他の記事を読む

難民都市ペシャワール(1)

2001年5月21日   田中 宇

 記事の無料メール配信

 パキスタンやインドの大きな町は、中心街が2つあることが多い。一つは「オールドタウン」といい、18−19世紀にイギリスがこの地域に支配を広げる前からあった古い町である。もう一つは「カントンメント」といい、イギリスがインドを支配するにあたって作った町だ。「カントンメント」とは「兵営」という意味で、イギリスの軍駐屯地や役所など、支配のための拠点を中心に町が作られた。

 イギリス人が自分たちのために新しい町を作った理由は、支配される側の人々と分かれて住むことで攻撃されることを防ぐという意図があった。異なる階級や人種は、別々に住んだ方が摩擦が少なくてよいという、南アフリカのアパルトヘイトにつながる思想であった。

 アフガン国境に近いパキスタンの町ペシャワールにも、オールドタウンとカントンメントがある。だがこの町の場合、それだけではない。もう一つ「ユニバーシティタウン」(大学町)という3つめの市街地があり、3つの町の中では最も立派な家が並んでいる地域がここである。ここにはペシャワール大学があり、そのため「大学町」と呼ばれているのだが、この町を発達させてきたのは大学ではなく、「アフガン難民」であった。

 ソ連軍がアフガニスタンに駐留していた1980年代、パキスタンはアメリカの後ろ盾を得て、ソ連と戦うアフガン人を支援したが、その最前線地域の中心がペシャワールであった。

 ユニバーシティタウンは、他の市街地よりカイバル峠に近い西側にある。カイバル峠を越えてアフガニスタンに向かう国道が市街地の中心を貫き、その両側に繁華街が発達し、後背地は高級住宅街になっている。そこにはアフガン難民を支援する国連や国際NGOの事務所が点在しており、住宅街にはその関係者が住んでいる。そして市街地を囲むように、いくつも難民キャンプが点在している。市街地もキャンプも、住民のほとんどはアフガン人である。

 79年のソ連侵攻後、毎日何千人という難民がペシャワールとその周辺地域に到着するようになった。その混乱の中で、アメリカなど西側諸国や国連はアフガン人への支援を始めたのだが、アフガンゲリラの方も一つの組織として結束していたわけではなかったので、誰にどう支援したらいいか、判断が難しかった。

 その一方で、当時は冷戦の真っ最中であったので、アフガン人ゲリラと難民の存在は「ソ連と戦う人々」として欧米では喧伝され、多額の援助が集まってきており、その配分先を急いで決める必要があった。

 それを聞きつけて、アフガニスタンから亡命してきた前政権の有力者や王族、イスラム組織のリーダーなどが、国連など国際機関の事務所を訪れるようになった。彼らの多くは「難民を助ける組織を作る」などと称して上手に計画を説明し、国際機関から数万ドルの資金をもらい、そのほとんどを自分の懐に入れてしまうような人々であった。ユニバーシティタウンの高級住宅街に住む人々には、そんな人種が含まれている。

 最近では、ユニバーシティタウンよりさらに西に「ハヤタバード」という新興の高級住宅街が作られている。これらの地域にすむ人々は、ビジネスの表裏はあれど、難民の中で成功した人々である。

 ペシャワールでは、ミニバスやトラックなどの交通部門、ドルとルピーとの両替商、家具製造などの業界は、ほとんどアフガン人で独占されている。難民キャンプに住んでいても、人々は行動や就職の自由は与えられていたから、難民になって20年以上が過ぎた今、貧富の格差が目立つようになっても不思議はない。

▼難民で儲けたパキスタン政府

 とはいえ、アフガン難民の出現によって最も儲けたのはアフガン人ではない。パキスタン人の政治家である。パキスタン政府の強い要望により、国連がアフガン難民に食糧を支援する際は、必ずパキスタン政府の「アフガン難民管理事務所」(CAR、Commissioner for Afghan Refgee)という部署を通さねばならなかった。

 この事務所の長官になった政治家は大金持ちになれるので、重要なポストであった。80年代を通じて、国連は食用油と小麦粉をCAR経由で難民に配給していたが、その一部はCAR長官の懐に入っていたのである。

 1992年にソ連の傀儡だったナジブラ政権が崩壊し、ラバニ派の新政府が作られて戦闘がとりあえず終わったため、難民たちが帰還し始めた。明らかにペシャワール周辺の難民数も減ったのだが、CARが発表する難民数は変化しなかった。国連は、CARに難民の人口調査を共同で行うことを提案したが、必要ないと断られてしまった。

 国連は独自に調査を始めることにして、93年のある日、キャンプの一つに調査官を派遣したところ、キャンプの入り口に男たちが機関銃を持って並んでおり、調査官を中に入れなかった。難民数が減ったことが明らかになると、国連からCARに渡される援助食糧の量が減り、途中でピンハネできる量が減ってしまう。それを防ぐため、CARからキャンプの有力者に「国連が配給量を減らす調査に来る」と事前に連絡が行ったのだった。こんなことが繰り返された結果、今に至るまで、国連は難民の詳細な数を把握できないままである。

 その後、冷戦の終結と同時にアフガニスタンに対する欧米の関心はうすれ、食糧の配給制度は廃止され、今ではCARは利権ポストではなくなっている。

▼銃の街、密輸倉庫街、麻薬の街・・・

 ユニバーシティタウンからハヤタバードの横を通り抜け、カイバル峠に向かうシルクロードの国道をさらに西に行くと「バラマーケット」がある。ここもまた、ペシャワールらしい一面を象徴する「名所」である。

 ここは、家電やオーディオ製品から食器、家具、衣料品、化粧品などに至るまで、あらゆる製品を売っている総合市場である。国道沿いの長さ1キロ以上、奥行き200メートルほどの敷地に、2階建の建物が延々と続き、その内部に無数の店が入居している。店主の多くは難民としてやってきたアフガン人である。

(バラマーケットについては「自由経済の最先端を行く無法諸国」に書いた)

 バラマーケットの周辺には「専門店街」もある。たとえば「材木屋」だ。国道沿いに材木が立てかけてある店が何軒か並んでいた。アフガン人は家を建てる際、梁や窓枠に木材を使う。この木々は、アフガニスタン東部の山岳地帯で乱伐したもので、山越えの裏道で国境を越えてきた密輸品である。この材木を使って家具を作る商売もまた、アフガン難民が得意とする部門である。

 バラマーケットからさらに西へ進み、ペシャワール市から出て部族地域に入ると、道の両側に展開するのは「銃のマーケット」である。降りない方が良いと言われ、車窓から見ただけだったが、店内に機関銃がずらりと立てかけてあるのが見えた。

 国道をさらに行くと「倉庫街」があった。外から見ても、土壁の屋敷が続いているだけなのだが、内部には免税協定を使ってパキスタン側から運ばれてきた家電製品や衣料品などが山積みされている。バラマーケットに逆流するもののほか、アフガン北部の戦闘地帯を抜けて中央アジアへ運ばれるものもあるという。

 さらに進んでカイバル峠の登りに差し掛かり、国道が山肌を登っていくようになると、眼下に「麻薬の街」が見えてきた。ヘロインなどの麻薬を売る店が集まっているそうで、コンテナをいくつも置いて店舗にしているのが見下ろせた。アフガニスタン東部のケシ畑からから買い集められたものが、ここで売買されているという。近くには、麻薬売買によってパキスタンで2番目の金持ちになったといわれる人物の広大な屋敷もあった。

 このほか、車窓からは見えなかったが、ドバイからイラン経由で陸送されてきた日本車を売る中古車マーケットなどもあるらしい。「あの地域には女性を売買している場所もある」と言うアフガン人もいたが、真相は分からない。

 ペシャワールの西からカイバル峠を越えてアフガン国境までの区間は「カイバル・エージェンシー」と呼ばれ、「部族地域」の7つの自治区の一つで、パキスタン政府の行政権や司法権が及ぶのは国道とその両側数メートルだけだ。 その外側には警察も入れないから、何がどう売られていても取り締まることはできない。

 パキスタン政府がエージェンシー内部の出来事に介入する際は、重装備した軍隊を差し向けるしかない。用心のため、外国人がこの地域を通行する際は、自治区が雇っている武装兵士を同乗させることが義務づけられている。まさに「無法地帯」の中に、密輸のプロ向けの専門店街が点在しているのである。

 部族地域の無法性は、パキスタンにとって国家の秩序を混乱させる要因となっている。犯罪者もこの地域に逃げ込んで庇護を受けられれば捕まることはないし、この地域を取り締まらない限り、麻薬の密貿易もなくせない。かつてアフガニスタンに供給された大量の武器が、まだこの地域のあちこちの倉庫に眠っている以上、パキスタン国内のテロ活動もなくならない。

 とはいえ、そもそも部族地域を経由する両国の「裏の関係」が強化されたのは、79年のソ連軍侵攻後のパキスタン政府の政策によるものだった。パキスタンは、ソ連からの非難を避けるため、アフガンゲリラを支援していることをなるべく隠そうとしたから、支援はすべて裏ルートで行われた。その結果が現在の密輸天国なのである。

▼国境をまたぐ密輸マフィアの屋敷

 パキスタンとアフガニスタンの国境に展開する密輸専門店は、ペシャワール近郊にだけあるのではない。もう一カ所、南の方の都市クエッタの周辺にも、密輸産業が発達している。こちらはアフガニスタン南部の町カンダハルと結ばれている。カンダハルはタリバンの本拠地であるが、国際的な注目度がペシャワールより低いので、おおっぴらな密輸もあるらしい。

 たとえば、クエッタからカンダハルへ向かう街道が国境を越えるチャマンという町には、トラックマフィアの広大な屋敷が国境をまたぐ形で広がっているという話を聞いた。この屋敷内にトラックを通して越境させ、密輸をしているという。

 パキスタン当局がトラックを追いかけても、それは屋敷の入り口までで、あとは私有地なので簡単には入れない。もちろん、両側の当局者に賄賂を払っているのだろうが、こうした仕掛けを作れば、税関の担当者も「私有地内のことは分からない」と言い訳することができるというわけだ。

 ペシャワールとジャララバード・カブールを結ぶ北の出入り口は、両国間のメインルートなので、もう少しフォーマルだ。密輸品を堂々と運び込むことができないため、国道近くの裏山をロバの背に密輸品を乗せて越境させたり、近くを流れるカブール川にいかだを浮かべて運んだりするという。

 国境には、南北の国道だけでなく、その間の部族地域とアフガン側をつなぐ山道が何本かあり、これらの道の交通はパキスタン当局から把握できない。

 このルートで密輸品を運ぶことも多いらしく、アフガニスタン東部の山岳地帯を車で走っていた時、幅3メートルほどの未舗装で連続急カーブの山道を、大型トラックが家電製品らしいダンボール箱を満載した状態で、ゆっくりと動いていく光景を何回か見た。

 日本の北アルプスで上高地から槍ヶ岳の小屋まで10トントラックで登っていくようなもので、横転したらそれっきりの危険さだが、これがバラマーケットを維持している密輸の現場なのだった。

「難民都市ペーシャワール(2)」に続く】



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ