イスラム共和国の表と裏(1)乗っ取られた革命

1999年9月21日   田中 宇

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 東京と、イランの首都テヘランを結ぶ、イラン航空機のボーイング747ジェット機には、カーテンで仕切られた、お祈り用の小部屋が設けられている。小部屋の壁には、小さなディスプレイがはめ込まれ、飛行機の進行方向から見てどちらの方向にメッカがあるかを示す矢印の映像が、映し出されていた。

 イスラム教の礼拝は、メッカの方角を向いて行うため、このスクリーンを見て、どっちに向かって立てば良いか確かめてから、お祈りをするのだ。さすがイランは、敬虔なイスラム教の国だ、と感心していると、ちょうど通りかかったイラン人の若い男性と目が合った。

 これをきっかけに、日本語ができるこの男性と、いろいろ話をすることになったのだが、間もなく最初の感銘とは180度反対の驚きに見舞われることになった。

 イランの人々は皆、敬虔なイスラム教徒なのか、との問いに、男性はニヤリと笑って「みんな、宗教を信じているふりをしているだけだよ」と答えた。驚いて理由を問うと「政治や金儲けの建前に、宗教が使われているから」だと言う。

 「イスラム教」という言葉を使うと、日本語の分からない周囲のイラン人乗客にも、何を話しているか察知される可能性があるためか、「宗教」という言い方をしていたが、彼は言葉の端々に、自分の国の宗教が置かれている状況に対する嫌悪感を表していた。そして彼は「イランには、あなたの髪の毛の数ほどの、たくさんの秘密警察がいるから、注意した方がいいよ」と、忠告してくれた。

「中東で最も不熱心なイスラム教徒」

 イランの現体制への強い反発を、私の前で表明したのは、彼だけではなかった。イラン国内に入ってからも、日本語や英語の話せる何人かのイラン人が、似たようなことを言っていた。

 私がテヘランで親しく会話した、ある30歳代の男性は「私は、お祈りには全く行かない。イスラム革命の後、人々は自分の保身のためにモスク(イスラム寺院)に行くようになった。私は偽善をしたくないので、モスクに行かない」と言っていた。

 また、別の男性は「エジプトやシリアなど、宗教と政治が分かれている国では、人々の信仰は心からのものだ。だが、宗教が政治を支配しているイランは違う。今のイラン人は、中東で最も不熱心なイスラム教徒になっている」と述べた。

(「髪の毛の数ほどいる秘密警察」が、この記事を読む可能性があるので、イランで会った人々の具体的な名前などは書かないことにする)

 私が話をしたイラン人は、英語か日本語を上手に話せる人々なので、いわゆる知識人か、上流階級に属する人であり、社会の多数派ではないだろう。イラン人のすべてが、このような意見を持っているわけではないとも思える。

 たとえば、私は今回の1週間のイラン滞在中、テヘランから車で2時間ほどのところにある聖都コムにも行ったが、ここの有名な廟には、中庭に入りきれないほどの人々が参拝に来ていた。

(コムには、イランで最も重要なイスラム神学校があり、その卒業生である聖職者たちが、イランの政治と宗教を支配している。あえて日本に置き換えてたとえるなら、京都や奈良のお坊さんたちが大臣となって内閣を作り、袈裟を着て国会内を闊歩し、最高裁判所の判事席にも座っているようなものだ)

 私がコムに行った9月14日はちょうど、イスラム教の開祖であるムハンマド(マホメット)の娘、ハズラット・ザーラ(Hazrat Zahra)が死去した命日で、祭日だった。コムの廟の入り口では、彼女の死を悼むため、子供から老人までの、黒装束の男たちが延々と列をなし、鎖で自分の背中を鞭打つパフォーマンスをしながら、廟に入る光景が見られた。

 廟の反対側にある出口では、廟の内外でのパフォーマンスを一通り終え、聖者が亡くなった悲しみをすっかり自分のものにした若い男たちが、心底悲しいという様子で、泣きながら石の床に自分の頭をわざとぶつけたりして、他の男たちに抱えられるようにして去っていった。イランには、非常に熱心な信者もたくさんいるのである。

殉教を追体験するエクスタシー

 とはいえ、上のような光景の中にも、イランにおける宗教の政治化が含まれている。9月14日が祭日になったのは今年からで、この宗教的な日を祭日とする代わりに、3月の「石油産業国有化記念日」という宗教的でない祭日が、休日扱いされないことになった。これは「政府が人々の宗教心を維持するための方策だ」と、ある知識人が説明してくれた。(この休日振り替えは反発が多く、国会で継続審議となっていた)

 また、自分の体を鎖で鞭打つパフォーマンスは、もともとイランで信仰されているシーア派イスラム教にとって非常に重要な人物である、第3代の指導者(イマーム)だったイマーム・フセインという人物が、西暦680年に惨殺された命日にだけ行う、追悼の儀式であった。

 だが最近では、フセインの命日以外の日にも、演じられるようになっている。これも前出の知識人は「鞭打ちのパフォーマンスは、人々を恍惚とさせる効果がある。宗教心を維持させるため、命日以外の時にも奨励されるようになったのだ」と分析していた。

 そういえば、パレスチナ(イスラエル)の聖都エルサレムでも、イエス・キリストが市内を引きまわされ、はりつけにされるまでのパフォーマンスを追体験できるようになっていて、大きな木の十字架を担いだアメリカ人の若者たちが、イエスと同じ格好をして、泣きながら歩いているのを見たことがある。宗教は違っても、聖者の受難を追体験することで、悲しみのエクスタシーにはまり、熱狂的な信者になれるのだろう。

 エルサレムでは、イスラム教徒のアラブ人(パレスチナ人)の市民たちが、熱狂する欧米からの巡礼者を、冷ややかに眺めたり、お土産を売りつけようと声をかけたりしていた。だがコムでは逆に「ロンリープラネット」(英語の旅行ガイドブック)を持った欧米人の観光客が、熱狂するイスラム教徒たちを眺めているのだった。

「革命は乗っ取られた」

 イランのイスラム教が、人々の生活に深く根ざしたものであることは、間違いない。古都と呼ばれる地方都市、イスファハンでは夕暮れ時、家族そろってモスクに向かう、無数の人々の流れを見た。昼なお暗いバザールにひしめく店の間の、目立たない入り口の奥がモスクになっていて、立ち止まって見ていると、けっこうたくさんの人々が出入りしていたりする。

 だがその一方で、知識人たちの中には、聖職者たちが国家のすべてを決定する現体制にうんざりしている人が多いのも、どうやら確かなようだ。今年7月にイランの各都市で起きた、学生たちの民主化要求デモは、その象徴だった。

 体制を批判しつつも、「イランの社会は、日本のように単一ではないから、イラン人がどういう性格か、ということを簡単には語れない」と、日本についても詳しいイラン人が言っていた。

 そもそも、1979年に起きたイランのイスラム革命とは、イスラム教に基づいて、アメリカなど欧米型の社会よりも、人々が幸せになれる社会を作るためのものだった。少なくとも、革命が始まった当初は、そう思われていた。だが、その後が問題だった。「革命が、ホメイニ師らイスラム聖職者たちによって乗っ取られてしまったことが、問題の始まりだった」と知識人たちは言う。

 革命前のイランは、アメリカの後押しを受けたパーレビ国王(モハンマド・レザー・シャー)による欧米化政策が失敗し、生活苦と、反政府派への容赦ない弾圧が、国王(シャー)への国民の反感を強めてしまった。人々は、アメリカに支配されない、民主的で豊かな体制を求め、その象徴として、イラクに亡命中だった反体制聖職者、ホメイニ師への支持が強まった。

 つまり、ホメイニ師への支持は、民主化と生活向上という人々の要求を反映したものであり、イスラム教の聖職者が政治のすべてを支配する体制を、国民の大多数が望んでいたわけではなかった。民族差別をなくしたいクルド人など少数派の民族や、無神論のマルクス主義者たちも、シャーとアメリカに反対するという点で、ホメイニ師を支持した。

政争に使われたアメリカ大使館占拠事件

 ところが、1979年にシャーが亡命してイスラム革命が成就し、新政権ができた後、政権内部での抗争が激しくなった。その年末に、反米意識の強い学生たちがアメリカ大使館占拠し、職員を人質にとる事件が起きた。それへの対策をめぐり、穏便な解決を望む中道派と、反米強攻策を貫くホメイニ師らイスラム法学者の勢力との対立が深まった。結局、人々の反米意識を利用したイスラム勢力が勝ち、中道派は追い出された。

 翌1980年には、イラクのサダム・フセイン大統領がイランへの攻撃を開始し、イラン・イラク戦争が始まった。イランでは、政権内部の混乱が続いていただけでなく、シャーに忠誠を誓っていた軍の幹部が、イスラム革命後に粛清され、軍の力も弱まっていた。

 ペルシャ湾岸に近いイランとイラクの国境線は、1930年代から紛争の対象だったが、革命前のイランは、アメリカの軍事力の後押しによって、自国に有利なように国境線を定めることができた。だがイスラム革命の後、イランは弱体化していた。

 かねてから、アラブ民族を統一する指導者となることを目指していたフセイン大統領は、この機を逃さず、国内外に自らの強さを示すため、武力によって国境線を引き直そうと、イランを攻撃した。イランの革命がイラクに飛び火することを防ぐ狙いもあった。

(中東諸国のうちイラク、サウジアラビア、シリア、ヨルダン、エジプトなどの多数派は、いずれもアラビア語を話すアラブ民族。イランの多数派は、これとは異なるペルシャ語を話すペルシャ民族)

イラン・イラク戦争もまた・・・

 ところがこの戦争は、ホメイニ師らイラン政権内のイスラム勢力にとっても、プラスに働いた。フセイン大統領を「イスラム教をないがしろにしてアラブ民族主義に走ったイスラム教の敵」とみなし、この戦争をイスラム勢力と反イスラム勢力の戦いと位置づけて、イラクとの停戦を指向する政権内の反ホメイニ派に「反イスラム」の烙印を押す攻撃材料として使ったのである。

 戦争が始まって1年近くたった1981年には、都市の知識人の支持を受けていた無党派のバニサドル大統領が失脚・亡命し、ホメイニ師の政敵となりかねない勢力はなくなった。ホメイニ師は、モスクを通じて配給物資を地域住民に届ける戦時体制を強め、このルートを使って住民監視を強めた。戦争を利用して、反政府勢力が生まれにくい体制ができた。

 1982年には、フセイン大統領が停戦を提起したが、ホメイニ師は拒絶し、逆にその後、イランはイラクへの反撃を始めた。背景には、戦争が長引くほど、ホメイニ師の体制が強化できるという、イランの国内事情があった。

 イラン国内の支配を完成させたホメイニ師らイスラム聖職者たちは、アラブ諸国の民族主義運動を、イスラム革命運動に塗りかえようと、親米的なアラブ諸国の反体制派への支援を強めた。このため、開戦当初は中立だったアメリカは反イラン政策に変わり、1982年からイラクを支持するようになった。

(この時アメリカからイラクに渡された武器が、その後イラクがクウェートを侵略した湾岸戦争で使われることになった)

 こうしてできあがったのが、現在まで続く、イランの「イスラム共和国」体制である。「共和国」と称しているが実際はイスラム聖職者による独裁だ、とテヘランの知識人たちは言うのだった。

「イスラム共和国の表と裏(2)ひそやかな自由化」へ続く



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