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2世指導者たちの中東和平

2003年5月5日   田中 宇

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 中東のシリアとヨルダンの国境を通る人々は、国境の両側で、それぞれ違った父子の2枚ずつの肖像画を見ながら、出入国の手続きをすませることになる。シリア側では2代にわたって独裁的な大統領職の座にあるアサド家の父親と息子、そしてヨルダン側では国王であるハシミテ家の父親と息子である。

 この2つの父子の一族は、出自も国際的な立場も大きく異なるが、非常に似通っている点がある。両家とも、父親がここ数年間に死去し、30歳代の息子があとをついだのだが、いずれも故人である父親の権威を使わないと息子の権威が維持しにくいようだ、ということである。そのため、父親が亡くなってもその肖像画を外さず、横に息子の肖像画を並べて掲げてある。

▼ヨルダンの「特産物」バランス外交

 ヨルダンは、イギリスが第一次大戦後の1923年から46年にかけて、英の信託統治領(植民地)だったパレスチナの西半分を独立させていくかたちで作ったアラブ人の国である。イギリスがヨルダンという国を作ったのは、そうしないとパレスチナ全体がユダヤ人の国イスラエルになってしまうかもしれないからだったと思われる。

 イスラエル建国運動(シオニズム)を手がけていた欧州のユダヤ人たち(シオニスト)は、ユダヤ人の銀行家などが第一次大戦に際してイギリスに資金援助などの協力をする代わりに、大戦末期の1917年に、パレスチナにユダヤ人国家の建設を認める「バルフォア宣言」をイギリスから勝ち取った。

 ところがイギリスは、パレスチナ全域がユダヤ人国家(イスラエル)になって強国になりすぎることをおそれ、第一次大戦が終わると、パレスチナの西半分にヨルダン(当時の国名はトランスヨルダン)を建国した。

 イギリスがヨルダン国王に据えたハシミテ家は、聖地メッカの知事をしていた一族で、一時はイギリスからアラブ全土の支配を約束されたものの、賢く立ち回らなかったため、メッカをサウド家(今のサウジアラビア王家)に奪われて追い出され、代わりにイギリスは、アラブ全土を細かく分断した後の2つの国であるヨルダンとイラクの王家として、ハシミテ家のメンバーを据えた。

 イギリスが据えた最初のヨルダン国王(アブドラ1世)の孫が、1999年に亡くなったフセイン国王で、その息子が今の国王アブドラ(アブドラ2世)である。ヨルダンでは、至るところにフセインとアブドラの肖像画が並べて掲げてある。(最近はアブドラだけの肖像画も多い)

 ユダヤ人国家イスラエルの拡大を阻止したいイギリスによって作られたヨルダンは、その後もイスラエルとアラブ諸国との緩衝地帯として機能し、アラブ諸国の一員でありながら、影に日なたにイスラエルとの和解や結託も模索し、この「バランス外交」こそがヨルダンとハシミテ王家の存在意義となっている。

 初代国王のアブドラ1世は、1948年のイスラエル独立戦争(第一次中東戦争)の際、イスラエル側と密約し、イスラエルに対して形式的な戦闘しかしない代わりに、ヨルダン川西岸をヨルダン領にすることをイスラエルから黙認してもらった。この密約はイスラエルから追い出されて難民となったパレスチナ人の怒りをかい、アブドラ1世は1951年に難民の青年に暗殺されている。ヨルダン王家は、まさに命がけのバランス外交を展開してきた。

 ヨルダンは天然資源もほとんどなく、産業も貧弱だ。そのため親米的な立場をとり続けてアメリカからの支援を受けている一方、イラクのフセイン政権からは石油をほとんど無償で供給してもらっていた。今回のイラク戦争が起きて石油の供給が止まった後は、暫定的にクウェートとサウジアラビアから、石油を期間限定で無償供与してもらっている。いずれも外交の産物だ。輸出するものが少ないヨルダンの「特産品」は「国王によるバランス外交」なのである。

 ヨルダンのバランス外交は、国王が直接にアメリカ、イスラエル、アラブ諸国、国内諸派(ベドウィンやパレスチナ人)などと交渉して保たれているもので、現在のアブドラ国王は、自らの権威を確立するまでの「若葉マーク」として、先代のフセイン国王の肖像画を必要としている。

 イラク戦争を機に、アラブ中の人々の反米感情が高まる中、ヨルダンでも政府(王室)のバランス外交を批判する声が高まった。約500万人のヨルダン国民の6割以上はパレスチナ人で、イスラエルに対する反感も強い。

 イラク戦争後、アメリカのブッシュ政権は、イスラエルに譲歩を迫る内容のパレスチナ和平計画「ロードマップ」をスタートさせたが、この和平が失敗すると、ヨルダンの体制もかなり危険な状態になる。

 もともと「ロードマップ」という呼び名は、昨年6月にホワイトハウスを訪問したヨルダンのアブドラ国王が、ブッシュ大統領に対し「中東和平の道筋を示す地図(road map)が必要です」と語ったのに対し、ブッシュが「わかった。その地図を作ろう」と言ったことから名付けられた、と報じられている。

▼シリアの慎重派アサド

 ヨルダンのハシミテ王家が、大昔からの地元の歴史に正統性を根ざした王家ではなく、80年前にイギリスによって据えられた、いわばイギリスの傀儡としてスタートしたように、シリアのアサド大統領の父子も、大統領といっても複数候補が出馬する選挙によって選ばれたわけではなく、その意味では正統性を欠いている。

(シリアでは大統領に対する信任投票は何回か行われてきたが、常に99%前後の信任を得ており、これがまったく不正のない選挙の結果なのかどうか、疑問がある)

 先代の大統領ハフェズ・アサドは、1967年の第三次中東戦争でシリアがイスラエルに負けてゴラン高原を奪われたことがきっかけで政権に就いた。当時のシリアのバース党は、イスラエルに対して好戦的な態度をとる急進派が握っていたが、中東戦争の敗北により急進派の力が弱まったため、イスラエルとは慎重にことを構えるべきだと主張するアサド(当時国防大臣)は1970年の無血クーデターで急進派を追い出し、大統領に就任した。

 慎重派のアサド大統領は、イスラエルと直接交戦することを避ける一方で、イスラエルとの準戦争状態を利用して国内の治安を強化し、反対派を消していった。アサド家は、シリア北部の山岳地帯の農村出身で、一帯はアラウィ派という少数派のイスラム教徒の地域なのだが、アサド政権は国民の11%しかいないアラウィ派を重用し、特にシリア国内諸都市の治安関係の幹部に、信用のおけるアラウィ派の人々を置き、70%を占めるスンニ派の人々が反政府的な動きをしないよう、監視させてきた。

 これは、イラクのフセイン大統領が出身地であるティクリートの縁者たちを治安関係の要職に就かせたことと似ているが、慎重派のアサドはフセインのような派手な弾圧を好まず、目立たないように治安問題を処理してきた。1979年のイランのイスラム革命後、シリアではスンニ派の過激派イスラム同胞団が、アサド政権のアラウィ派による独裁体制を非難して爆破事件や暴動を起こし、アサドはこれを徹底弾圧したが、目立った弾圧はこのときぐらいである。

▼失われた10年の後の新体制

 ハフェズ・アサド大統領は2000年6月に死去し、後継の大統領に次男のバッシャール・アサドが就任した。(当初後継者に予定されていた長男は何年か前に交通事故で死去し、その後急いで次男に後継者としての教育が施されていた)

 私は数日前にシリアの首都ダマスカスを訪れ、大学の教員、ビジネスマン、主婦という3人のシリア人に話を聞くことができた。彼らは一様にシリアの若い新大統領を評価していた。

 父親のアサドは1980年代から健康状態がすぐれず、最後の10年間はあまり公式の場に姿を現さなくなった。大統領の病気のため公務が滞り、政府が重要な決定を先送りして現状維持を図った結果、1990年代はシリアにとって「失われた10年間」となった。

 こうした停滞の後に出てきた若い新大統領は、現状維持を何よりの政策とする父親時代の側近に囲まれつつも、経済自由化や社会福祉の強化などの新政策を進めた。私が話を聞いたシリア人たちによると、バッシャール・アサド大統領は、公団住宅の新規建設や学校教育の無償化の拡大、携帯電話やインターネットの普及などを進めたため、じゅうぶん評価できるのだという。

 バッシャール新大統領は、国内政治でも少しずつ新機軸を打ち出している。大統領になる直前には、父親から「汚職追放キャンペーン」を任され、前首相を汚職容疑で訴追するなど、クリーンなイメージ作りに努めている。

 また、シリアにはクルド人が約170万人(国民の1割弱)いる。このうちトルコ、イラクとの国境地帯に住む12万人は、1960年代に強制移住させられた上、市民権を剥奪された人も多いが、バッシャールは大統領就任後、クルド人地域をこまめに回り、宥和策を模索している。(関連記事

 とはいうものの、国民の1割しかいないアラウィ派が、7割のスンニ派を統治している現状からすると、潜在的な反政府の感情が存在している可能性も大きい。だからこそシリアでも、新大統領の写真の横に、父親の写真が並べられる必要があるのだろう。

 イラクに米英軍が侵攻しても、抑圧されているはずのイラク人は米英軍の思惑通りには蜂起しなかったように、シリアの人々が今の政府に潜在的な反発を感じていたとしても、それはなかなか表面には出てこない。多くの人々が、不満を抱いても仕方がない、不満を抱くこと自体が現実的なことではないと思っていれば、不満そのものが存在していないように見えることになる。外部の人が「政治的な自由がないから君たちは不幸なはずだ」と言うのは、お門違いな話になる。

▼シリアの隠然外交

 シリアは慎重派のアサド政権が30年間続いたため、外交政策も目立たずにやる方針がとられている。シリアは隣の小国レバノンを事実上支配している。シリア国内にはレバノン大使館が存在しないし、国道の道標も、ヨルダンのアンマンは「ヨルダン」と国名で表記されているのに対し、レバノンのベイルートは外国とみなしていないので「ベイルート」と都市名で表記されている。

 だが、シリアがレバノンを支配していることは、公然の秘密である。シリアはレバノンに対し、隠然とした支配力を持っている。そして、アメリカもそれを黙認してきた。

 レバノンには1980年代にイスラエルが侵攻し、アメリカがそれをバックアップするかたちで1982年のレーガン政権(イスラエル寄りのネオコンが中東政策を取り仕切っていた)にレバノンに侵攻したが、ひどい内戦を巻き起こしてアメリカは1年で撤収し、イスラエルもその後結局撤退した。それと交代に、シリアの影響力が拡大した。アメリカは1991年の湾岸戦争でシリアが米軍に味方してクウェートに兵力を出すのと引き替えに、シリアのレバノン支配には何も言わなくなった。

 シリアは、イラクやイランとの関係も目立たないように強化した。1979年のイランのイスラム革命後、社会主義体制のシリアと宗教政治のイランの関係は悪化したが、イランがレバノンの民兵組織ヒズボラを支援し、それがシリアにとって、イスラエルによるレバノン侵攻に対抗する勢力として必要になった1982年から、シリアとイランの関係は少しずつ好転した。1989年にホメイニ師が死んでイランが現実路線に戻り始めた後、やがてイランはシリアに石油を無償提供する関係にまでなった。

 イラクとの関係は、湾岸戦争でシリアがアメリカ側に味方する前から悪かったが、1997年にイラクが人道援助の名のもとに国連による経済制裁を緩和されると、シリアが衣料品などを輸出し、イラクが石油を輸出するという経済関係の再開を皮切りに、隠然と関係修復に動いた。

 トルコとの関係も、以前はトルコがイスラエルとの関係を重視していたために悪かったが、シリアがかくまっていたトルコの反政府系クルド人指導者アブドラ・オジャランを1998年に追放し、トルコに逮捕させて以来、関係が良くなった。

 シリアは、アメリカがイラク侵攻に傾いた2002年6月には、イラクとトルコに特使を送り、イランを含む4カ国の結合を強めようとした。

 こうした動きは、米軍のイラク侵攻によって中断し、イラク戦争が終わるとアメリカはシリアを非難して敵対を強めた。5月3日にパウエル国務長官がシリアを訪問し、ヒズボラなどイスラエルを攻撃している「テロ組織」への協力を止めるよう、アサド大統領に強く求めた。

 ところがその一方で、4月30日にはトルコの外相がダマスカスを訪問し、シリア、トルコ、イランの3カ国の関係を強化することを確認している。パウエルはその直後にダマスカスを訪問したのに、こうしたシリアの動きに対する批判を公言しなかった。パウエルは「アサド大統領とは、敵対的な話は一切しなかった」と発表した。アメリカは、イスラエルを和平に協力させるためにシリアの譲歩を求めたが、シリアやイランを「次の標的」にすることはなさそうだ。

▼二世指導者たちの試金石

 シリアでもヨルダンでも、イスラエルに対する反感は非常に強い。「ユダヤ人に支配されているので、アメリカは中東のイスラム諸国ばかりを攻撃するのだ」「アメリカは、イラクを潰して分割、弱体化させ、イスラエルを中東随一の強国にしたいのだ」という見方が、人々の間に広く存在している。国民の大半がそう考えているといっても過言ではない。

 アラブ社会全般に、公的なマスコミがイスラエルやアメリカを批判することは、人々の批判が国内政治に向かうことを回避するためのガス抜き策となっている。シリアでもその傾向は強い。だが、エジプトやヨルダンでは、政府は親米で、イスラエルにも妥協して国交を持っている。

 半面、シリアはアメリカと距離を置き、イスラエルとは敵対関係である。父親のアサド政権にとって、イスラエルとの敵対関係を続けることは必須の政策だった。イスラエルとの敵対が解消されてしまうと「国内が分裂するとイスラエルを利するだけだ」といって反政府勢力を弾圧してきた大義名分が失われ、政権の危機に陥るからである。

 だがシリアは、これまでイスラエルを敵視してきた政策を変えるかもしれない。シリアにはパウエル国務長官の訪問前、アメリカの下院議員2人が訪問し、その後この2人はイスラエルを訪問し、アサド大統領からシャロン首相に宛てた、和平協議を呼びかける内容の手紙を手渡している。5月3日のパウエル・アサド会談では、シリアはイスラエルを敵視する組織の事務所を閉鎖すると表明した。

 イスラエルでは冷戦後、ラビン、ネタニヤフ、バラクという3人の首相が、シリアとの関係改善を模索したが、いずれも成し遂げられなかった。1999年にバラク政権が対シリア和平を試みたときは、イスラエルが占領しているゴラン高原のどの線までをシリアに返還するかで折り合いがつかなかった。(関連記事

 イスラエルとの和平に消極的な父親のアサドは、時間をかけて交渉しようとしたが、イスラエル側にはそれだけの時間的な余裕がなく、バラクはパレスチナ問題の交渉決裂によって選挙に敗北し、政権の座を追われた。

 私が会ったダマスカス市民は皆「イスラエルは和平をやろうなどとは思っていない。ブッシュは和平を進めるふりをして、また私たちアラブ人を騙そうとしている」といった考えをしており、中東和平のロードマップについて非常に懐疑的だった。

 私自身、いまだにロードマップが成功するかどうか、疑いを持っている。シリアには30万人、レバノンにも数十万人のパレスチナ難民がおり、彼らの多くは市民権を与えられず「パレスチナ(イスラエル)への帰還」を前提として難民キャンプに住んでいる。イスラエルは彼らの帰還を最後まで許さないと思われ、この問題の解決は非常に難しい。シリアやレバノンは、彼らに市民権を与えて定住させる方向に動くのか。そう考えるのは、現時点ではかなり無理がある。

 だが、今回はシリアの代表は息子のアサドである。イラク戦争後のアメリカは、開戦前にとっていた帝国的な軍国主義から一転し、世界各地で融和的な外交を希求するようになっている。アメリカはインドとパキスタンにも接近を求め、5月3日には両国が国交回復を発表した。こうした流れの中で、シリアとイスラエルの和平交渉も、ロードマップの進展に合わせ、軌道に乗る可能性がある。

 パレスチナ問題を中心とする中東の対立を解くことができれば、シリアのアサドもヨルダンのアブドラも、若葉マークを脱し、父親の時代とまったく違う新しい国際関係を達成した頼もしい指導者として見られるだろう。それは、もう一人の「二世指導者」であるアメリカのブッシュ大統領にとっても同じことである。



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