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チェチェンをめぐる絶望の三角関係

2000年1月17日   田中 宇

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 この記事は「真の囚人:負けないチェチェン人」の続編です。

 1987年にゴルバチョフがペレストロイカ(政治改革)を始めたとき、チェチェンの人々は、自由な時代の到来を期待して喜んだ。チェチェン人は、自分たちの信仰や生活を脅かすロシアの存在を嫌ったが、ロシア人が自らの体制を改革し、チェチェンに自由を与えるというのなら、別だった。

 チェチェンではペレストロイカの結果、1989年7月には、150年ほど前にロシアに併合されて以来初めて、チェチェン人(ザガイエフ第一書記 Doku Zavgayev)が、共産党によって指導者に任命された。

 そのころのチェチェン人は、今のような強い反ロシアではなかったようで、チェチェンがとなりのイングーシと一緒に「チェチェン・イングーシ共和国」として独立を宣言したのは、ロシア内の自治共和国の中ではかなり遅い、90年11月27日だった。その後、1991年3月6日にソ連全土で行われた住民投票では、チェチェンでの投票者の76%が、ソ連邦の存続に賛成している。

 91年8月、モスクワでクーデターに失敗した共産党が解体された直後、チェチェンでも共産党のザガイエフが、ソ連空軍の将軍だったドダエフ(チェチェン人)のクーデターによって追放された。政権をとったドダエフは、チェチェンを西欧型の自由主義を持った国にすることを目指し、彼が提案したチェチェン憲法は、信仰の自由などがうたわれていた。

▼地元の信仰と対立したイスラム原理主義

 ペレストロイカ後、チェチェンでは200以上のモスクが建設されるなど、信仰の自由化が進んだ。ロシア革命以来初めて、メッカ(サウジアラビア)への巡礼が許され、多くの人々が巡礼に行き始めた。

 オイルダラーで金持ちになったサウジアラビアの財界人たちが、チェチェン人の巡礼資金を支援することも多くなった。中東諸国から、多くのイスラム聖職者がチェチェンに派遣され、聖典コラーン(コーラン)を教える教室が、各地のモスクに併設された。

 だがしばらくすると、中東からの聖職者の流入や、メッカへの巡礼や留学によって中東のイスラムを学んで帰ってきたチェチェン人が増えた結果、地元のスーフィズムの聖職者と衝突し始めた。

 サウジアラビアで主流のイスラム教は「ワッハビズム」と呼ばれ、伝統にのっとった厳格な作法を信仰者に求める。これは、開祖ムハンマド(マホメット)の時代の信仰を維持すべきだと考える「原理主義」的な考え方で、「聖者」などの人間を崇拝することや、歌や踊りを宗教儀式とすることに反対していた。

 チェチェンのスーフィズムには、聖者崇拝や歌や踊りの儀式が不可欠だが、サウジからきたワッハビズムの聖職者は、これらを反イスラム的だと攻撃し、スーフィズムの聖職者と対立した。

▼若者の心を奪った「反ロシア・反西欧」

 ワッハビズムは、西欧諸国が中東に影響力を及ぼし始めた18世紀後半、西欧化への反発から出たイスラム教の原点回帰運動として、アラビア半島で始まった。この運動は、アラビア半島の豪族だったサウド一族の政治力を広げるために使われた。サウド一族はアラビア半島の大半を統一し、1932年にサウジアラビアを建国した。「サウジアラビア」とは「サウド家のアラブ人国家」という意味だ。

 チェチェン人の多くは、新しく入ってきたワッハビズムよりも、伝統的なスーフィズムを好んだ。彼らにとっては、ワッハビズムを持ち込んだアラブ人も、チェチェンの支配を企む外国勢力だったからである。

 だが、若者たちは違った。チェチェンではソ連崩壊後、ソ連時代からの国営企業が次々と閉鎖された。失業率が増え、場所によっては成人の8割が失業していた。暇を持て余す若者は、新しく作られたワッハビズムのモスクに行くようになったが、そこで教えられることは「ロシアや西欧の異教徒(キリスト教徒)によるチェチェン支配を許してはいけない」という、イスラム原理主義の考え方だった。

 仕事もなく、若い力を持て余す青年たちの渇いた心には、この「反ロシア・反西欧」の明確なイスラム信仰が、唯一の希望と思えた。若者たちは、スーフィズムを守旧的な体制派の年寄りの信仰だとして攻撃するとともに、西欧風の国づくりを目指すドダエフ大統領の政策に反発するようになった。

 ワッハビズム勢力は、サウジアラビアのオイルダラーの後ろ盾があったから、資金も潤沢だった。ドダエフ政権の姿勢は、しだいにイスラム色の濃いものにならざるを得なかった。

▼助けてくれなかった「国際社会」

 ワッハビズムのイスラム原理主義勢力は、スーフィズムを排除して自分たちの教えを導入した山村を、当局の力の及ばない事実上の自治区域にし始めた。ワッハビズムが導入された山村では、既存のロシアの法律を破棄し「イスラム法」を導入することが宣言され、それを止めるためにやってきたロシア警察とは、銃撃戦も辞さない構えで対立した。

 このように、チェチェンの山岳地帯がイスラム原理主義の支配地域になっていくことに、ロシアは警戒感を強めた。チェチェンは1992年にロシア連邦への参加を拒否し、それに対する交渉が続いているうちに、チェチェンの反ロシア的なイスラム急進派の力が伸びていった。この傾向に終止符を打つため、ロシア軍は1994年9月、チェチェンに武力侵攻した。

 ロシア軍が侵攻してきたとき、ドダエフ大統領は、欧米に助けを求めた。大国に抑圧されてきた民族の独立を、人権問題として世界中で支援している欧米の「国際社会」は、きっとチェチェンのことも支援し、ロシアを非難してくれると期待した。

 だが「国際社会」を主導するアメリカは、親米政策を貫いていたエリツィン大統領の肩を持った。アメリカがエリツィン政権を敵視して追い詰めれば、エリツィンのライバルである旧共産党勢力が復権する可能性があり、冷戦時代の米ソ対立に逆戻りしかねなかった。欧米はチェチェン紛争をロシアの内政問題とみなし、侵攻を傍観した。

▼アフガニスタンからきたベテラン志願兵

 その一方でイスラム原理主義勢力は、チェチェンに対する支援を強めた。「アフガニー」と呼ばれる、アフガニスタンへ侵攻したソ連軍と戦った経験を持つベテラン志願兵たちが、中東全域からチェチェンにやってきた。

 1979-89年の、ソ連軍とアフガンゲリラとの戦いは、強いイスラム信仰を抱く人々を「武装集団」に育てる最初のきっかけだった。ワッハビズムを広げることでイスラムの中心地メッカを擁する自国の地位を高めたいサウジアラビアと、中央アジアにおけるソ連の南進を食い止めたいアメリカとの思惑が一致した結果、サウジアラビアが中東で志願兵を募り、米軍が軍事訓練を施して、アフガニスタンの戦線に送り込む流れが作られた。

 志願兵「アフガニー」たちは、アフガニスタン戦争が終わった後も、武力を使ってイスラム教を守る「聖戦」に参加することに意義を見出し、ボスニアやカシミール、スーダンなどの、イスラム教徒と異教徒間の戦場に登場した。チェチェンは、彼らの行き先の一つとなった。ハッタブ(Emil Khattab)というヨルダン人の戦闘司令官などが、チェチェンに現れたアフガニーとして知られている。

 アフガニー参戦にかかる軍資金は、2年前にケニヤのアメリカ大使館を爆破したテロの黒幕としてアメリカ当局から目の敵にされているオサマ・ビンラディンなど、サウジアラビアのお金持ちが出している可能性が高い。

▼「天国へ直行」を利用する司令官たち

 アフガニーたちがチェチェンを武力支援し、ロシア軍が撤退した後の1997年になっても、チェチェンの多くの人々はまだ、イスラム原理主義を嫌っているか、敬遠していた。この年、ドダエフ大統領がロシア軍によって殺されたが、その後の大統領選挙で、イスラム急進派のヤンダルビエフ(Zelimkhan Yandarbiyev)が敗れ、ドダエフの政策を引き継いだマスハドフ(Aslan Maskhadov)が当選したことに、それが表れている。

 だが人々の意識とは裏腹に、1996年にロシア軍が撤退し、事実上の自治が確立したチェチェンでは、イスラム原理主義勢力がますます力を増した。チェチェン政府は1997年、旧ソ連の中で唯一、イスラム教を国教と定める宣言を行った。

 この背景には、ロシア軍との戦闘を通じて政治力を増したチェチェン軍の司令官たちが、イスラム原理主義を自らの信条として掲げていたことがあった。「聖戦で死ねば天国へ直行できる」というイスラムの教えは、死に直面する兵士を奮い立たせるもので、戦争を遂行する司令官にとって、原理主義は便利なものだったからである。

 チェチェン軍の最高司令官であるバサエフ(Shamil Basayev)も、ワッハビズムの厳格なイスラム信仰を実践してはいないものの、イスラム原理主義の考え方を戦略的に使っている。

▼隣国に広がる原理主義の戦争

 バサエフ司令官はチェチェンからロシア軍を追い出した後、1999年夏に、イスラム原理主義の勢力を広げるため、東隣のダゲスタン共和国に軍を侵入させた。武勇で知られるチェチェンとは対照的に、ダゲスタンはイスラム学習の熱心さで知られ、北カフカス地方のイスラム教区の中心は、ダゲスタンの首都マハチカラにある。

 ソ連崩壊後、ダゲスタンでもワッハビズムの浸透が進み、イスラム法の導入を宣言してロシア当局と敵対している山村が、60カ所ほどある。バサエフ司令官は、その村々とチェチェンとの連携を強め、ダゲスタンをイスラム共和国としてロシアから独立させようと動いたのだったが、これは再びロシア政府の懸念を強めることとなった。

 チェチェンの住民の大半は単一のチェチェン人だが、ダゲスタンは30以上の民族が混在して住んでいる多民族地域である。多くはイスラム教徒だが、一部の民族がイスラム原理主義勢力の力を借りて独立すれば、他の民族との内戦に陥る可能性がある。こうした懸念からロシア軍は、ダゲスタンに侵入したチェチェン軍を攻撃し、撤退させたが、侵入は何度も繰り返された。

 この緊張状態に加え、チェチェンの「テロリスト退治」によって支持率を上げたいロシア政府の思惑もあって、99年10月、ロシア軍が再びチェチェンに侵攻し、今に続く戦闘となっている。

 チェチェンとダゲスタンの人々の多くは、イスラム原理主義による支配に賛成していないと思われるが、イスラム原理主義勢力もロシア当局も、戦争が激しくなるほど、権力基盤が強化されるため、そのことの犠牲になっている。

 そして今回も、欧米諸国は傍観者に徹している。99年11月の国際会議の席上、アメリカのクリントン大統領が、ロシアのチェチェン侵攻を批判したが、それはイメージアップ作戦に過ぎなかったようで、アメリカ政府はチェチェン問題の仲介することを、明確に否定している。下手に手出しして、コソボの時のように戦闘の泥沼に引き込まれる危険が高まるのは避けたい、と考えているのだろう。

▼カフカス全域に広がりかねない戦争

 もう一つ、ロシアと原理主義との狭間で苦境に陥っているのが、チェチェンの南にあるグルジア共和国である。ここもイスラム教徒が多い国だが、かつてソ連外相を務めたシュワルナゼが大統領となり、西欧化政策を続けてきた。

 だが今秋、チェチェン戦争が始まると、イスラム原理主義勢力がアラブなどからの資金や志願兵の補給を受ける際、グルジアを通るようになり、国内が不安定になってきた。

 ロシアは、グルジアがチェチェン人を支援していると非難し、その疑いを晴らすため、グルジアにあるロシア軍基地を、チェチェン攻撃の基地として使わせろと要求している。反面、イスラム原理主義勢力は、グルジア国内の北側にある二ヶ所の地域に入り込み、原理主義を嫌うグルジア政府からの独立を狙っている。

 もし、グルジア政府がロシア軍の基地使用の要求を飲めば、ロシア寄りとの烙印を原理主義者から押され、反政府テロ活動が展開されかねない。逆にイスラム原理主義に対して譲歩したら、ロシアと敵対することになる。そしてグルジアが戦争に陥れば、カフカス地方全域に、戦禍が及ぶことになる。

 イスラム原理主義とロシア、そして傍観する欧米という、絶望の三角関係の中で、チェチェンやグルジアの人々の苦しみは、今後も続くと予測される。


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    ルモンド・ディプロマティークの日本語訳

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