イスラム共和国の表と裏(2)ひそやかな自由化
1999年9月27日 田中 宇
イランの首都テヘランのバザールは、巨大な迷路である。幅2メートルほどの、天井つきの道の両側に、衣料品や布類、鍋釜など日用品雑貨、貴金属などを商う小さな店が、びっしりと並んでいる。平日でも、ウインドウショッピングの人々で混雑しているので、内部の見通しは悪く、すりに気を付けながら10分も歩き回ると、もう元の場所には戻れなくなっている。同じ種類の商品を扱っている店が、数軒並んでいる場所がいくつもあるというのが、このバザールの特徴のようで、金の宝飾品だけを扱っている店が並んでいる場所などは、そこだけ雰囲気が豪華なので驚く。バザールを日本語で分かりやすく言うと「市場」であろうが、単なる市場ではない。案内してくれたイラン人によると、一般市民は特別のときしか、ここで商品を買うことはないという。
その特別なときの一つが、冠婚葬祭だ。バザールの奥の方を歩いていると、純白のウエディングドレスを店頭にぶら下げている店があった。近くには、ダンボールで作られた平らなマネキンに、タキシードを着せて飾ってある店、新婚家庭に使う、洋風のきれいな食器類を売っている店などがあった。
とはいえここは、欧米文化を反イスラム的なものとして敵視する傾向が強い、イスラム共和国である。ウエディングドレスやタキシードを着て結婚式を開いたりしたら、当局に厳しく処罰されてしまうだろう。イランでは女性は、イスラム教徒であるかどうかにかかわらず、外出する時、顔と手のひら以外のすべての身体を、覆わねばならない。
私は妻と一緒にイランに行ったのだが、炎天下の高速道路を知人の自家用車でドライブしている時、あまりの暑さに、妻が車内でスカーフを外したら、3分もしないうちに、同乗して案内してくれていた日本人の知人から、真剣な顔で「対向車から見えるので、せめてスカーフを頭に乗せておいてください」ときっぱり頼まれた。それほどに、いたるところで厳しい監視がある。ウエディングドレスなど、格好の餌食であろう。
▼結婚式会場を取り繕う方法
バザールを案内してくれていたイラン人に、一般にどこで結婚式をするのか尋ねると「家の中でやるんです」と言う。自宅で結婚式? ピンと来ないまま、近くのペルシャじゅうたん屋の客引きにつかまってしまい、その時はそれ以上尋ねなかったが、その後、日本人駐在員の奥様と話しているときに、また結婚式の話が出た。彼女は、イラン人の結婚式に出たことがあるという。テヘラン市内の北部には、芝生の庭やプールつきの高級住宅街が広がっている。そういうところに住んでいる人、あるいは住んでいる人と親しい人は、広々とした個人宅にお客を招き、結婚式をやる。
素性の知れた親しい人々しかいない家の中では、ウエディングドレスやタキシード、カクテルドレスなど、どんな格好をしても大丈夫なのだ。そこではビールやウォッカなどお酒も飲み放題だし、ダンスに興じる人もいる。いずれも、イランでは反イスラム的な行為として、公式には禁止されていることだ。
この奥様が招かれた結婚式は、芝生の庭での立食形式であった。欧米での結婚式と変わらない雰囲気だったが、ただ一点、違っていたのは、庭の隅の方に、黒い大きなテントが用意されていたことだったという。
これは女性用の特別なクロークで、会場に着くと、女性はまずここで、真っ黒い外出用のチャドルを脱ぐ。その下は、パーティ用の欧米風の装いだ。普通はそのままパーティを楽しみ、帰る時までクロークには行かないが、近所の人が密告でもして、宗教警察がやってきたら、即座に花嫁を筆頭に、参加者の女性全員がこのテントに駆け込み、査察を待つことになる。
イランでは、親族以外の男女が、チャドルなしの格好で、親しく話したりしてはいけない。だから、立食パーティも公式には、外で歓談できるのは男性だけで、女性はテントの中で女どうしで別にやらねばならない。それを取り繕うための非常用に、テントが必要になっているのだった。
強制捜査をすばやく感知するために、会場の入り口などには見張りの男たちが立っていて、捜査を察知すると、アルコール類も1−2分で片付けられ、あっという間に洗面所やトイレなどに全部流すのだという。
▼トルコの衛星放送が大人気
前回の記事「乗っ取られた革命」でも書いたように、私のイラン社会の経験は、上流階級のものが中心だ。あるイラン人知識人は「貧しい人々だって、欧米の生活様式を好むという点で、僕たちと同じだ。実際にヨーロッパを旅行できる僕たちに比べて、外国に行けない人々の方が、あこがれは強いはず。みんなお金をかけられる範囲で、楽しんでいるのさ」と語っていた。だが狭い家では、ウエディングドレスなど着ても意味がないので、ドレスを着るのは、お金持ちだけであろう。とはいえ、上流ではない人々の間でも楽しめるものもある。その一つは、隣国トルコの衛星放送だ。トルコはイランに比べて正反対を行っている国だといえる。つまり、イランでは政府がイスラム的なものを最大限に重視し、欧米的なものをできる限り排除しようとしているのに対して、トルコでは、政府ができるだけ欧米的な国造りを目指し、イスラム的なもの、たとえば女性の公務員が頭にスカーフをかぶって仕事をすることを規制している。トルコは中東有数の親米国家でイスラエルとも仲が良いが、イランは世界屈指の反米国家で、イスラエルは天敵だ。
そんなトルコの、何10チャネルかの衛星放送を、イランで見ることができる。最近買ったというイラン人によると、デコーダー(映像暗号解読器)つきの受信機とパラボラアンテナが合計3―4万円ぐらいで買え、受信料は要らない。50円も出せばお昼の定食が食べられるイランの物価からすれば高い買い物だが、中流階級の人々の間で、流行っているという。
さらにお金をかけて別のパラボラアンテナを買えば、CNNやBBCといった欧米の衛星放送を見ることもできる。トルコの放送はいわば、世界標準の感覚を身につけるための入門編ともいえる。
イラン政府は、衛星放送の取り締まりを続けており、ヘリコプターを飛ばして航空写真を撮り、それに基づいてパラボラアンテナを見つけ出すということをやっているらしい。だが、取り締まりについて尋ねる私に対して、くだんのイラン人は「アンテナを見つからない場所に設置する方法も、電気屋が教えてくれたから、問題ない」と、わざと声を潜めて言い、笑った。
私もトルコの衛星放送を見たが、ロックの歌番組やアメリカ映画、ポルノまであった。延々と宗教的な番組をやっているイランのテレビとの違いは、あまりに対照的であった。音声はイランの言葉と全く違うトルコ語なので、イラン人の多くは聞き取れないのだろうが。
▼見て見ぬふりして国民に「免疫力」
イラン当局の、欧米風の文化を取り締まる力は、2年前に民主化を強調するハタミ大統領が選挙で勝ってから、かなり弱まっている。ハタミ師は、国際的な情報化社会の到来とともに、衛星放送やインターネットがイランをも席巻し、欧米化を禁止する政府への反発が強まると予測して、人々に欧米文化に対する「免疫力」をつけさせて政権を維持しようと、少しづつ欧米文化の流入を自由化する戦略をとった。つまり、ウエディングドレスもトルコの衛星放送も、政府は見てみぬふりをしている面がある。政権内部には、ハタミ師よりも上位にいる宗教指導者ハメネイ師など、欧米化への反発意思がもっと強い勢力もあるため、全く取り締まらないわけにはいかない、という事情があるらしい。
人々に対する服装チェックも、2年間でかなり緩和された。かつてはジーンズやネクタイ姿はご法度だったが、最近ではジーンズはほとんど問題にされないし、ネクタイ姿も、テヘランにいた5日間に2人見た。(まだ驚きの対象だが)
女性に関しては、上から下まで、真っ黒なチャドルの着用を義務付けられているため、ファッションを外で見せることは許されない。とはいえ、微妙だが重要な「抵抗」も目にした。テヘラン北部の高級住宅街に近い繁華街を、夜に散歩していたときに見かけた女性の何人かは、スカーフの後ろから、長い髪の毛の先の方を、10センチぐらい見せていた。
後ろのすそに「GUCCI」と金色の文字がプリントされている黒いスカーフを、さりげなく着用している人もいた。真っ黒だが微妙に模様の入っている、黒いドレスのようなチャドルを着たり、大胆にもスカーフを後ろにずらし、前髪にティアラのような飾りをつけている人もいた。
わずかなお洒落なのだが、これらはすべて反イスラム的な行為だ。他の一般女性たちがあまりにそっけない真っ黒装束なので、ものすごく挑発的でスキャンダラスな感じがした。これらは多分、夜にしかできないお洒落だろう。昼間は目立つので、危険が大きすぎる。当局は、男より女の服装に対して厳しい。
▼イスラムの教えは玄関まで
女性が、これほどまでに身を隠さねばならない理由を、何人かに尋ねたが、聖典コーラン(クルアーン)にそうせよと書いてあるという以上の、明確な理由は示されていないという。「女は放っておくと、男を誘惑してしまうので」という解釈があると教えてくれた人がいたが、誘惑するのはむしろ男の方からではないかと思ってしまった。一方、民主化政策の一環として初の女性副大統領となった人物は「男からいやらしい視線で見られないように、身を隠すのです」という解釈を述べているという。隠せば隠すほど、男はちらりと見える髪の毛の先などを、じろじろ見てしまい、同じことではないか、とも感じた。
とはいえイランでは最近、女性のあり方や社会進出の是非などについて、テレビや国会などで盛んに議論が続いている。イスラムの教えの範囲内なら、反論も自由ということだ。
しかもテヘラン北部の高級住宅街では、イスラムの教えも、玄関から中には入ってこない。そこでは、自宅に友人たちを招いて開くパーティが盛んだが、女性たちが玄関でチャドルを脱ぐと、下には水着のような大胆な格好をしている人が多い。酒を飲み、タバコを吸い、ダンスに興じ、宴たけなわになるとボーイフレンドに肩を抱いてもらう。
私はイラン滞在中に出た、その手のパーティは一回だけだったが、パーティ好きの日本人駐在員によると、外で禁欲せざるを得ない分、パーティでは無礼講、というのが珍しくないという。
最近ではマリファナの使用が問題になっている。飲酒は取り締まられると、息が臭いのでばれてしまうが、麻薬はばれにくい。麻薬は酒よりがさばらないので、密輸も比較的簡単だ。そもそも隣国アフガニスタンが、世界有数の麻薬生産地で、イランはアフガンからヨーロッパへの麻薬密輸ルートの途上にあり、手に入りやすい。
▼ハタミはゴルバチョフか
イランではこのように、個人的な生活面は、かなり自由化されている。だが、思想・言論面など社会全体の自由化、つまり反イスラム教的な発言が許されるような状況は、全くない。ハタミ師の改革は、あくまでもイスラム共和国体制を維持するためのものだからだ。今年7月に起きた民主化要求の学生運動は、ハメネイ師ら宗教上層部が「反イスラム的だ」と非難する段階になって、ハタミ師の政府内での立場が悪くなり、ハタミ失脚によってすべてを失うことを恐れた学生組織の主力が、運動を切り上げるかたちで、下火になった。
「だが、これで終わりではない」とテヘランの知識人は言う。「ゴルバチョフは、ソ連の崩壊を食い止めるために、社会を少し民主化しようとした。結局、彼がしたことは、ソ連崩壊を早めただけだ。ハタミは違うと、誰が言えるのかな」と言った後、一息ついてから「でも、時間がかかる。まだあと5年はかかるだろう」と語った。
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