日本がよみがえらせたアフガンの村2000年7月17日 田中 宇この記事は「故郷に帰るアフガン難民 」の続きです。 アフガニスタン東部の山村アズロの人々は、1979年のソ連軍侵攻後、ほとんどがパキスタンのペシャワール近郊にある難民キャンプに逃げたが、3年ほど前から人々の一部が村に帰り始めている。国連の難民高等弁務官事務所(UNHCR)は、日本政府からの資金で、彼らの帰還を支援する事業を展開しており、私は5月中旬、事業の中心となっているUNHCRの山本芳幸さんに連れられて、アズロを訪問した。 アズロのUNHCR宿泊所は、村の中心部から2キロほど谷を登った、やや人里離れた場所にあった。アフガニスタンでは現在、音楽を聞くことがタリバン政権から「反イスラム的」だとみなされて禁止されている。宿泊所に泊まる職員やボランティアなどは、異教徒の外国人であることが多いため、音楽を聞いても大目にみられるが、村に近いところに宿泊所を建てると、音楽が近所の人に聞こえてしまい、いい顔をされないので、周りの迷惑とならないよう、少し人里離れた場所を選んだのだという。 その宿泊所に滞在して2日目の午後、2台のトヨタの小型トラックの荷台いっぱいに分乗した20人ほどの男たちの集団が、谷の下の方からこちらをめざして登ってくるのが見えた。山本さんやUNHCRのアフガン人職員ラフマッドらは、「おお、きたきた。ジルガがきた」などと言いながら、彼らを迎えに出ていった。 「ジルガ」とは、村の議会である。昔の日本の村の「寄り合い」のようなもので、各集落を代表するイスラム聖職者や、それ以外の有力者たちが集まり、イスラム法とパシュトン人の部族習慣に基づいて、争いごとの調停や、違法行為に対する処罰などを決定する。ジルガの決定は絶対的なもので、村人は逆らうことを許されない。ソ連が攻めてきたとき、男性全員参加の聖戦(ジハード)を宣言したのも彼らである。彼らは家族を難民キャンプに置き、アズロでソ連軍と戦い続けたムジャヘディンの戦士たちで、最近になって20年ぶりに家族を難民キャンプから戻し、故郷での生活を再開した。 「戦士」のイメージに違わず、ジルガの男たちはターバンを巻き、見るからに猛々しかった。彼らは車を宿泊所の前まで乗りつけず、30メートルほど前に車を止めて全員が降り、そこから歩いて入場してきた。その姿がまた威厳を感じさせるもので、その芝居がかった儀礼からは、日本の武士道に近い威厳が感じられた。 ▼恐ろしげな姿に似合わぬ質素な要求 彼らは、出迎えたUNHCRの職員たちと、握手や抱擁による挨拶を交わした後、宿舎の前に用意されたビニールの敷物の上に座った。山本さんらUNHCRの職員、それからアズロで医療支援をしているAMDA(アジア医師連絡協議会)という日本のNGOに勤めるネパール人のバンダリ医師が片側に座り、それを取り囲むようにジルガの面々が座った。そして、ひとしきりあいさつの言葉が交わされた後、何枚かの紙がUNHCR側に手渡された。 (手前の3人がUNHCR側の人々。ジルガ側の人々のうち、白いターバンは聖職者、それ以外の色のターバンやキャップをかぶっているのは俗人の有力者)彼らがUNHCRにやってきた理由は、恐ろしげな立ち振舞いに似合わない、質素で現実的な要望のためであった。アズロには1980年代から、スウェーデンのNGOが作った医療クリニックがあったが、近くその支援が打ち切られるため、UNHCRかAMDAの方で、それを引き継いでくれないか、という要望だった。手渡された紙はその要望書で、ジルガの全議員の署名と、指紋の押捺印がなされていた。 アズロ周辺の谷は、アフガニスタン全土を蹂躪したソ連の戦車部隊も、入ってこれなかった場所である。アズロは主要な国道から60キロ、ときに川床を通る道なき道を上り、峠を二つ越えた難路の先にある。峠の手前の川床には、今もソ連の戦車が半分埋まったまま、放置されている。進軍の途中、アフガン人ゲリラから攻撃され、破壊されたものだが、さらに先まで進んだ戦車も、標高3000メートル以上のチュトラ峠を越えてアズロの谷に入ることはできなかった。 戦車が入ってこれない上、この地方はパキスタン国境から近いため、パキスタンからの武器支援を受けて戦うムジャヘディンにとって、格好のゲリラ戦の本拠地となった。ムジャヘディンは「西側陣営を代表してソ連と戦う人々」となり、アメリカやヨーロッパ諸国も軍事支援したが、アメリカが機関銃など現物の武器を支援したのに対し、スウェーデンやデンマーク、ドイツなどの西欧諸国は、人殺しに荷担することになるので、武器を渡すことをためらった。 その代わりに北欧諸国が手掛けたのが、負傷したムジャヘディンを救うための医療施設だった。その一つがアズロにあるクリニックで、そこから50キロほど離れた別の谷にも、デンマークのNGOが建てた診療所が、ソ連の空爆を避けられる岩陰に建っていた。 1989年にソ連軍が撤退した後、これらのクリニックは村人のための医療施設として存続していたが、冷戦終結後10年たった今、当初の目的を終えたとして、しだいに閉鎖、縮小される傾向にある。デンマークのクリニックは、すでに閉鎖されていたし、アズロのスウェーデンクリニックも、6月で閉鎖されることになっていた。ジルガの要請は、3年前からアズロへの支援を開始した日本のプロジェクトの方で、それを引き継いで欲しい、というものだった。 ▼奥地の村を選んで支援する日本 日本政府が最初にアフガン難民の帰還を支援したのは、ソ連が撤退してムジャヘディンがカブールに入城し、難民が帰還し始めた1992年ごろのことだった。だが、その後ムジャヘディンどうしの内戦が始まり、いったん故郷に戻った人々が再び難民化してしまう大混乱の中で、援助したお金がどこに使われたか把握できない状況になった。 こうした混乱は、当時アフガンに資金を出した援助国の多くが経験したが、再び同じ状況に陥ることを防ぎたいと考えた日本政府は、1997年から再び平和が訪れ、再開された難民の帰還を支援する際、UNHCRと協議し、あらかじめ対象を決めて重点的に支援を行う方法を取った。 難民帰還支援の重点対象地域としてアズロが選ばれたのは、ソ連の攻撃が激しくて住民のほとんどが難民化し、その人々がこれから本格的に帰還しそうであるのに、カブールやジャララバードから6−8時間の難路の先にあるため、国際援助機関がほとんど手をつけていないからだった。 援助機関の多くは、資金提供した政府の代表やマスコミなどが視察にきたときに案内しやすい場所で、援助を展開したがる傾向がある。そのため幹線道路の近くでは、ヨーロッパのNGOなどが展開するプロジェクトの看板をあちこちで目にするが、そこから奥で事業を展開する機関は少ない。 こうした不均衡に気づいたUNHCRは、援助の空白地域であるアズロ周辺を選び、97年から難民帰還の支援事業を展開し、そこに日本政府が援助をすることになった。日本は、98年には総額220万ドル(約2億4000万円)、99年には340万ドル(約3億7000万円)を、アズロ周辺地域への難民帰還支援のために拠出している。 アフガニスタンでは、難民帰還などの人道的な支援が不可欠なものになっている。タリバンは事実上、政権を取っているにもかかわらず、それを政府として承認しているのは、パキスタン、サウジアラビア、アラブ首長国連邦の3ヶ国だけだ。タリバンがカブールを制圧した96年以来、それまで政権の座にあったラバニ派は北部の国境地帯へと撤退し、国土の1割を統治しているにすぎないが、国連の議席はその後もラバニ派が持っている。 これは、タリバンがイスラム教に基づく政治を厳格に施行するあまり、都会の女性に対する就労を禁止したり、人々が音楽を聞くことを禁止していることが「人権侵害」だと欧米から攻撃されていることが原因だ。タリバン政権を承認していない欧米や日本は、外交関係が前提となる2国間の開発援助をアフガニスタンに対して行うことができない。 だが20年も戦争が続き、疲弊し切っているアフガニスタンには、何らかの国際援助が必要だと考えている支援国は多い。そこで、難民帰還という人道援助の形をとりつつ、開発援助に近いことを行う、という苦肉の策が取られている。 たとえば、アズロと外界を結ぶチュトラ峠の峠道は昨年、難民が村に帰る際に通る道が危険なのは良くないという理由で、日本が30万ドルを出して修復したものだが、地域振興のための開発援助にもなっている。 ▼復興進む村 アズロは復興の真っ最中であった。97年に難民の帰還が始まる直前、この地区には数100人の住民しかいなかったが、今では1万人前後がこの地域に住んでいるとUNHCRは概算している。(アフガニスタンでは人口調査を行っていない) 谷沿いの道の脇では、最近村に帰ってきた男たちが、灌漑用の水路掘りに精を出していた。谷の上流では、これから農地を作る段階だったが、下流の集落ではすでに小麦が栽培され、青々とした穂を実らせていた。 2年前までは存在していなかったアズロの中心街は、今では未舗装の幹線道路の両側に10数軒の店舗が並び、原始的な商店街を形成し始めていて、ほこりっぽい家並みに似合わない「ミナ・マーケット」(愛の商店街)という名称までつき、私が訪れたときも2軒の商店が新たに建設中だった。 アズロの中心地に近いサリムヘルという集落では、木陰で小学校の授業が行われていた。農作業に使う広場に、女の子ばかり小学1年生と2年生がそれぞれ10人ぐらいずつを、別々の敷物の上に集めて座らせ、一人の男の先生が両方のクラスを掛け持ちして算数を教えていた。雨の日は、近くの農家の軒を借りて授業をするのだという。 学校として使われている木陰の広場と、外の道路を隔てる石垣の外側には、数人の子供たちが群がり、石垣の上から身を乗り出して、授業の様子を見ていた。「彼らは生徒ではないのか」と尋ねると「彼らはここ数日間に新しくぺシャワールの難民キャンプから戻ってきた帰還者の子供たちで、受け入れの手続きがすみしだい、授業に参加するだろう」とのことだった。生徒数は増え続けているのだった。 サリムヘルの屋外学校で学んでいたのは、女の子ばかりである。男の子たちは、アズロの中心街の近くにある小中学校まで歩いて通っている。この男女差について村人に尋ねると、娘たちを家から遠い中心街の学校に通わせることに抵抗を感じる親たちが、集落内での授業を希望しているのだ、という答えが返ってきた。 ここで学ぶ生徒のうち、2年生は昨年、難民キャンプからアズロに戻ってきた家族の子供、1年生は今年戻ってきた子供である。難民キャンプの教育機関は、モスクが運営している学校だけで、それは男子校である。難民キャンプでは女子教育の場がなく、女の子たちは故郷に帰って初めて、教育を受ける機会に恵まれたのだった。 ▼世界最大の麻薬の産地 アズロの人々にとって最大の問題は、生活を支える仕事が少ないことだ。まともな収入源は小麦の栽培ぐらいだが、アフガニスタンはもともと水が少ない土地で、山村では段々畑を作れず、谷底でしか農業ができないので収穫を増やせない。そのため、帰還者たちが手がけてしまうのが、麻薬原料となるケシの栽培と、山の樹木を乱伐することである。 ケシは、赤や白の花をつける草で、花が散った後の果実の乳液から、アヘン、モルヒネ、ヘロインなどの麻薬が作られる。アズロの中心部では国連の指導により、ケシの栽培は行われず、作物はもっぱら小麦だったが、谷を下流に降りていくと、道路のすぐ脇に真っ赤な花が咲き乱れるケシの畑が点在していた。 さらに、チュトラ峠を越えてアズロの谷から外に出ると、もっとケシの畑が多くなった。アズロからジャララバードにかけての地域は、世界有数のケシの産地なのだった。この地域では古代からケシが栽培されていたが、近代までは鎮痛剤として薬用に栽培されていた。 ケシの栽培には、アフガン人のブローカーが介在している。ブローカーは早春に山村を訪れ、お金に困っている農家を回り、お金を貸してあげるからケシを植えなさいと誘い、金とケシの種を置いていく。6−7月になるとケシの果実が実り、収穫されるが、それをブローカーに差し出しても、借金の全額には足りない仕組みになっていて、村人は翌年もまたケシを植えねばならないハメになる。 ブローカーはアフガニスタン国内でケシの実を精製して麻薬を作り、パキスタン人やイラン人、ロシア人のブローカーに転売され、ヨーロッパやアメリカなどの最終消費地に運ばれる。麻薬の小売り価格のうち、栽培農家に入るのは1%以下といわれている。 麻薬の使用はイスラム教でも禁じられているので、タリバン政府は、麻薬の栽培を禁止している。だが、地元の人にも以前は吸う習慣があったハシシの原料となる大麻は、栽培を厳しく取り締まったものの、欧米人は吸うがアフガン人は吸わないアヘン系のケシに対しては、厳しい取り締まりは行われていない。 タリバンはアヘンの流通に税金をかけ、財源にしているともいわれているが、食うや食わずの農民が多い中、厳しい取り締まりを実施すると、タリバンを敵視する反乱などが起きかねないという事情もある。 ▼食うに困って森林乱伐 もう一つ、アズロで深刻な問題となり始めているのが、森林の伐採だった。村に帰っても仕事がない人々は、中古のトラックを調達し、ノコギリを持って数人で山に出かけていく。太い木を見つけると、手当たり次第に伐採し、トラックに積んでジャララバードやカブール、パキスタンのペシャワールといった都会まで持って行き、現金に変える。これらの都会の国道沿いの郊外には、材木を売買する問屋がいくつも並んでいる。 22年前に戦争が始まる前、アズロの山々はうっそうとした木々におおわれ、遠くから山肌が見えることはなかったという。だが今では、山にはまばらにしか木が生えておらず、ゴルフ場のような状態になっている。 このまま伐採が続けば早晩、山々は丸坊主になってしまうだろう。アズロだけでなく、アフガン東部の山岳地帯のあらゆる場所にトラックが入り込み、どんどん木が切り倒されている。木が減ったため山の保水力が落ち、干ばつに弱く、洪水が起きやすい環境になっている。 アズロの人々は国連に対し、ジャララバードと通じる道路を舗装してほしいと要望しているが、舗装すると伐採した木材を運びやすくなってしまい、ますます乱伐が進むので、砂利道のままにしてあるという。 ケシ栽培や森林乱伐の問題の根幹にあるのは、人々の収入源の少なさである。それを解決するため、国連は、キャンプから帰還した村人に小口のお金を貸し、養鶏や川魚の養殖など新しい産業を興そうとしているが、今のところあまりうまくいっていない。 日本の資金で成り立つ国連の援助を受けて難民キャンプから帰還した後、麻薬の栽培や環境破壊の乱伐に手を染める人々が出現しているわけで、このままでは日本が良くないことに手を貸していることになりかねない。キャンプから帰還した人々の収入確保の道を考えることが必要になっている。
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