力する意外な人々

 しかも意外だったのは、独裁というだけの政権だったら協力しないであろうと思われる知識人や民間の人々が、ムシャラフの求めに応じて、クーデター後の新政権に参加したことである。たとえば、新政権の大蔵大臣になったのは、アメリカに住み、シティバンクの副社長まで登りつめたのシャウカト・アジズ氏であった。

 彼は多分、一般的なアメリカ人エリートとしての感性を持っているであろうから、強権的な独裁政権には参加しないであろう。また森林伐採の反対運動をしていたオマル・アシュガル・カーンという人は、ムシャラフに頼まれて地域開発の担当大臣になったし、「The News」という英字新聞の編集局長だったマレーハ・ローディ(Maleeha Lodhi)女史は、請われてアメリカ大使に就任した。

 クーデター直後の段階では、欧米メディアの論調の中には、ムシャラフ将軍はイスラム原理主義に親近感を持っていると指摘するものがいくつもあった。私も、ムシャラフがカシミールのイスラム主義武装組織と親しいといわれていることなどから、イスラム主義に傾倒している人なのではないか、と考え、クーデター直後に書いた記事も、そのようなトーンを持っていた。(「聖戦の泥沼に沈みゆくパキスタン」参照)

 だが、それは間違いだったようだ。ムシャラフは確かに、インドを嫌悪する傾向が強く、インドに対して強硬な態度をとった元インド大使を、外務大臣に据えている。アメリカへの信頼感も、シャリフに比べて低い。だが、彼はイスラム主義者ではなく、西欧化を進めることによって祖国を発展させようとする、パキスタンの伝統的なエリート層の一員であるようだ。

 ムシャラフや、新政権を支持する人々の心中には、今回の新政権による改革が成功しなければ、イギリスから独立して以来、約50年のパキスタンは国家作りは、失敗だったということになってしまう、という危機感がある。

 アメリカ大使になったローディ女史は、ワシントンポストの取材に対し「軍の存在はパキスタンにとって、改革を成し遂げられるかどうかの、最後のチャンスだ。失敗したら、パキスタンは自滅するだろう」と述べている。

▼イギリス植民地時代に遠因

 なぜパキスタンは、こんなに追いつめられた状況にあるのか。それを分析するには、パキスタンという国ができた歴史を考えてみる必要がある。

 パキスタンは、1947年に独立するまで、イギリスのインド植民地の一部だった。英領インドは、住民の約70%がヒンドゥ教徒、約25%がイスラム教徒だったが、イギリスからの独立に至る過程で、二つの集団は「ヒンドゥ復興運動」と「イスラム復興運動」という、別々の民族運動をおこした。マハトマ・ガンジーらは、それらを一つの「インド民族主義」として統合し、イギリスから独立後の統一インドの精神的な柱にしようとした。

 だが、多数派であるヒンドゥ教徒と、イギリスが来る前のインドを「ムガール帝国」として支配していた自覚があるイスラム教徒との、誇りの衝突に折り合いがつかず、別々の国として独立するに至り、一つのインドを目指したガンジーは暗殺された。

(インドとパキスタンの分離の主因を、イギリスによる悪意ある分割統治に求める説もあるが、インドもパキスタンも支配層はむしろ「偉大な大英帝国の後継者になりたい」という意志があり、イギリスに対しては好感の方が強い)

 いきさつから考えると、インドとパキスタンは、対等な立場で「英領インド」を二分して継承できるはずだったが、現実には、国家体制から「インド」という名前に至るまで、すべてヒンドゥ教徒側が引き継ぐことになった。国連の議席も、英領時代からの議席はインドが自動的に継承し、パキスタンは新規加盟の扱いになった。

▼国の基盤がないところに戦争と難民

 英領時代のインドには、イギリス直轄領のほかに、「土侯国」と呼ばれる、イギリスが来る前からの支配者(土侯)による中小の王国が、無数にあった。その中には、土侯がイスラム教徒だが住民の大半はヒンドゥ教徒、またはその逆に、土侯がヒンドゥ教徒だが住民の大半はイスラム教徒、という地域がいくつかあった。

 インドとパキスタンが独立した際、これらの土侯国がどちらに帰属するのか、争いになった。住民はヒンドゥだが支配者はイスラムだった、ハイデラバードとジュナガードという、ふたつの土侯国は独立直後、インド軍の進攻などによって、インドが併合した。

 その流れからいうと、その逆の、住民はイスラムだが支配者はヒンドゥというカシミールは、パキスタンが併合するのが自然だったのだが、インドは引かず、その後50年間に及ぶ地域紛争が展開されるに至った。

 英領インドの政治的遺産を引き継いだインドに比べ、パキスタンは、国家の基盤が何もないところから、国造りを始めざるを得なかった。カシミールでの戦いに負けないよう、軍事費も減らせなかった。パキスタンが国家としての形をなすためには、インドとの戦いに負けないようにする必要があったから、国家の枠組みを守る存在として、軍が重要になった。

 英領インド時代、イスラム教徒は、ムガール帝国の関係者だとみられ、イギリス人統治者から疎んじられた上、イスラムの教えは利子をとってはいけないので、イスラム教徒は金融業などビジネス分野にもあまり進出しなかかった。そのためパキスタンでは、産業の育成も簡単ではなかった。

 そのように、国としての基盤がないところに、ヒンドゥとイスラムの独立時の殺し合いで難民化したイスラム教徒たちが、インド大陸じゅうからパキスタンの大都市に移民してきて、貧民街を形成した。政府は、彼らに対する福祉事業にまでお金が回らず、その仕事は新興の地域ボスたちによってなされることになった。

 大都市の貧困層を牛耳った地域ボスは、それを選挙マシンとして使い、政界進出していった。国としての伝統がないため、国家に対する意識が高まらず、政治的な目標の実現より、政界に進出することによる利権獲得が重要視され、汚職がなくならなかった。

 パキスタンのお金持ちは、複数の子供がいると、それぞれに別々の政党を支持させることがよくあるという。どの党が政権をとっても、自分の一族がその中枢にいられるようにとの「分散投資」である。

▼軍の失敗を待っているイスラム主義者たち

 パキスタンではこれまで、クーデター後などに、汚職の摘発や政治改革が、何回か行われている。だがいずれも、数カ月もすると初心が忘れられ、大して効果があがらないまま、立ち消えになっている。そのため、汚職を取り締まられ、一時は海外亡命する有力者も、いつのまにか再び蓄財を再開し、何年か後の取り締まりで、また名前が出てくるというケースが、珍しくない。

 だが今回の改革がうまくいかなかった場合、従来とは違った展開がありうる。次の選挙で、イスラム主義者の政治勢力が政権をとる可能性があるからだ。パキスタンは、ソ連軍撤退後も続いていた隣国アフガニスタンの内戦を収拾するため、イスラム原理主義組織タリバンの結成を後押しした。

 だが、その反作用として、最近ではタリバンは逆に、パキスタン国内のイスラム主義運動を支援し、これまで西欧化を重視してきたパキスタンの体制をくつがえそうとしている。

 パキスタンという国の不安定さは、容易なことでは乗り越えられそうもない。そう考えると、知人のパキスタン人が言った「日本は島国でいいなあ」という言葉が、実感として分かる気がする。「政治環境が恵まれている」とパキスタン人から思われている日本人から、核実験などについて文句を言われても、パキスタンの人々には「事情を知らない人が騒いでいる」としか、見えないのではないだろうか。




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