金融の元祖ユダヤ人2001年2月1日 田中 宇この記事は「パレスチナ見聞録(2)聖地争奪戦 」の続きです。 シェークスピアの「ベニスの商人」に出てくる悪役のユダヤ人シャイロックに象徴されるように、中世ヨーロッパでは多くのユダヤ人が高利貸しを生業としていた。他人に貸した金から利子をとることはキリスト教が禁止していたため、それに手を染めるユダヤ人は欲深い罪人というイメージを持たれていた。 実はユダヤ教においても、利子の徴収は原則として禁じられていた。むしろ、一神教の元祖であるユダヤ教が利子を禁じたから、そこから派生したキリスト教やイスラム教もまた、利子を禁止したというのが、歴史の順番であろう。とはいえ、キリスト教などは利子の徴収を完全に禁じたのに対し、ユダヤ教は例外として異教徒(外国人)から利子をとることは許していた。 そのため11世紀に、バチカンのキリスト教会がユダヤ人をほとんどの職業から追放した後、ユダヤ人にとって数少ない収入源として残ったのが、高利貸し(質屋)や金塊の保管人、両替商(貿易決済業)など、利子を取り扱うことが多い金融業であった。教会という中世ヨーロッパの支配者が、ユダヤ人をそのような立場に追い込んだ理由は、社会の共通の敵を設定することで、自らの権力を安定させるためだったと思われる。(記事「聖地争奪戦:一神教の近親憎悪」参照) だがその後、ヨーロッパでは貿易の活発化や産業革命を経て、経済の中心が農業から工業に移った。国家の主目的は、大資本をかけて大きな工場を作り、製品を大量生産することで巨額の利益を出せる体制を作ることになった。 このような近代化が進展した背景には、政治と宗教を分離した宗教改革があった。中世には、キリスト教会が政治権力や司法権をも握っていたが、プロテスタント運動など宗教改革によって、政治権力や司法権は「国家」を握る国王に移り、その後フランス革命などを経て、国民が力を持つようになった。 ヨーロッパの政教分離は同時に、経済の前提も変えることになった。教会は人々の経済活動に口出しできなくなり、「利子」をとることが悪事ではなくなったのである。ところが、それまで利子が罪悪だっただけに、利子を受け渡ししながら巨額の資金を集め、資本として使うという近代経済の技能は、ほとんどの人々にとって未知のものだった。その技術を持っていたのは、ほかでもないユダヤ人だけであった。 (とはいえ、すべてのユダヤ人が金融業者だったわけではない。中世から近代にかけて、ユダヤ人は東欧に多かったが、彼らのほとんどは職人か行商人、もしくは貧しい農民だった) ▼弾圧から生まれた金融技術 中世には、弾圧を受けたユダヤ人の移住が何回も起きた。11世紀には、十字軍やイスラム帝国分裂の影響で弾圧された中東のユダヤ人が、ベネチア(ベニス)などに移住した。15世紀には、スペインでキリスト教王国がイスラム王国を倒したことにともなってイスラム王国に協力したユダヤ人への弾圧が強まり、ユダヤ人は全員がキリスト教徒に改宗するか追放されるかの選択を迫られ、多くが北アフリカやトルコ、ベネチアなど地中海沿岸の商業都市に移住した。 このような移住は、たとえば以前にスペインの金融業界に属していたユダヤ人金融家が、トルコやベネチアに信頼できる同業者がいるという状況を生んだ。彼らはこの離散状態を生かし、遠い町との貿易決済業にたずさわるようになり、為替技術を発達させた。さらに彼らは、貿易商人から毎月いくらかの積立金を徴収し、船が海賊や遭難の被害にあったときの損失を肩代わりするという保険業や、事業のリスクを多人数で分散する株式や債券の考え方を生み出した。 一方、中世にはユダヤ人だと分かっただけで財産を没収されることがあったので、ユダヤ人にとって自らの名前を書かねばならない記名型の証券は安全ではなかった。そのためユダヤ人の金融業者たちは、無記名の証券(銀行券)を発行・流通させる銀行をヨーロッパ各地で運営していた。この技術は、やがてヨーロッパ諸国が中央銀行を作り、紙幣を発行する際に応用された。 こうしてみると、銀行、為替、保険、証券、債券といった現在の金融業態のすべてに、ユダヤ人は古くからかかわり、金融システムの構築に貢献したことになる。中央銀行や株式市場ができて、ユダヤ人金融業界内部にあった金融システムを国家が肩代わりしてくれることは、地位が不安定なユダヤ人にとっては資産の安全性を確保できる望ましいことだった。 彼らはシステムを囲い込むことをせず、積極的なノウハウの提供を行ったが、それは自分たちのルールを世界に通用させることにつながった。はるか後の現在まで、ユダヤ人の銀行や証券会社が金融市場を牛耳ったり、中央銀行の決定に影響を与えたりできるのは、この「創業者利得」から考えて、歴史的必然であるともいえる。シャイロックに象徴されるベニスの商人とその同僚たちがいなかったら、現在のような金融ビジネスは生まれなかっただろう。 ▼大英帝国とロスチャイルド家 産業振興や、市場獲得のための侵略戦争など、国家の運営に必要な資金を最も上手に調達できるユダヤ人は、ヨーロッパの各国の王室にとって、なくてはならない存在となった。各国政府の中枢に食い込むことは、差別されやすいユダヤ人にとっては安全確保の手段でもあった。 ヨーロッパ各国政府のなかで、最もユダヤ人に寛容なのはイギリスであった。イギリスは政教分離や国家の近代化、産業革命が大陸諸国よりも早く、ユダヤ人を重用することの利益が明確だったからだろう。 各地に分散するコミュニティをつないで、貿易や為替、金融の取引をしていたユダヤ人の技能は、世界各地に設立した植民地を一体運営する「大英帝国」の発展にも役立った。イギリスでは1858年からユダヤ人でも国会議員になれたし、19世紀の後半には、大蔵省や外務省などの官庁に、かなりの数のユダヤ人官僚が在籍していた。 この時代に民間資本家として、イギリスの国家運営に最も影響を及ぼしたユダヤ人は、ロスチャイルド家の人々であった。この一族は、もともとドイツ・フランクフルトのゲットーにいた高利貸しだったが、1793年に始まったナポレオン戦争の後、ヨーロッパで多発するようになった国家間戦争のための資金調達をあちこちの政府から引き受けることで、急速に力をつけた。 一族のうちの一人は1797年、産業革命が始まっていたイギリスに進出し、綿花産業への資本提供やドイツなどへの販路拡大を引き受けて大成功し、イギリス政府に食い込んで資金調達を手伝うようになった。 ロスチャイルド家がたどった歴史の詳細は、よく分かっていない。彼らは他のユダヤ人資本家と同様、自分たちに関する情報が広がって反ユダヤ弾圧に使われることを恐れ、亡くなった家族の日記や手紙、メモなど一切の記録を焼いてしまうような情報管理を行っていたためである。実態が分からないので、仕方なく反ユダヤの人々は「陰謀家」のレッテルを一族に貼り、マイナスのイメージを語り継ぐようになった。 ロスチャイルドは、稼いだ金をふんだんに使って慈善事業を展開することでも知られていた。その事業の一つに、19世紀末に帝政ロシア政府が国内のユダヤ人に対する激しい弾圧を展開し、多くのユダヤ人がロシアを逃げ出したとき、彼らを後に「イスラエル」となるパレスチナに移民させ、資金を出して集団農業を作ったことがある。この事業こそ、イスラエルの建国とパレスチナ問題の発生につながる最初の起源であった。
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