パレスチナ・アラファト官邸で考える2002年8月26日 田中 宇この記事は「外出禁止令の町」の続きです。 手書き地図を2種類作りました。 外出禁止令の解除は正午からだったが、11時を過ぎたあたりから、すでに通行人や車が街頭に出始め、正午にはすっかり通常の繁華街の賑わいが出現していた。後で訪問したナブルスでも感じたが、パレスチナの人々は、長いこと外出禁止令下で暮らしているせいか、解除されたときの立ち直りが早い。 夕方までの時間を使い、町外れにあるというアラファトの大統領官邸に行ってみることにした。宿の人に聞いた道順に従って15分ほど歩くと、住宅街が切れ、遠くに破壊された建物群の廃墟のようなものが見えてきた。 だが同時に、戦車が走る轟音も聞こえてくる。アラファトは昨年末からイスラエル軍の包囲作戦によって官邸に閉じこめられており、今もイスラエル軍の戦車が官邸を監視しているのだと思われた。これ以上近づいて大丈夫だろうか。 近くの家の前に男性が立っていたので、そのことを尋ねてみた。すると男性は、英語はできなかったものの、アラファトという言葉で私の目的地が分かったらしく「私についてきなさい」という感じで歩き出した。 私たちは5分ほど歩き、廃墟の前までやってきた。300メートル四方ほどの一つの街区の全体が破壊されていたが、その奥に残っている2棟の建物が見えた。それが、BBCやCNNなどで何回も映し出されて見覚えのある、渡り廊下でつながれたアラファトの官邸だった。
先導してくれた男性は、私を受付の兵士に紹介した。兵士は「中庭にマスコミが集まる場所があるから、そこに行くと良い」と言った。 ▼アラファトを守る「国際社会の世論」 官邸の中庭には、8社ほどのテレビ局が、カメラを持ち込んで待機していた。中庭の角に面して官邸の玄関があり、5−6段の階段で中庭に降りるようになっていた。官邸を出入りする要人は、この階段を上り下りするところをテレビに映され、階段を降りたところでテレビカメラに囲まれ、取材を受ける仕掛けになっていた。 間もなくパレスチナ自治政府の幹部と思われる緑色の制服姿の人物が玄関に現れ、テレビカメラに囲まれていた。さらにしばらくすると、イスラエルのアラブ系国会議員と、ドイツのアラブ系(移民出身)の国会議員が、アラファトとの面会を終えて出てきた。 玄関を入った奥にはドラム缶と土嚢が積み上げられ、イスラエル軍が強行突入してくるのを防ごうとする体制が作られていた。中庭の周りは多くの建物が壊され、戦車に潰された自動車が山積みになっていた。だが官邸の入り口だけは、ホワイトハウスや永田町と同じく、玄関を出てきたところで取材を受ける舞台として機能していた。戦場の風景と、政治の風景が入り交じるコントラストが奇妙だった。 この日、中庭にいるテレビ局は、アル・ジャジーラ(カタール)やエジプトのMBCといったアラブ系メディアが中心だった。イスラエルの局はいたものの、欧米の局はいなかったが、カメラマンの一人によると、毎日どこかの社がここに来ており、CNNやBBCもよく来るという。 この光景を見て、私が感じたのは「アラファトはマスコミに守られている」ということだった。マスコミの向こうには「国際社会の世論」があり、それを背景に、欧米の中でイスラエルを牽制したい政治勢力が、アラファトをイスラエル軍の攻撃から守っているのだと思われた。
▼パレスチナ問題とはアメリカ上層部の問題 今年3月以来のイスラエル軍の攻撃により、パレスチナ自治政府の建物群があった300メートル四方ほどの街区のすべてが壊された中で、アラファトが生活・執務する2つの建物だけが、何とか生き残っていた。単に軍事力だけでいえば、イスラエルは残る2つの建物も簡単に破壊し、アラファトを国外追放するか殺すこともできたはずだ。 イスラエルがそれをしなかったのは、欧米、特にアメリカ政府筋から「アラファトに手を出すな」という圧力がかかったからだった。アラブ諸国もイスラエルに抗議していたが、イスラエルは自国より軍事的に弱いアラブ諸国の言うことになど耳も貸さない。イスラエルはアメリカの言うことしか聞かない。 パレスチナでは以前から、全体の支持を得られる指導者がアラファト以外にいない状態が続いてきた。アラファトが消されてしまうと、パレスチナ人社会は統一が維持できなくなり「ハマス」や「アルアクサ殉教団」などイスラム教系の戦闘推進組織が強まり、イスラエルとの戦いも激化する可能性が大きい。 それは「文明の衝突」を現実のものにし、イスラム世界を相手に新しい「冷戦」を始めたいアメリカのラムズフェルド国防長官ら政府主流派(右派、主戦派)にとっては都合がいいが、クリントン時代からの和平の流れを重視するパウエル国務長官ら中道派(和平派)は、中東情勢の現状が崩壊することを望まず、そのためにアラファトを生き延びさせることが不可欠だったのだろう。 その意味では、パレスチナやイラクをめぐる昨今の中東情勢の揺れは「イスラエルとアラブ」とか「イラクと国際社会」の対立などではなく、いずれも「アメリカの右派と中道派の戦い」だということになる。アラファトの官邸がほとんど破壊されつつ、中枢の2棟だけが残ったということは、アメリカ政府中枢で激しい政争が展開され、右派の力が凌駕したものの、中道派は何とか最低限の線だけは守ったということを意味していると思われた。
▼パレスチナで増えたアラファト批判 中道派は「和平重視派」であるが、彼らが平和を愛する人々だとは限らない。むしろパレスチナ人を相対的に強くして、イスラエルとの力関係をバランスさせることで、イスラエルがアメリカに対して従順な状態を続けたい勢力だと思われる。イスラエルが力を持ちすぎることは、アメリカ政界を意のままに動かそうとする力が強まることを意味しているからだ。 中道派がアラファトを支援するのは、必ずしもパレスチナ人のためを思っているわけでもない。パレスチナ社会におけるアラファトの人気は、かなり低くなっているからである。 私は今回の訪問で、機会があるたびにパレスチナ人に「アラファトをどう思うか」と尋ねたが、肯定的な返事はほとんど返ってこなかった。「オスロ合意以来の9年間、アラファトは人々の役に立つことを何もしてこなかった。私腹を肥やしただけだ」「PLOに腐敗した幹部ばかりであることがパレスチナ人の悲劇だ」など、昨年あたりまでは考えられなかったアラファトとPLOに対する赤裸々な批判をあちこちで聞いた。こうした傾向は、欧米の新聞で報じられていたことと一致していた。 以前のパレスチナ人は、かなり親しくなった後で、ようやく「アラファトが私腹を肥やしているのは確かだが、そのことよりイスラエルの人権無視の方が問題だ」と漏らす程度だった。だがアメリカの政権が、中東和平積極推進派のクリントンから、消極派のブッシュに代わった後、アメリカはアラファトや他のPLO幹部の腐敗をおおっぴらに批判するようになり、それに連動して、パレスチナ人の間でもアラファト批判がタブーでなくなった。 今後パレスチナで選挙があった場合、アラファトが当選する可能性が高いが、それはイスラエルやアメリカが「アラファトは指導者としてふさわしくない」と言っていることに対する反発からである。他に人々が支持できる指導者がいないこともある。 どんな思惑に基づくにせよ、欧米の政界中枢部の意志により、アラファトは軟禁状態ながら、官邸内で生き延びていた。イスラエル軍の戦車が官邸の敷地の周りを轟音を立てながら回っていたが、アラファトに手を出すことはできなかった。官邸の周辺で新たな異変が起きれば、アラブや欧米のテレビ局がすぐに報じる体制が作られていた。 ▼出口を求め有刺鉄線に沿って走る 官邸見学を終えた私は、ラマラでの日程をとりあえず終え、エルサレムに戻ることにした。宿で荷物をまとめ、中心街のマナラ広場の近くで乗り合いタクシーを探した。ちょうど1台止まっていたのでカランディアに行くかと尋ねると、客引きは「乗り換えてエルサレムに行けるラファトという別の検問所まで行く」という。カランディア以外の検問所も見てみたいと思い、そのワンボックス型の車に乗り込んだ。 車内にはすでに7人のお客が乗っており、私が乗るとすぐに発車となった。地図を見ると、ラファト(Rafat)という村はラマラの南、エルサレムとの中間あたりにあり、カランディアからは西へ3キロほど離れた場所にある。ここにはラマラとエルサレムを結ぶ道が南北に通っており、乗り合いタクシーはこの道を抜けようとしているに違いない。 ところが走り出して15分、市街地を出て農村風景のゆるやかな細い坂道を下っているときに、対向車の運転手が身を乗り出してきて、乗り合いタクシーの運転手に何か伝えた。この先の道がイスラエル軍によって通行止めになっているらしい。このあたりに土地勘があるらしいお客の一人が運転手に裏道の道順を説明し、車は舗装道をそれ、山肌の細いガタガタ道を走り出した。周りは灌木が生えている荒れ地だった。 500メートルほど行くと、螺旋状の有刺鉄線が行く手を遮られた。これは、イスラエル軍がラマラ市の周りにぐるりと敷設し、ラマラを封鎖している「壁」だった。中心街から半径2−3キロの場所に、いびつな円状に敷設され、検問所を通らずにラマラ市内と外部とを行き来することを不可能にしていた。 乗り合いタクシーは、有刺鉄線の壁に沿って走り続けた。どこかで壁が途切れていることを期待しているようだった。はるか前方に、似たような乗り合いタクシーがばらばらに2台、同じように荒野を走っている。皆、抜け道を探しているに違いない。 先を走っていたタクシーが、引き返してきた。前方の壁の向こうにイスラエル兵がいるので危険だという。私たちの車は角度を変えて走り続けた。 ▼命がけの「裏口」 また1キロほど行くと、数台のタクシーが止まっている平地に着いた。ここから徒歩で林の中を越え、ラファト村方面に出られるという。他のタクシーの乗客も、車を降りていた。私たちも荷物を持ち、車を降りた。全部で15人ほどがかたまって前方の林の方に歩き出した。 すると100メートルも歩かないうちに、誰かが「ユダヤ人がきたぞ」と叫んだ。300メートルほど前方の林の中から、イスラエル兵士が銃を持って飛び出してくるのが見えた。全員がいっせいにきびすを返し、荷物を持ったまま全速力で走り出した。私も走った。運転手たちはタクシーに飛び乗り、私たちを待たずに先に走り出している。
荷物を背負っているので息が切れ、思うように速く走れない。数百メートルほど走ったところで、徐行したタクシーに追いついたので、乗せてもらった。危険な思いをしたが、幸いにもイスラエル兵は発砲せず、銃声は聞こえなかった。私たちが「壁」を越えていかないよう、威嚇しただけのようだった。 乗り合いタクシーの運転手は偶然にも、一昨日に一度、乗せてもらったことがあるアロハシャツの若い男だった。彼は私を見ると驚いて「何で君がこんな危ないところにいるんだ」と英語で尋ねた。私が、このルートでもエルサレムに戻れると言われてタクシーに乗ったと答えると「その運転手はクレイジーだ」と言った。 このあたりは、ラマラの正面玄関にあたるカランディアの検問所を通してもらえなかった市民や、終日外出禁止令でカランディアが閉まっているときに、検問所を通らずにエルサレム方面に出るための「裏口」にあたるのだという。 アロハシャツ氏は「君のような外国人は、パスポートを見せるだけで堂々とカランディアを通れるのだから、こんなところに来る必要はなかったのに」と言う。彼はこの日、エルサレム方面からラマラに戻ってくる人々を乗せようと、待っていたのだそうだ。「これがパレスチナ人の日常だよ。状況は瞬間的に変わるんだ。君は、ジャーナリストとしては短い間に良い経験をしたのかもね」と彼は言った。 彼は前に日本人女性と「ガールフレンド」だったとかで、前回会ったときには「もうかりまっかー」「おっはー」などと、知っている限りの日本語を連発していたが、危険な目に遭った直後に、今回もまたアロハシャツ姿で「おっはー」なとど言い出す彼を見て、ラマラがかつて「ヒッピーの町」と呼ばれていたことを思い出した。彼は私をカランディア検問所まで送ってくれ、お金を出したが受け取ろうとしなかった。
●自作の参考地図 上記の地図に出てくる「A地区」はパレスチナ人が行政権と治安権を持っており、パレスチナ人諸都市の市街地とその周囲。「B地区」は行政権はパレスチナ、治安権はイスラエルが持つ地域。残りの地域(C地区)は、行政も治安もイスラエル軍が行なう。1993年のオスロ合意で確定したが、今はA・B地区にイスラエル軍が侵攻し、A地区はパレスチナ人を閉じ込める「巨大な収容所」と化している。 田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |