他の記事を読む

難民都市ペシャワール(2)

2001年5月28日   田中 宇

 記事の無料メール配信

この記事は「難民都市ペシャワール(1)」の続きです。

 ペシャワールの周辺に点在する難民キャンプの一つ、ジハッドケリーとケワという、双子のキャンプを訪れる機会があった。ジハッドケリーでは日本の医療NGOであるAMDAがクリニックを運営しており、そこを訪問したついでに、キャンプの中を案内してもらった。

 二つのキャンプは人口がそれぞれ5000人ほどで、キャンプの規模としては中の下といったところだ。未舗装の道の両側に土壁の家々が並んでいる。

 二つのキャンプは隣接しているものの、政治的な系統がかなり違っていた。ケワキャンプの住民の多くは、ジャララバード近郊のケワ村から逃げてきた人々で、ソ連寄りの政党が政権を取る前に権力を持っていたアフガニスタン国王を支持し、王政の復権を狙う「王党派」(Harakat Inqlave)が多い。(元国王自身はイタリアに亡命している)

 彼らは国王が進めていた西欧化政策を積極的に受け入れ、道行く女性も顔の前面まで隠すブルカではなく、後頭部だけを覆うスカーフをしているだけだった。キャンプ内には私設の診療所があり、見学させてもらったが、そこでは男女の職員が一緒に働き、女性はスカーフもしておらず、私と挨拶するときは握手を求めてきた。現在のアフガニスタン国内では、男女が挨拶のときに握手をするということは、ほとんどあり得ないことだ。

 一方、ジハッドケリーの方は、アフガニスタン東部のロガール県の山村から逃げてきた人々のキャンプで、厳格な信仰をする保守的なイスラム教徒が多い。ロガール県はロシアの戦車部隊に攻められにくい山岳地帯で、ムジャヘディンの一大拠点があった地域である。

 私がロガール県へ行ったときは、同行した国連のアフガン人職員も途中で車を止めてわざわざターバンを巻いていたし、私は村人に呼び止められ、ひげを生やすよう注意されたりした。そんな保守的な地域の人々なので、キャンプに住む人々も女性はブルカ姿だった。

▼双子の難民キャンプはライバルどうし

 二つのキャンプでは、人々はあまり仲が良くないらしく、何年か前には、両者の間で銃撃戦も起きたという。今はどちらも「タリバン支持」だというが、タリバンの力が衰えてくれば、再び別の本音が出てくるように思えた。

 両者の緊張関係は今も続いているようで、ジハッドケリーからケワに車で入ろうとしたところ、ケワの入り口にいた数人の男たちに止められて、どこに行くのか聞かれ、その中の男が一人、監視兼案内役として私たちの車に同乗してきた。

 ケワキャンプでは、村の幹部たちの話を聞くことができた。タリバンとの関係を恐れてか、幹部たちは自分たちの名前を聞かれるのを嫌がり、写真撮影も断られた。

 故郷のケワ村への帰還について尋ねると「これまでに何10人かが帰ったが、みな貧しい人々で、ここでは生計を立てにくいため、故郷で農業をやってみようと思った人ばかりだ。村に戻った人々はタリバンから敵視され、武装蜂起しに戻ってきたのだろう、などと言いがかりをつけられている。向こうには水も電気もなく、国際機関が支援してくれても、ほとんどの人は故郷に戻る気にはならないだろう。アフガン難民全体のうち、今後2割ぐらい帰還したら、もう残りの人々は帰らないのではないか」と、悲観的な答えが返ってきた。

 とはいえ、一方通行の帰還ではなく、春になったら故郷の村に行き、秋になったらキャンプに戻ってくるという人は多いという。なぜそんなことをするのか尋ねたら「夏はここにいると暑いから」という返事だった。

 パキスタンからアフガニスタンまで避暑に行くとは、ずいぶんとリッチな話であり、話を聞いて違和感があった。アフガンのケワ村の周辺は麻薬原料のケシの畑が多い地域なので、避暑に名を借りたケシ栽培に行くのではないかと勘ぐり、そう尋ねたところ、確かにケシ栽培に行く人々もいるとのことだった。

 だが、そもそもこの地域の人々には祖先が遊牧民だった人が多く、季節による引っ越しは必ずしも贅沢な行動ではないとも考えられる。歴史をひも解くと、今から1700年前、このあたりにクシャナ王朝を築いたカニシカ王は、ペシャワール近郊に冬の都、カブール近郊に夏の都を置いており、古代から人々が季節移動していたことがうかがえる。

▼居心地の良い長老宅

 もう一方の村ジハッドケリーでは、86歳のナスル・ラーハンという長老に話を聞いた。彼はパシュトン語しか話せないので、私の通訳(ウルドゥ語から英語)をしてくれたAMDAのバンダリ医師のほかに、車の運転手を呼んできて、パシュトン語からウルドゥ語への通訳をしてもらった。

 ラーハン翁は若いころ、故郷の村で大工をしていたが、ソ連の侵攻後に空爆が始まり、このキャンプに移ってきた。その後2人の息子がゲリラ戦で殉死したが、今では3人の息子と6人の娘、そして66人の孫がいる。孫のことは全員、顔を見たら名前を言えると自慢していたが、9人の子供のうち故郷に戻ったのは1人の息子だけだという。

 この村の人々は熱心な保守的イスラム教徒が多いと聞いたので、タリバンを支持して帰郷する人が多いと想像したが、そうではないらしい。なぜ帰郷しないのか、ラーハン翁に尋ねたところ「戦争がまだ続いているから」との返事。「いや、ロガール県では戦闘はもう終わっていますよ」と言ったところ「それは知っているが、平和は長続きしないだろう。いろいろな抑圧もある」と答えた。

 「抑圧」とは、タリバンによる宗教の名を借りた抑圧のことに違いない。「タリバン支持の村」の人にしては意外な答えだったので、「抑圧があるんですか」と尋ねたところ「ラジオでBBCやVOA(アメリカ)、イランや中国の放送局のニュースを聞いている。アフガンの実情はここにいても大体分かる」とのことだった。

 タリバンをどう思っているか、思い切ってぶしつけに尋ねてみた。すると「コーランとイスラム教にのっとって統治するのが正しい政治で、逆にそれをやらないのであれば、たとえ為政者が自分の父親であったとしても、許すことはできない。彼らが正しいかどうか、それはアラーだけが知っていることだ」と、直答を慎重に避けつつも含蓄のある言葉を返した後、微笑んだ。

 翁の一家の主な収入は、ペシャワールに残った2人の息子が稼いでおり、それぞれ繁華街にカーペットと靴の店を出し、成功しているという。私が通された自宅の客間には、テレビと冷蔵庫、扇風機のほかにエアコンまで備えてあった。家の中庭も見ることができたが、つたに似た樹木が生い茂って藤棚のような状態になっており、その下は涼しい木陰となっていた。多くの日本人が「難民キャンプ」という言葉から想像する居住環境とは、かなり違っている。

 キャンプの快適な居住空間に比べ、故郷の村には電気も水道もなく、しかも地雷だらけである。なぜ故郷に帰らないのか直答を求めなくても、ラーハン翁の自宅の快適さが、その理由を雄弁に語っているように思えた。



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ