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アラブ統一の夢は死んだか

2002年7月30日   田中 宇

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 7月23日、私は東京を発ってカイロに着いた。この日は偶然、エジプト革命50周年の記念日で、エジプトは祝日だった。

 1952年7月23日、エジプトではガマル・アブデル・ナセル中佐ら若手将校のグループ「自由将校団」が軍事クーデターを起こし、イギリスの傀儡だと国民から批判されていた国王を追放した。エジプトは1922年にイギリスの植民地から独立したが、その後もイギリスによる間接支配が続いてた。1952年のエジプト革命は、翌年の王制廃止、そして56年のイギリス軍撤退とスエズ運河国有化につながり、エジプトがイギリスの支配から脱して実質的な独立を勝ち取る動きの始まりとなった。

 エジプト革命は、エジプト一国が自立するというだけにとどまらず、世界的に大きな影響を及ぼすことになった。革命後しばらくして大統領に就任したナセルは、多国籍企業だったスエズ運河の国有化を行い、これに対してイギリス、フランス、イスラエルは、エジプト革命の進展を止めたい意味もあってエジプト攻撃を開始し、第二次中東戦争が起きた。エジプト軍は劣勢だったが、英仏の植民地主義に反対するアメリカがイスラエルを非難するなど、世界の世論がエジプトの側についた結果、戦争は事実上エジプトの勝利で終わった。

 この勝利は、他のアラブ諸国におけるナセル大統領の人望を高めた。ナセルはこの流れに乗って「アラブ諸国の統一」を目標に掲げるアラブ民族運動を展開した。シリア、イラクなどアラブ諸国の多くは、英仏の植民地支配から自立していく過程にあり、手探りの国家運営が続いていた。そんな中でナセルが掲げた「アラブ諸国の統一」という目標は、アラブの人々にとって理想的な将来像として受け入れられた。1920年代から英仏の支配下で分断された過去を乗り越え、アラブ諸国が団結すれば、強い国家を作ることができ、アラブ諸国からみれば侵略行為によって建国されたイスラエルに負けない力を持つことができると考えられた。ナセルは、アラブ民族運動の象徴となった。

 1958年、シリアがナセルに対して国家の合併を持ちかけ、シリアとエジプトは合体してアラブ連合共和国となった。シリアの政府や軍内では共産主義者が増え、アメリカから支援された右派と対立して不安定な状態になっていた。それを乗り越えるため、ナセルの傘の下に入る選択肢が選ばれたのだった。

 これは全アラブ統一への第一歩となるはずだった。ところが、エジプトとシリアは社会的な基盤や、政治風土がかなり違っていた。たとえば、エジプト社会はナイル川三角州に広がる農村の風土が強いが、シリアはダマスカスやアレッポといった商業都市が重要な役割を果たし、商人的な気風がある。ナセルは、エジプトとシリアとの地域格差を十分に考慮した政策を打ち出せず、シリアの側では一方的にエジプトの支配下に置かれることへの反発が強まった。結局、1961年にシリアでクーデターが起き、その後シリア政府がアラブ連合から離脱し、アラブ統一の夢は破れた。

 スエズ戦争時にはナセルを支援していたアメリカは、アラブ諸国が連合する動きを強めると同時にソ連寄りになっていったため、ナセルを敵視する姿勢に転じた。シリアの脱退後、ナセルはエジプト経済を社会主義化する動きを強め、アメリカとの対立は深まった。いったんエジプトと袂を分かったシリアでは、その後1966年に再びクーデターが起き、社会主義急進派の政権ができた。反米を掲げる彼らはイスラエルを敵視する政策を強め、この動きに引っ張られる形でナセルとイスラエルとの関係も悪化した結果、1967年に第三次中東戦争が起きた。

 この戦争はイスラエルの大勝利に終わった。エジプト軍を大敗北させた責任をとって、ナセルは大統領辞任を発表した。辞任に反対する国民世論が強いため、ナセルは大統領の座にとどまったが、1970年に病死した。イスラエルの軍事力の強さが不動のものになったことで、アラブ諸国の統一というナセルの理想は挫折し、アラブ民族主義はしぼんでいった。

 ナセルのあとを継いだサダト大統領は、ソ連との関係を疎遠にして急速にアメリカに接近し、1977年には他のアラブ諸国に先駆けてイスラエルと和解した。アラブを統一してイスラエルを潰すというアラブ民族運動の盟主だったはずのエジプトに、はしごを外されて裏切られた他のアラブ諸国はエジプトを非難し、アラブの連帯精神に大きな亀裂が入った。その後、エジプトは現在にいたるまで親米とイスラエル容認の姿勢を続けている。

▼ナセルの威を借りた宣伝戦略

 昨年から続くアメリカの「テロ戦争」の強引さや、イスラム教徒を敵として扱う傾向が強くなっていることに対し、アラブ諸国では反米意識を強めている人が多いと伝えられる。パレスチナ問題も、イスラエルは世界から非難を受けつつも、パレスチナ人に対する攻撃を緩めていない。

 これまでの50年間はエジプトにとって、ナセルの革命に端を発するアラブ統一運動が盛り上がり、そして挫折した歴史だったが、これからはその挫折を乗り越えて、再びアラブが団結に向けて動くことが、アメリカやイスラエルへの対抗上、必要なのではないか。そういう問題を、エジプトの人々はどう考えているのだろうか。それを知りたくて、カイロの空港に降り立った。

 着いてすぐ乗ったタクシーの中で、運転手に「今日は革命記念日ですよね」と英語で聞いてみた(エジプト人は英国の植民地だったため、一般の人々も日本人よりは英語がうまい)。すると運転手氏は「革命ねぇ。もう大昔の話だよ」と答え、そういうことにはうんざりしている、という感じの表情をした。その後、部屋を掃除にきたホテルのボーイさんにも同じようなことを尋ねたが、似たような返答だった。

 私はカイロ滞在中、カイロに留学中の知人に連れられて何人かのエジプト人に会い、話を聞くことができた。その中の一人、カイロ・アメリカン大学のアッバース・トンシー教授は、エジプト革命記念日をめぐるエジプト政府の対応について、興味深い分析をしていた。

 教授によると、エジプト政府(ムバラク政権)は従来、エジプトの経済運営やその他のいろいろな政策がなかなか上手くいかない理由を、エジプト革命からナセル死去までの約20年間のナセル時代の社会主義的な政策の失敗がいまだに尾を引いているためだ、と言ってきた。政府は、自分たちの失敗を、全部ナセルのせいにしてきた。

 ところが、昨秋以来のアメリカの「テロ戦争」で、エジプトの人々は反米意識を強めた。そして、アメリカに対して従順な態度をとっているエジプト政府への批判が強まった。それに対して政府は、革命50周年の記念日が近づくにつれ、エジプト革命がいかに偉大だったか、ということを伝える何種類ものテレビ番組を、国営テレビで放映させた。

 現在のエジプト政府は、アメリカやイギリスに対して毅然とした態度をとったナセル政権の後継者であり、ナセルが目指した自主独立の思想は今も受け継がれている、と人々に思わせようとする宣伝作戦だった。

 私が革命記念日について尋ねたタクシーの運転手やホテルマンたちが、エジプト革命に対してうんざりしている表情を見せたのは、国営テレビの宣伝放送をたくさん見た後だったからなのかもしれない。

 エジプト政府がナセルの威光をこのように使うことは、政府自身にとって非常に危険なことだ、とトンシー教授は言う。ブッシュ政権が計画中のイラク攻撃を実行したら、中東の人々は反米意識をさらに強めるに違いない。すでに国営テレビの宣伝放送をたくさん見ているエジプトの人々が、政府に対して「ナセル時代のように、アメリカに対して毅然とした態度をとれ」と要求する度合いが強まることになる。

 その一方でアメリカのブッシュ政権は、イラク攻撃を機に「俺たちに従わない国はすべて敵とみなす」という白黒的な戦争論をさらに強めるとも予測されるため、エジプト政府の立場は間にはさまれ、ますます厳しいものになる。

▼現実主義に転向した「全共闘世代」

 プロパガンダの道具としてではなく、実際にエジプトを中心にアラブ諸国が一つにまとまるということは、今後あり得ないことなのだろうか。エジプト革命の精神は、もう死に絶えたのだろうか。この件に関して私を驚かせたのは、アフマド・タハ(Ahmad Taha)という詩人との会話だった。

 「今後アラブが統一することはあるか」と私が尋ねたところ、タハ氏からは「そもそもエジプトはアラブの国ではない。だから、ナセルがエジプトを中心にアラブ諸国を統一しようとしたのは間違いだったし、今後エジプトを中心にアラブが統一されることもあり得ない」という趣旨の答えが返ってきたからだった。


アフマド・タハ氏(右)(左は案内してくれた知人)

 タハ氏によると、エジプトのアイデンティティはもともとアラブではなく、古代エジプト文明から綿々と続くナイル川流域の文化がエジプトの特性なのだという。エジプトは昔から国力が強いので、エジプトの支配者が中東全域の支配者になろうとする動きが歴史上何回も起こり、ナセルもその一人だった。

 だが、ナセル時代末期の1967年の第三次中東戦争でアラブ諸国軍が破れた後、エジプトとアラブ諸国との間に、イスラエルというまったく異質な国が横たわり続けることが確実となった。これ以降、エジプトはアラブ諸国から切り離されて別種の存在となった、というのがタハ氏の理論だった。

 タハ氏は、青春時代には、アラブの統一を目指すナセル主義の熱血的な信奉者だったが、第4次中東戦争前後の1970年代前半に大学を卒業して軍隊に行き、そこで考え方を変えたという。それ以来、エジプト人が自国のためを考えるなら、アラブ諸国と組むよりイスラエルと組んだ方がましだ、という現実路線をとるようになった。

 彼の話を聞いていて、今では50歳代になる日本の全共闘世代の心境の変化と似ている、と思った。日本の60−70年代に理想を追求する「反米闘争」があったように、エジプトにはナセル主義があり、それから30年以上たった今、理想主義は現実主義に取って代わられているのだった。

▼熱い青年たち

 ところが日本と異なり、エジプトの人々の政治的な熱血は、それで終わってはいなかった。

 タハ氏と会った後、カイロ大学の日本語学科の3−4年生の学生たちと懇談する機会に恵まれた。彼らに「エジプトはアラブの一員ですか」「アラブは統一すべきですか」などと尋ねると、かなり上手な日本語で「アラブはぜったい統一すべきです」などと、ナセル主義をしっかり受け継いだ情熱的な答えが返ってきた。

 彼らの中の一人の女の子が熱く語ったのは、パレスチナ問題についてだった。パレスチナでの抑圧のように、イスラエルやアメリカに勝手なひどいことをされてしまうのは、アラブ諸国が団結していないからで、アラブが一つになれば、パレスチナ人を救うこともできる、という趣旨だった。

 今の日本は、アメリカからひどい目に遭わされている具体的な事例が少ない(沖縄の基地問題ぐらいか)ので、人々はアメリカの世界支配の傘下にあることをほとんど感じずに生きている。だがアラブの人々は、パレスチナ問題やイラクに対する経済制裁など、同胞がひどい目に遭っているのを目の当たりにしている。そのために、エジプトの青年たちが日本の青年たちよりも政治的に熱いのだと感じられた。


イスラム研究の世界的中心地、カイロ・アズハルモスク。夕方の礼拝後



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