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イラク攻撃・イスラエルの大逆転

2002年9月16日   田中 宇

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【この記事は「米イラク攻撃の謎を解く」の続きです】

 今年7月中旬、ロンドンの閑静な住宅街にある公会堂にイラク反体制派「イラク国民会議」の人々が集まり、サダム・フセイン政権を倒す方法を検討する会合を開いた。

 イラクの反体制組織は種類が多い。北部のクルド人、南部のシーア派イスラム教徒、それからフセイン政権を嫌って国外亡命した人々などで、それらがさらに分裂し、何十もの組織がある。イラク国民会議は、湾岸戦争後の1992年、アメリカの後押しで30以上の反政府組織が合体して作られた(本部はロンドン)。

 彼らは一応、一つの組織になってはいるが、内紛が激しく、結束は悪い。1996年に北イラクで反政府蜂起を企てたものの、組織の内部にフセイン政権のスパイが潜入していたため、事前に計画がイラク政府に漏れ、イラク軍に徹底弾圧された。

 その後アメリカ政界では、イラク国民議会に対する不信感を露わにする人々と、引き続き国民会議を支持する人々との間で駆け引きが続いていたが、今年に入ってブッシュ政権がイラク攻撃に対する固い意志を表明し、国民会議の動きも活発になった。

 アメリカ政府内でイラク国民会議を最も強く支持しているのは、前回の記事で登場した「ネオコン」(新保守主義)の人々である。国民会議のアハマド・チャラビ代表は、ポール・ウォルフォウィッツ国防副長官から指示を受けているとされ、7月のロンドンでの会合でも、チェイニー副大統領の側近ら、ネオコンの人々が列席していた。

 アメリカン・エンタープライズ研究所のマイケル・ルービンという人が、このロンドン会議のことを英デイリー・テレグラフ紙に書き、記事はワシントン近東政策研究所のサイトに転載されているが、この2つの研究所はいずれも新保守主義の牙城である。

▼イラクを狙うヨルダン王室

 イラク国民会議の7月の会合には、意外な人物が登場した。ヨルダンのハッサン王子である。

 ヨルダンはイラクの隣国で、ヨルダン人は、同じアラブ民族であるイラク人に親近感を持っている。ヨルダン人の大半はパレスチナ難民出身なので、アメリカの戦略によってひどい目に遭わされているイラク人の心境は十分理解できる。しかもヨルダンは国内で使う石油のすべてをイラクから輸入しており、その半分は無償、残りの半分は野菜などの商品とのバーター貿易で安く買っている。これらの関係から、ヨルダンはアメリカのイラク攻撃には反対してきた。

 だがその一方でヨルダンは親米国で、イスラエルとも和解しており、その見返りにアメリカからかなりの経済援助を受けている。ヨルダン王室のハシミテ家はもともと、中東を植民地支配(信託統治)していたイギリスから、1923年にトランスヨルダン(今のヨルダン)の統治権を与えられ、この国の王室となった歴史があり、王室はイギリスやアメリカには逆らいにくい。ヨルダンの一般国民は反米傾向だが、王室は親米という、ねじれた状態になっている。

 そのため、ヨルダン政府はアメリカのイラク攻撃には反対だが、米軍がヨルダンへの駐留増強を求めると断れず、米軍とヨルダン軍の合同軍事演習をやるという名目で、今夏から米軍の増強を受け入れている。そんな微妙な立場のヨルダン王室が、イラク国民会議の会合にハッサン王子を送り込んできたため、世界中の注目を集めることになった。

 会合で挨拶したハッサン王子は、政治の話を避け、イラクがヨルダン王家のハシミテ家と歴史的に深いつながりがあるということを話した。イラクはヨルダンより2年前の1921年、宗主国イギリスによってハシミテ家のファイサルが王位に据えられ、1958年に決起したアラブ民族主義の将校団が国王一族を殺害するまで、王政が続いていた。

アラブ民族主義については「アラブ統一の夢は死んだか」参照

 ハッサン王子の話は、表向きは政治の話を避けているように見えながら、実は深い政治的な含蓄を持っているとも受け取られた。米軍がサダム・フセイン政権を倒した後、ハシミテ家のハッサンがイラクの国王に返り咲くのではないか、と思われたのである。かつて帝国主義のイギリスがイラクやヨルダンに王家としてハシミテ家を据えたように、今また「新帝国主義」のアメリカがイラクにハシミテ家を据えて統治させるのでないか、という筋書きだ。(「米英で復活する植民地主義」

 ハッサンは王子といっても55歳で、アブドラ国王の叔父に当たる。先代のフセイン国王は長いこと弟のハッサンを皇太子に定めていたが、死の直前に皇位継承権を変更し、息子のアブドラを皇太子に変えてしまった。ヨルダンの国王になれなかったハッサンは、隣国イラクの国王になるのではないか、という憶測を呼んだ。

 先にイラク国民会議をアメリカ側で動かしているのはネオコンの人々だと書いたが、ハッサン王子をロンドンの会合に呼んだのもネオコン勢力だとみられている。ハッサンは今年4月初旬に訪米し、ネオコンの中核であるウォルフォウィッツ国務副長官と会っている。そのときにウォルフォウィッツがハッサンに持ちかけたのではないか、と分析する記事もある。

▼ネオコンとイスラエル

 サダム・フセインを倒し、ヨルダンの王室をイラクの国王に据えるという構想は、最近浮上してきたものではない。しかも、もともとアメリカが考えたものでもなさそうだ。構想はすでに1996年、イスラエルで出されていた。

 この前年イスラエルでは、パレスチナ人との共存を模索するオスロ合意体制を推進していたラビン首相が暗殺され、その後の選挙で、オスロ合意に懐疑的なリクード党首のネタニヤフが首相に当選した。

 ネタニヤフの当選後、彼が首相に就任するまでの間に、エルサレムの「先端政治戦略研究所」(Institute for Advanced Strategic and Political Studies、IASPS)というシンクタンクが、ネタニヤフ政権の政治戦略のたたき台となる提案書「A Clean Break: A New Strategy for Securing the Realm」を発表した。その提案書に「サダム・フセイン政権を倒すことは、イスラエルが存続するために大切な目標であり、ヨルダンのハシミテ王家がイラクの政権に就くことは、(イスラエルの宿敵)シリアを封じ込めることにもつながる」という趣旨のことが盛り込まれている。

 この提案書は、いくつもの意味で、その後現在までつながるイスラエルの動きの起源となっている。たとえばこの提案書の冒頭では、ネタニヤフ政権はオスロ合意を破棄すべきだと書いている。アラブ人(パレスチナ人)はイスラエルという国が存在することを認めておらず、そんな中でイスラエルがアラブ人に領土面で譲歩しても、代わりに期待される平和を得ることはできず、アラブ人はイスラエルという国が消えるまで領土を求め続けるだろう、というのが、破棄の理由である(私には、この指摘はある程度当たっていると思われる)。

 ネタニヤフ政権はこの理論に基づいてオスロ合意の和平の進展を妨害し、その動きは今のシャロン政権の受け継がれ、オスロ合意はほぼ壊滅状態になっている。イラクのフセイン政権を倒すとか、オスロ合意を破棄するとか、この報告書に書かれていることは、特に昨年の911事件以降、急速に具現化しつつある。

 それはなぜなのか。誰がこの提案書を書いたかをみると、納得できることがある。提案書を書いたのは、今はアメリカ国防総省の軍事政策委員長をしているリチャード・パールや、国防総省の政策担当次官になっているダグラス・フェイスら「ネオコン」の人々で、彼らがアメリカの政権中枢に入る前に書いたものである。

 ネオコンの人々とイスラエルとのつながりは、これにとどまらない。リチャード・パール、ダグラス・フェイス、チェイニー副大統領といった人々は、ブッシュ政権の中枢に入るまで、アメリカのイスラエル系軍事研究所「国家安全保障問題ユダヤ研究所」(JINSA)の顧問などもしていた。この研究所は、アメリカはイスラエルと組んで、イラクのほかイラン、シリア、サウジアラビアなどの政権も転覆させた方が良い、といった主張を展開してきた。(「The Men From JINSA and CSP」)

▼オスロ合意を蹴って「最終解決」へ

 イスラエルは冷戦中、エジプトのナセル主義に代表される中東の社会主義勢力に対抗する勢力として、アメリカから巨額の援助をもらっていた。だが冷戦が終わり、イスラエルはアメリカから見捨てられる可能性が出てきた。その一つの表れが「オスロ合意」だった。

 この和平合意は、最初はイスラエルにとって「コストがかかる占領地の管理をパレスチナ人自身(PLO)にやらせるとともに、イスラエルは平和を得る」という意味があった。だが、パレスチナ人国家の建国を許すと、イスラエルは「インド・パキスタン状態」に陥る可能性がある。かつてイギリスが、独立後のインドが大国になるのを防ぐため、2つの国に分割して出ていったように、アメリカは、強くなりすぎたイスラエルを、イスラエルとパレスチナに分割し、互いに戦わせて消耗させる「均衡戦略」の餌食にしようとしたのではないか、という見方である。

 イスラエルはネタニヤフ政権になって、均衡戦略の餌食になることを拒み、さらにその後、数年かけて逆にネオコンを通じてアメリカの政権を掌握し、しかもアメリカの主流だったベーカーやパウエルらに代表される均衡戦略の人々を脇に追いやる、という大逆転を展開した。そしてパレスチナだけでなく、イラクやサウジアラビア、シリアなど、イスラエルの脅威になっている国々の政権を破壊してアメリカを中東での長い戦争に引きずり込み、アメリカがイスラエルを捨てられない状況を作るのが、今のネオコンの戦略だとみることができる。

 フセイン打倒後のイラクをハシミテ家に統治させるという計画は、以前の記事「中東問題の最終解決」に書いた「ハシミテ家の王政を倒し、パレスチナ人の国家を作ろうとする動き」とも関係している。

(「中東問題の最終解決」を書いた後に分かったのだが、イスラエルのシャロン首相は1970年代から「ヨルダンからハシミテ家を追い出し、代わりに西岸やガザなどにいるパレスチナ人をヨルダンに移住させてパレスチナ人の国に変えることで、パレスチナ問題の最終的な解決とすべきだ」と言い続けている。シャロン政権がパレスチナ自治政府を破壊したのは、30年前からの主張を具現化する第一弾だということになる)

 イスラエルが西岸を手放さずにすむよう、ヨルダンをパレスチナ人の国家にして西岸のパレスチナ人の大部分をヨルダンに強制移住させる計画と、イラクをハシミテ家のものにする代わりにハシミテ家はヨルダンから出て行く、という構想は連動している。これらは今のところ構想でしかないが、イラクの現政権が潰された場合、事態は一気に流動化する。

 ところが、こうした視点には問題がある。アメリカの上層部はイスラエルに牛耳られている、といった見方は、以前から存在している。しかし、いくら牛耳られているとしても、アメリカ政府の上層部の議論として「イスラエルの国益のためにアメリカ兵の命をかけてイラクを大攻撃しよう」というような主張が成り立つとは思えない。裏にイスラエルの国益が見え隠れしたとしても、議論としてはアメリカの国益に沿ったものでない限り、ネオコンの人々が均衡戦略派との激しい論争に勝てるはずがない。

▼文明の衝突計画の一環か

 アメリカのイラク攻撃の目的として考えられるもう一つの視点は、911の直後に感じられた「アメリカは文明の衝突をわざと起こそうとしている」ということである。

 冷戦時代、アメリカはソ連が途中で冷戦をやめたくてもそれを認めず、結局ゴルバチョフが出てきてソ連を自壊させてしまうまで冷戦は続いた。冷戦が続いていることによって、アメリカ政府は国内外に向けて「冷戦に負けないため」といって軍拡や高圧的な外交姿勢をとることができた。冷戦のすべてが「やらせ」だったとは言えないだろうが、すべてが不可避の長い戦いだったかといえば、そうでもない。その意味で冷戦は「八百長」の側面があったと考えることができる。

 こうした考えに基づくと、911後のアメリカは「イスラム世界」を丸ごと「テロリスト集団」として敵に仕立てたいのではないか、アメリカはソ連の後がまとなる「長い八百長戦の敵」として、イスラム世界を選んだのではないか、という見方ができる。イラク、イラン、サウジなどの政権を崩壊させたり不安定化させ、アラブの人々がますます反米的になって「テロ行為」を支持するようになれば、アメリカの望む「次の冷戦」が達成できる、というわけだ。

 この見方に立つと、アルカイダとかオサマ・ビンラディンといった存在も、本当に100%アメリカやイスラエルの宿敵なのか、アメリカやイスラエルは911事件が起きるまでの過程で、要所ごとに、アルカイダがきちんと敵として育ってくれるよう、何らかの秘密の支援を、もしかするとアルカイダ側も気づかぬうちに、やったりしなかっただろうか、と勘ぐりたくなる。(イラクやスーダンといった国に関しては、アメリカよりイスラエルの諜報機関の方が情報収集力を持っている)

 当局がテロ活動を事前に捜査するとき、おとりを使ったり、テロ組織を見つけても全容が把握できるまで泳がせたりすることがよくある。また、敵国の政府を狙うテロリストを支援することが、軍事作戦の一つになったりもする。

 つまり、テロや諜報、スパイ活動などをめぐる国際的な「業界」は、敵味方が判別しにくい状態の中で「敵の敵は味方」だというような、一般常識からすると不思議な作戦が展開されていたりする。しかも、そうした作戦の存在すら、一般の人々には知られずに計画・実行され、大失敗したときだけ「イラン・コントラ事件」などのように、その片鱗がマスコミで報じられる。

 こうした業界の存在を考えると、イスラム世界を相手にした「文明の衝突」という新型冷戦が、イラク攻撃とともに拡大しても不思議ではないのだが、その一方で、そういう動きがあるということを証明するのは、私の現在の解析力ではまだ難しい。今後さらに研鑚を積み、いずれ続編を書きたい。



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