イスラエル首相も支持? モサドの暗殺計画97年10月11日 田中 宇 | |
インターネットユーザーの中には「陰謀」好きが多いようで、当サイトの記事で好まれるテーマは「セックス」「インターネット・ハイテク」と並んで、北朝鮮やCIAなど「陰謀もの」が上位にくる。 そんな陰謀好きの読者の目を引く事件を、イスラエルの情報機関「モサド」が引き起こした。9月末、イスラエルの隣国、ヨルダンの首都アンマンで、モサドのエージェント2人が、パレスチナ人のイスラム原理主義組織「ハマス(イスラム抵抗運動)」の幹部の首に、毒性の化学物質を注射して殺そうとしたのである。 ●出勤時に襲われたハマス指導者 殺されかかったのは、ハマスの政治指導者でナンバー2の地位にあるといわれるカレド・メシャール氏(41歳)。 ハマスはガザや西岸地区のほか、ヨルダンやシリア、レバノンなどを拠点としながら、反イスラエルの武装闘争を続けている。同組織に属するパレスチナ人青年が爆弾を体に巻き付けて、エルサレムなどで自爆テロを起こすなど、イスラエル政府からは目の敵にされている団体である。 9月25日の朝、アンマン市内の事務所にメシャール氏が車で出勤してきたところ、事務所の前に2人の男がいた。メシャール氏が警戒しながらも車から降りたところ、そのうちの一人が近づいてきて、右手をメシャール氏の首筋近くまで持っていき、破裂音とともにメシャール氏の全身に衝撃を与えた。男は化学物質を入れた容器とみられる物体を右腕に巻きつけていた。 騒ぎを聞きつけたメシャール氏のボディーガードらが犯人を追いかけ、捕獲して公安警察に連行した。メシャール氏はその直後から嘔吐と呼吸困難に陥り、病院に収容されたが、翌26日には意識不明の重体となった。 犯人は、カナダのパスポートを持っていたが、カナダ大使館とヨルダン公安警察の尋問の結果、イスラエルのモサド要員と判明した。 ●アンマンまでお詫びに行ったネタニヤフ首相 自国内でのテロ行為に怒ったヨルダンのフセイン国王は26日、イスラエルのネタニヤフ首相に電話をかけ、もしメシャール氏が死ぬようなことになれば、両国間の関係が非常にまずくなると抗議した。 ヨルダンは、中東諸国の中で、例外的にイスラエルと比較的良好な関係を保っている国である。ネタニヤフ首相は、化学物質に対する解毒剤を出すことに応じ、メシャール氏は一命をとりとめた。 その後、ヨルダンからの報告を受けたアメリカ政府からネタニヤフ首相への苦情の電話もあり、ネタニヤフ首相を含むイスラエル政府の代表団が、ヨルダンとの関係悪化を防ごうと、アンマンを極秘に訪問した。 フセイン国王本人はネタニヤフ首相と会うことを拒否したものの、両国間の話し合いの結果、事態を沈静化させ、犯行に及んだモサド要員をイスラエル側に返す代わりに、ハマスの最高指導者で、イスラエルの刑務所で8年前から終身刑を受けているシャイフ・ヤシン氏ら20数人のパレスチナ人政治犯を釈放する約束が取り交わされた。 ヤシン氏らの釈放というヨルダン側の条件をネタニヤフ首相が呑まない場合、事件を知って反イスラエルの怒りを強めたパレスチナ人青年たちが、エルサレムで再び自爆テロを頻発させる可能性があった。 また、事件に対してイスラエル政府の閣僚の中からもネタニヤフ首相を非難する声が上がり、ネタニヤフ首相としては、ヨルダン側の要求を呑まないわけにはいかなかった。 ●穏健派のメシャール氏を襲った理由の謎 事件に対するイスラエル政府の関与について、政府のスポークスマンは、殺されかけたメシャール氏を、自爆テロの首謀者として非難しつつ、殺害未遂事件については「マスコミの悪意ある報道に火を注ぐだけなので、政府としてはコメントしない」などとしている。 だが、ネタニヤフ首相と面談した野党政治家によると、ネタニヤフ首相は事件を未然に知っており、その遂行を支持していたことを認めたという。 イスラエル国内では、ネタニヤフ首相に対する非難が高まっており、退陣を求める声も強い。また、犯行に使ったカナダのパスポートは偽造であることが分かり、カナダ政府はこれに抗議して、イスラエル大使を召還した。 なぜネタニヤフ首相は、モサドのテロ計画を支持したのだろうか。イスラエルのテレビによると、7月にエルサレムで起きた自爆テロ事件の直後、ネタニヤフ政権は、自爆テロの再発を防ぐため、ハマス幹部の暗殺計画を閣議で了承しており、今回の犯行もその線に沿ったものだとしている。 しかし、イスラエルの治安関係専門家によると、メシャール氏はハマスの中では比較的穏健な立場をとっている。ハマスには、イスラエルとの和平に賛同する穏健派と、武装闘争を推進する過激派がある。 イスラエル政府も以前は、自爆テロの首謀者はシリアのダマスカスにいるハマス過激派であるとしており、メシャール氏の名前は挙がっていなかった。そのため専門家たちは、ネタニヤフ首相の意図をはかりかねている。 ●殺害計画の背後に宗教的な問題? あえて理由を推察するならば、イスラエルで進められている改宗法の改訂との関係が考えられる。改宗法の改訂とは、これまでは海外でユダヤ教徒になった人も、イスラエルでユダヤ教徒として認められていたが、これを、ユダヤ教徒になることを認める権限は、イスラエルの宗教当局のみが持つという仕組みに変えようというものだ。 改訂の効力は50年前までさかのぼる。このため、アメリカにいるユダヤ人の多くは、改訂によってユダヤ教徒ではないことになってしまう。イスラエル国籍を持っている人は、それも剥奪される。しかも、イスラエル宗教当局による改宗手続きは、毎年500人程度しか改宗させていない。 すでに当局には、改訂を見越してイスラエル内外から2万人以上の改宗申請が出されており、それらすべて処理するには、何十年もかかることになる。 ユダヤ教には、保守的なオーソドックスと、革新的なリフォームとコンサーバティブの2種類の陣営がある。イスラエル宗教当局はオーソドックス中心であり、アメリカのユダヤ人はリフォームとコンサーバティブが多い。 ネタニヤフ氏率いる政党であるリクードが、昨年5月の選挙で勝った際、ほぼ互角だった労働党との選挙戦を勝利に導いたのは、ユダヤ教オーソドックスの勢力が、ネタニヤフ氏に投票することを決めたからであった。この時以来、ネタニヤフ首相は、オーソドックスの主張を聞かざるを得なくなり、改宗法の改訂などの政策を進めている。 ●外の危機を国内危機回避に使った可能性 だが、アメリカのユダヤ人はおおむね、この改訂に反対している。今日のイスラエルの軍事的、経済的な発展があるのは、アメリカのユダヤ人がイスラエル支援をアメリカ政府に働きかけるなど、政治的、経済的な援助を惜しまなかったからだ。そのため、改訂実施はイスラエルにとって自殺行為にもなりかねない。ネタニヤフ首相は、賛成・反対どちらの意見を聞き入れても失脚してしまうという、窮地に立たされている。 こうした中、ネタニヤフ首相がとりうる策の一つが、外交の危機を内政の危機回避のために使うということだったと考えられる。 イスラエルに対するパレスチナ人の憎しみをかきたて、再び自爆テロを頻発させることによって、ユダヤ人内部の結束を固めさせ、国内の宗教対立を乗り切ろうとする可能性である。ネタニヤフ氏は、首相になる前、危機管理の専門家であったから、こうした策略には長けている。 実際、ネタニヤフ首相が昨年の選挙で勝ったのは、オーソドックスの支持を取り付けたこと以外に、選挙前に爆弾テロが続発し、パレスチナ人に対する強硬策を主張するネタニヤフ氏の人気が上がり、宥和策をとる労働党が敬遠されたということがあった。 ●事件への論調から分かるアメリカ報道各社の違い これに関連して、アメリカの報道機関は今回の事件をどう報じているか、ということが興味を引く。というのは、中東の知識人らによると、アメリカの報道機関の多くは、ユダヤ系の資本であり、従来はイスラエル=善、アラブ=悪、という視点でニュースが描かれることが多かったが、オーソドックス寄りであるネタニヤフ首相に対しては攻撃調の記事も多く、各社の違いが浮き彫りになっているからだ。 特に目を引くのが、ウォールストリート・ジャーナル(有料サイト) 10月10日付けの社説"Kicking Bibi Again"だ。ここでは、ネタニヤフ首相を攻撃しているワシントンポストの社説を「十分な理由説明もせずに、(イスラエルの行為を)テロリズムだと非難している」と批判。その一方で、ニューヨークタイムスの社説を、ワシントンポストよりは控えめだが、それでも「罪もない市民が次の自爆テロの犠牲になるまで、イスラエルは何もするなと主張している」とこき下ろしている。その上で、イスラエル政府の行為を正当化する論調を展開している。 これを読むと、ウォールストリート・ジャーナルはオーソドックス、ニューヨークタイムスはコンサーバティブ、ワシントンポストはリフォームの力が強いのか、と勘ぐることもできる。 いずれにしても、パレスチナ問題では、イスラエル側を中心に、メディアも紛争の道具として使われていることは確かだ。パレスチナ問題については、毎日大量のニュースが流されているが、どのようなスタンスで書かれているものかを判断しながら読むという、難しい作業が必要になっている。日本のマスコミ報道も、欧米やアラブのメディアの転電が多いため、こうした構造の中に巻き込まれているといえる。
関連サイト
●「ハマス」の概要
●イスラエル国会が反宣教法制定へ
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