敵と味方が逆転しはじめた中東情勢

田中 宇  97年12月18日


 来年のワールドカップサッカー大会に出場できることになり、国を挙げて大喜びしているのは、日本ばかりではない。

 日本と対決して敗れたものの、フランス行きを勝ち取ったイランでも12月上旬、代表チームの凱旋を祝って、何百万人という人々が、首都のテヘランやその他の都市の街頭に繰り出し、歌ったり踊ったりした。カーステレオをがんがん鳴らして走る車や、若い男女が一緒に大騒ぎする姿もみられた。

 「日本でも大騒ぎだったんだから、当然だろ。最近、サッカーの話が多くて飽きるなあ」と、ここまで読んで思った方、ちょっと待っていただきたい。

 「イスラム共和国」であるイランでは、公共の場で男女が仲良くするのは厳禁だ。歌ったり、踊ったりという歌舞音曲のたぐいも「欧米の堕落した文化の一部」だとして禁止されている。

 1979年のイスラム革命以来、イランには宗教警察があって町内をパトロールしており、家族や親戚ではない男女が一緒にいたり、小規模でもコンサートのようなことが行われていると、その場に踏み込んで中止させ、場合によっては関係者を逮捕してしまう。

 それなのに、サッカー騒ぎの現場にいた警察官は、人々の行動を止めなかった。イランの常識では今回の騒ぎはそれこそ、イスラム最高指導者のハメネイ師が「踊った者は全員投獄じゃ!」などと怒鳴っても不思議はないできごとなのに、である。

●イラン政府内で激しい路線対立

 この騒ぎの裏には、イランの政治上層部の激しい路線対立がある。イランでは今年5月、史上初の自由投票による大統領選挙が実施され、イスラム穏健派のハタミ師が、本命といわれていたハメネイ師直系の候補を破って当選した。ハタミ師は言論の自由や人権擁護を掲げたため、人々の支持を得たのだった。

 そして今年8月にハタミ師が大統領に就任して以来、人々の生活に対する取り締まりの緩和や、言論の自由を求める動きを容認するハタミ師と、厳しいイスラム統治を続けようとするハメネイ師ら宗教界トップとの間で、矛盾が増している。こうなった背景を説明するには、イランの近代史をひも解かねばならない。

 イランでは1978年まで、アメリカの支援を受けたパーレビ国王と軍部による統治が続いていた。イランはソ連のすぐ南にあり、ソ連はペルシャ湾とインド洋への出口を求めて、イランで社会主義革命を起こそうとしていた。

 これに対してアメリカは、親米政権であったパーレビ体制を支援し、CIAなどを通して、国王が社会主義者たちを弾圧するのを助けた。アメリカの言いなりであったパーレビ政権は、かつての南ベトナム政府と同じく腐敗し、弾圧と汚職によって、人々はパーレビ政権を嫌っていた。

 そんな中、イスラム教による新政権樹立を掲げ、1978年に立ち上がったのが、宗教指導者のホメイニ師であった。イスラム教が掲げる禁欲的な姿勢は、パーレビ政権の汚れた政府を嫌悪する人々によって強く支持され、1979年にはパーレビ国王が亡命してイスラム革命が成功し、テヘランのアメリカ大使館占拠事件が起きる。

 イランから撤退したアメリカは、クウェートなどを通じて隣国イラクのサダムフセイン大統領に資金や武器を流し、イランと戦わせた。1980年から8年間続いたイラン・イラク戦争である。アメリカは「イスラム革命を中東全域に輸出する」と言うホメイニ師の動きを封じる必要があった。

 だが8年たっても決着はつかず、逆にアメリカから武器と資金をたっぷり受け取ったイラクのフセイン大統領はイランと停戦後、それを使ってクウェートを脅し、1990年には侵略してしまう。

 飼い犬と思っていたフセインに手を噛まれたアメリカは激怒し、湾岸戦争を引き起こす。だがイランとアメリカの敵対は続いていたため、アメリカはフセイン大統領を殺してイラクに権力の真空地帯を作るわけにはいかず、今日まで続く対立のモザイク模様が生み出されることになった。

●増殖する「ハタミの子供たち」

 この間、イランの人々は、イスラム原理主義による厳格な統治と、イラクとの8年間の戦争による経済の疲弊に苦しんでいた。欧米の文化や事情を紹介する本や新聞は、清らかなイスラム社会を汚染するものとして禁止され、いくつかの出版社や新聞社がつぶされた。

 一方イランでは、アメリカやイラクに対抗するための戦略として毛沢東方式の「人海戦術」を取り、国民に多産を奨励した。このためイランは世界で最も人口の増加か激しい国の一つとなり、子沢山で人々の生活は良くならなかった。

 イラクとの戦争中に生まれた子供たちは今や働き始められる10代後半となり、労働人口は毎年4-5%ずつ増えている。だがイランは欧米と対立しているため外資系企業も来ないので仕事は増えず、実質的な失業率は30%に達しているといわれる。

 イランでは今、人口の60%が30歳未満である。若い世代はパーレビ時代の腐敗と人々の苦しみを知らないので、ホメイニ師やその後継者であるハメネイ師の厳しいイスラム政策を喜んで受け入れることができない。今年5月の大統領選挙では、こうした若者たち、そして生活様式を厳しく制限されている女性たちが、自由を求め、本命ではなかったハタミ師を当選させてしまった。

 そして同じ人々が、サッカーチームを応援するためと称して、町に繰り出して踊ったのである。彼らはテヘランでは「ハタミの子供たち」と呼ばれている。そして、1979年の「イスラム革命」をもじって、最近起きている現象を「サッカー革命」と呼んでいる人もいるという。

●ハタミ師当選を利用したアメリカ

 こうしたイラン国内の変化をアメリカが利用しないはずはない。アメリカはハタミ師の前任者、ラフサンジャニ大統領の時代から、イランとの接触を少しずつ増やそうとしていたが、ハタミ師の大統領就任により、関係改善に向けて一気に動き出した。

 イランが穏健な国になり、イスラム革命を中東に広げるという目標を掲げなくなれば、イランはサウジアラビアやクウェートの敵ではなくなる。(サウジやクウェートでは、イランからの支援を受けているとみられるイスラム原理主義者による反政府活動が続いている)

 ハタミ師にとっては、アメリカやサウジとの和解を成立させれば、イラン経済は復興のための投資や技術を得ることができる。人々の生活は向上し、ハタミ師の権力基盤が広がって、イスラム原理主義を掲げるハメネイ師らの勢力を弱めることもできる。今は、イランの最高権力者はハメネイ師であり、ハタミ師はナンバー3でしかない。

●イランの再デビューとなったテヘラン会議

 こうした各国の思惑、そしてアメリカとイランの秘密接触が実を結んだのが、12月8-11日にテヘランで開かれた「イスラム諸国会議」であった。

 この会議は、世界中のイスラム教国の代表者が集まるもので、約50年の歴史を持ち、今回が8回目の開催である。だが、これまでの7回は、イスラム教の中心であるメッカを擁するサウジアラビアが中心となり、各国首脳の顔合わせと一般的な社交の場という以上の重要性はあまりなかった。

 だが、今回のテヘラン会議は違っていた。イランの宿敵だったイラクからは、ラマダン副大統領が出席、サウジやクウェートの王族や高官もそろい、イランのイスラム革命以来、中東のイスラム諸国間で続いた一連の戦争や敵対関係のすべてに関する「手打ち式」としての役割を果たしたのである。

 会議で大きな対立点となったのは、アメリカとの関係についてであった。イラク、シリア、リビア、スーダンといったアメリカと敵対関係にある国々は、アメリカがイスラエルを支援していることを批判し、イスラエルがパレスチナを占領し続けているのはアメリカの責任だ、と主張した。

 これに対してサウジ、クウェート、ヨルダンといったアメリカの友好国は、イスラエルだけを非難すべきで、アメリカは敵ではない、と主張した。

 主催国のイランからは、ハメネイ師とハタミ師がスピーチしたが、原理主義のハメネイ師が、欧米の腐敗ぶりとイスラムへの敵視を攻撃したのに対し、ハタミ師は欧米との対話と相互理解の必要性を説き、政府内の意見の食い違いを浮き彫りにした。

 とはいえ、会議の最後に出された宣言には、アメリカを攻撃する言葉はなく、イスラエルに対する非難だけが残された。この会議は奇しくも、中東のイスラム世界が、分裂するイランの2大勢力のうち、ハタミ師ら穏健派を支援していると受け取れる印象を残すことになった。

 国連のアナン事務総長も出席していたが、彼がハタミ師を絶賛したことにも、それが表れている。いったい誰が、こんなシナリオを考えたのであろうか。

●結局はアメリカの一人勝ち?

 この会議によって、イスラム諸国からの敵視を弱めることに成功したのは誰か・・・アメリカである。

 ハタミ大統領は会議終了後間もない12月14日、久方ぶりに記者会見を行い、アメリカとの和解を進めたい、と表明した。ハタミ師は「アメリカの偉大な人々を尊敬している」とまで言った。イラン国家元首による、こうした意思表示はもちろん、1979年のイスラム革命以来初めてのもので、アメリカに対する敵視が突然崩れたことは、世界を驚かせた。

 だが、当のアメリカ政府は、全く驚いていないのではないか。ホワイトハウスの人々むしろ、シナリオ通りだ、とほくそえんでいるかも知れない。今年5月にハタミ師が当選して以来、何回もイラン政府関係者と接触してきたはずだし、サウジやヨルダンに働きかけて、テヘランでのイスラム諸国会議を裏で演出したのもアメリカではないかと思われるからだ。

 アメリカがイランとの国交正常化を目指すのは、中央アジアの地下に眠る石油、天然ガスなどの資源が関係している。ソ連崩壊以来、アメリカはカザフスタンやトルクメニスタンなど中央アジアの未開発の地下資源に注目するようになった。

 だがこの地域では、石油を掘っても運び出すのが大変だ。中央アジアから黒海の北側を通ってヨーロッパまでパイプラインをつなぐのは非常に遠い。最も近いのはイランを通ってペルシャ湾まで、もしくはアフガニスタンを通ってパキスタンへとパイプラインを通し、港からタンカーで運び出すことである。そこで、イランとの和解が必要になってくる。

 アフガニスタンでは内戦が続いているが、内戦に勝ちそうな武装組織「タリバン」に敵対する主要な勢力は、イランが支援しているといわれている。つまり、イランをなだめれば、アフガン内戦を終結させることもできるかもしれない。

 もともと、イランとアメリカの対立は、東西冷戦がきっかけだったわけで、冷戦が終わった今、アメリカがイランと敵対し続ける根本的な理由はない。イランと敵対している限り、イランが支援しているとされるイスラム原理主義勢力が、中東各地や欧米でアメリカ人を標的にしたテロ活動を続ける危険も残る。

●イスラエルは仲間はずれ

 とはいえ、イランとアメリカが接近することにより、一人だけ仲間はずれにされてしまう国がある。イスラエルである。

 イスラエルは1948年の建国以来、アメリカから大きな支援をずっと受けてきた。イスラエルは、欧米人からみれば1000年以上の敵である中東のイスラム教徒の勢力を弱体化させておくために、欧米が中東に打ち込んだクサビのようなものである。

 そのため、イスラエルを支援し、アラブ諸国にイスラエルの存在を認めさせるのが、アメリカの中東外交の主軸であった。

 しかし、イスラエルに対するイスラム教徒の敵視は、その後50年たっても変わらなかった。イラン・イラク戦争から湾岸戦争へと、アメリカは中東諸国どうしを敵対させることで、イスラムの結束を阻止してきたが、人々のイスラエルへの憎悪は弱まらず、原理主義者のテロ攻撃という形で、アメリカ人を直接脅かすようになった。

 筆者は、こうした状況に危機感を覚えたアメリカ政府が、イスラム諸国との敵対を弱める方向に軸足を移しつつあるのではないか、とみている。

●不祥事を暴露されるモサドはスケープゴート?

 アメリカは、イスラエルの秘密警察「モサド」がイスラム勢力を倒そうと画策してきた「汚い戦術」の一端を、世界にバラすようになっている。以前書いた記事「イスラエル首相も支持? モサドの暗殺計画」の事件が、その例だ。

 最近では、モサドがイスラエル政府に提出したシリアに関する報告書が、数年間にわたり、シリアがイスラエルを攻撃しそうだという方向にねつ造され続けていた、という話が暴露されている。そして、テヘランのイスラム諸国会議では、「イスラエルこそテロリスト国家だ」とする主張がなされたのである。

 イスラエル支援がアメリカの国是であり続けているのなら、モサドの不祥事をアメリカ政府関係者がワシントンポストにリークすることは、ありえないはずだ。(モサドの暗殺計画の詳細は、ワシントンポストに掲載された) こうした一連の動きは、アメリカが「イスラエルは用済みだ」と思い始めていることの表れではないか、と筆者は推測している。

 これに呼応するかのように、イスラエルでは今、占領地をパレスチナ人に返還し、アラブと和解しようとする穏健派と、占領地はすべてイスラエルの国土だ、と主張する強硬派との間の激論が続いている。

 強硬派の一人であるネタニヤフ首相は最近、アメリカを訪問した際、各地でパレスチナ占領政策を批判され、「アメリカ人は皆、私をサダムフセインと同じぐらい嫌っている。イスラエルはアメリカの同盟国ではなかったのか」という趣旨の、怒りの発言をしている。

●危険さが増すイスラム原理主義組織

 一方、イスラム側ではしごを外されつつあるのは、これまでイランに支援されてきたとされる、各地のイスラム原理主義組織である。彼らは従来、イランやシリアの影響力の下、ある程度統率された存在だった。だが最近では、小さなゲリラ組織がどこからも統制されないまま、テロ行為に走ることが増えている。

 たとえば、11月にエジプトのルクソールで日本人ら外国人観光客が殺害されたテロ事件では、犯人は当初、原理主義組織「イスラム団」のメンバーとされたものの、その後、組織としての犯行ではなく、分派活動だとの声明が出されている。

 アメリカとイスラム諸国が接近すればするほど、外されたイスラエルとイスラム原理主義組織は、アメリカやイスラム諸国が予知できない過激な行為に走る可能性が強くなる。中東情勢の不透明さは、今後も続きそうである。

 
田中 宇

 


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