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モルッカ諸島:宗教戦争という名の利権争い

2000年1月31日   田中 宇

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 モルッカ諸島ではかつて、島に向かう船に乗っている人は、海風の中に、香辛料のかぐわしい匂いを感じることができたという。冷蔵庫がないためにすぐ腐ってしまう肉の臭いを消すために、この地で採れる香辛料が、ヨーロッパの貴族たちの食生活に欠かせないものだった時代、モルッカ諸島はポルトガル、そして16世紀以降はオランダの、重要な植民地であった。

 今、この島に充満するのは、焼け跡の炭のにおいだ。昨年初めから続いている、キリスト教徒とイスラム教徒の対立によって、中心地アンボンや、その他の村々は焼き打ちされ、焼け野原となっている。この1年間に、少なくとも1800人が死んだと推定されている。

 暴力が始まった後、この事件を報じる記事には「アンボンではつい最近まで、キリスト教徒とイスラム教徒という2つのコミュニティは、仲良くやってきたのに、その後突然、対立するようになった」という見方のものが多かった。私も昨年5月に書いた記事「激動のインドネシア:煽られた聖戦」で、そのような見方をしている。

 だがその後だんだんと、この地の実態についてのレポートが出てくるにつれ、事情はもっと複雑だったことが分かってきた。特に、人権問題のNGOである「Human Right Watch」がまとめた詳細な報告書「The Violence in Ambon」や、オーストラリアの隔月刊誌「Inside Indonesia」の99年10-12月号の記事「What caused the Ambon violence」などが、深い分析をしている。

▼オランダのキリスト教徒重用策が遠因

 それらによると、アンボンにおける殺し合いの遠因は、50年以上前の植民地時代にさかのぼる。1949年まで、インドネシアを植民地にしていたオランダ当局は、アンボンで、地域の人口の約半分を占めるキリスト教徒を重用し、植民地政府で働く下級役人や軍の下士官、警察官、地元の学校の教師などは、ほとんどがキリスト教徒であった。

 オランダ人はキリスト教徒なので、アンボン人のうち、同じ宗教の人々を信用したのである。アンボンの人口の残る半分はイスラム教徒だったが、彼らはオランダ当局と接触しない、漁業や農業を営んでいた。

 1949年に独立したインドネシアは、全体としてみると、イスラム教徒が95%を占める国となった。他宗教への配慮から、イスラム教を国教にしなかったが、アンボンでもイスラム教徒の力が強くなることが予想された。

 そのため、アンボンのキリスト教徒、特に元オランダ軍下士官たちを中心とした人々は、新生インドネシアの一部となることをためらい、「南マルク(モルッカ)共和国」という別の国として独立することを目指した。彼らは、イスラム教徒勢力と対立し、いくつもの村を焼き打ちしたが、新しくできたインドネシア軍の方が強かったため、彼らは1950年には敗北し、一部はオランダに亡命し、残りはインドネシアに吸収された。

 この時の対立は、その後も人々の心に残ったものの、インドネシア政府は、宗教間のバランスを重視し、対立させない政策をとった。アンボンでは、ときどき宗教間の喧嘩や騒動があったが、軍や警察によって厳しく取り締まられ、拡大しなかった。

▼政治上の利権争いを続けた2つのコミュニティ

 人々のライバル意識は暴力には向かいにくくなったものの、政治の世界の利権争いは激しかった。インドネシア独立後も、2つのコミュニティは、それぞれを代表する政治家を、地元政界やジャカルタの中央政界に送り出した。

 インドネシアでは、公共事業の発注先を決める際、入札ではなく、当局が発注先を決める指名方式が中心だった。日本の公共事業の仕組みと似て、入札が行われても、それは表向きのもので、事前に落札者は決まっていることが多かった。

 しかもインドネシアでは、地方自治の度合いが低く、地方で集められた税金の7−8割以上は、中央政府の金庫に入り、地方に再交付されない。そのため地方の人々が豊かになりたければ、政治力を磨いて中央に働きかけ、公共事業をもらうことが必要だった。

 アンボンの2つのコミュニティは、別々に中央政府とのパイプを作り、自ら勢力の利権を確保していた。この機能は、植民地時代からの伝統で公務員が多いキリスト教徒たちにとって、特に大切だった。

 ライバル間のバランスは、40年近く在位したスハルト大統領の政策で維持されていた。だが、1990年に冷戦が終わった後、反共産主義をかかげるスハルト政権は、アメリカなどにとって次第に重要でなくなり、スハルト本人の老化と歩調を合わせ、大統領の権力が揺らぎ始めた。それと同時に、インドネシア各地で、中国系ビジネス勢力とイスラム教徒、キリスト教徒とイスラム教徒といったライバル間で、蹴落とし合いが始まった。

▼権力を温存したい軍が紛争を拡大

 アンボンでは1997年、イスラム教徒のサレ・ラトゥコンシーナ(Saleh Latuconsina)が州知事になった後、それまで宗教間のバランスを維持する不文律になっていた、知事、副知事など州のトップ3人の地位を、すべてイスラム教徒で独占するようになった。

 キリスト教徒は危機感を強め、この後、両者間の対立が深まった。ワヒド大統領は、大統領に就任する前の昨年2月、紛争を調停するためにアンボンを訪れた際、ラトゥコンシーナが暴動のきっかけを作ったと非難している。

 この前後から、利権を失いつつあったキリスト教徒たちは、公務員などの公共部門を追い出され、民間で働かざるを得なくなったが、多くはすでにイスラム教徒によって占められ、部外者の新規参入は難しかった。キリスト教徒の青年たちはジャカルタに出稼ぎに行く人が増えたが、昨年から続くアンボンの暴動は、そのジャカルタが発祥点となった。

 1998年12月、ジャカルタで「アンボン人のキリスト教徒たちが、モスクを破壊した」という噂が流布し、その仕返しとして、キリスト教徒のアンボン人が運営する賭博場が焼き打ちされた。これが、地元アンボンに飛び火し、99年1月に両者の衝突が始まった。

 衝突が始まって最初の1カ月ほど、犠牲者のほとんどは、ナイフや旧式の銃など、住民が持っていた武器で殺されていたが、99年2月に軍が介入してからは、死者の多くは、軍の銃弾が当たっていた。軍は、ゴム弾を使えば、殺し合う人々を引き離すことができたにもかかわらず、実弾を発砲し続けた。

 そして軍は、イスラム教徒に対しては、キリスト教徒の襲撃によって人々が死んでいると伝え、キリスト教徒に対しては逆のことを伝えることによって、人々の憎悪を煽ったとみられている。軍は、99年6月の選挙で生まれたワヒド政権によって、解体されて政治力を失うことを懸念していた。混乱を煽り、ワヒド政権が事態を収拾できなくなれば、軍の政治力を温存せざるを得なくなるため、実弾を発射しつづけたと考えられる。

 インドネシア軍は、アンボンだけでなく、東チモールや、バリ島の隣のロンボク島、イリアンジャヤなどでも、人々の対立を煽る行為を展開した疑いが濃い。ワヒド政権は、最近まで国防大臣だったウィラント司令官が黒幕ではないかと考え、司令官に対する調査を続けている。


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