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パレスチナ見聞録(2)聖地争奪戦

2001年1月22日   田中 宇

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 「聖都」エルサレムの聖域の中心は、城壁に囲まれた旧市街の東側にある「神殿の丘」である。高い石垣に囲まれた、長方形の丘になっているこの土地は、ユダヤ教とイスラム教の両方にとって聖地なのだが、イスラム教の聖地は丘の上にあり、ユダヤ教の聖地は丘の地中にあるという、2階建て構造になっている。

 この丘は、イスラエルとパレスチナ、ユダヤ教徒とイスラム教徒との、激しい対立の焦点になっている。その背景には、この丘や、パレスチナ地方のいくつかの場所が、2つの宗教にとって聖地として重なっていることにある。

(西欧諸国が最近の100年間あまりの間に、ユダヤ人を植民地支配の「尖兵」として中東に送り込み、そういう対立構造が仕立てられたという見方もできる)

 神殿の丘を最初に聖地としたのはユダヤ人だった。紀元前1000年ごろ、古代イスラエル王国を統一した王ダビデが、エルサレムを首都と定めた。

 ユダヤ教には、ユダヤ人の最初の祖先アブラハムが「神」に忠誠を試され、命じられるままにモリア山という場所で息子イサクを殺そうとしたが、殺す寸前で神から制止されたという故事があった。

 ダビデは、エルサレムの中心をなす神殿の丘が、この故事が起きたモリア山であると主張し、そこを聖地とした。ダビデ王の息子のソロモン王の代になって、ここに神殿が作られ、アブラハムがイサクを乗せて殺そうとした場所であるとされる岩が、神殿の祭壇になった。(ずっと後代に、この岩を囲んで「岩のドーム」が建造された)

(モリア山はエルサレムではなく、もっと北のナブルス市近郊の山だったと考える人々もいる。またダビデ王が統一した古代イスラエル王国そのものが、今のイスラエルではなくアラビア半島先端のイエメンあたりにあったと考え、ユダヤ人が「ダビデの子孫」として今のイスラエルを建国したのは、場所を間違えているという主張もある。この異論はイスラエル建国に反対するアラブ人側で繰り返され、政治紛争の道具として使われている)

▼地中にある失われた神殿に向かって祈る

 やがて、古代イスラエル王国は2つに分裂した後に滅亡した。神殿は侵攻してきたバビロニア軍に破壊され、ユダヤ人は職人や知識層を中心にバビロニアに連行されて使われた。彼らは50年後にエルサレムに戻ることを許され、再び神殿を作り直した。

 その後ギリシャやローマ帝国の支配下に入ったものの、紀元前1世紀にローマ帝国からこの地域の国王に任命されたユダヤ人のヘロデ王は、ギリシャ・ローマ風の新しい大神殿を建造し、ユダヤ人をローマ帝国に従わせようと図った。

 ところがその後になってローマ帝国の支配に反発するユダヤ人の反乱が2回も起きたため、帝国はヘロデ王の神殿と市街地を破壊して廃墟にしてしまい、多くのユダヤ人がエルサレムから追放されたり奴隷として売られ、2000年近くにわたる国を持たない離散状態に入った。

 紀元3世紀にキリスト教がローマ帝国の国教になると、エルサレム市はキリスト教の発祥地として再建された。ユダヤ人もエルサレムに戻ることを許されたが「キリストを殺した罪人」として扱われ、神殿の丘への立ち入りは禁じられて、ユダヤ教の神殿は廃墟のまま放置された。

 ユダヤ人たちは、神殿の丘の山腹を成している壁面に向かって立ち、神殿が失われたことを嘆きつつ、廃墟として地中に埋まっている神殿に向かって礼拝するようになった。その壁はヘロデ王が建造したものだったため、壁面は「嘆きの壁」として、ユダヤ教の信仰の中心地となった。(神殿の丘の西壁にあたるので「西の壁」とも呼ばれる)

▼キリストの実在を証明するために生存させられたユダヤ人

 人類の歴史上、国を失った民族の多くは、生き残った人々が他の民族に吸収されるかたちで滅亡し、忘れ去られたが、ユダヤ人がそうならず、国のない離散状態の民族として存在し続けた背景には、いくつかの要因が指摘されている。

 一つは、離散した社会を共同体として維持し続けるため、宗教上の教えをあらゆる生活上の規範にまで拡大するとともに、ユダヤ人どうしで職能をみがき、経済的に助け合う体勢を作りあげていったことである。それができたのは、ユダヤ人は以前にもバビロニアへの50年間の捕囚という離散を経験していたため、自分たちの宗教の教典や法律を写本のかたちにして持ち運べるようにするなど、離散への対策に長けていたという背景が考えられる。

 離散状態の社会の方が強みを発揮できる産業が選ばれ、遠隔地間の貿易業や金融(為替)業、情報産業(マスコミ)などが、ユダヤ人の職業となった。また、貴金属やダイヤモンド加工など、土地を必要とせず、技術力がものをいう産業も得意分野となった。

 ユダヤ人が民族として生存し続けたもう一つの理由として考えられるのは、ヨーロッパのキリスト教会との関係である。キリスト教会、特にカトリック教会は、ローマ時代から中世を通じて、イエス・キリストがユダヤ人の政権によって十字架にかけられたことを重視し、ユダヤ人を「キリストを殺した人々」として規定し、抑圧し続けた。

 キリストを殺したユダヤ人が実在していることによって、教会は人々に対し、キリストという人物が本当に存在していたことの証拠を示すことができ、その上に立ってキリストの素晴らしさを人々に説くことができる。その視点に立てば、ユダヤ人を滅亡させることは得策ではなく、むしろ「嫌われ者」として、貧しいまま生存させ続けることが重要だったことになる。(このあたりのことについてはPaul Johnson著「A History of the Jews」などを参照)

 ユダヤ人がローマ帝国に支配されていた紀元前1世紀から紀元後2世紀には、宗教(社会・政治)改革運動がいくつも起きたが、その中の一つに、イエス・キリストが始めた活動があった。当時のヘロデ王政権と、その背後にいたローマ帝国は、キリストによる改革運動を嫌い、彼を十字架にかけて処刑してしまった。その後ユダヤ人社会はローマ帝国に歯向かって自らの国の滅亡を招いたが、キリスト教はその後ローマ帝国内での布教に成功し、ローマの国教となった。

 歴史的には、キリスト教に対するユダヤ人の嫌悪もあったようだ。西暦614年にペルシャ帝国がエルサレムを攻撃し、キリスト教会を破壊してキリスト教徒を多数殺害したが、この攻撃を手引きしたのはユダヤ人勢力であった。629年に東ローマ帝国軍がエルサレムを奪還すると、復讐として今度はユダヤ人たちが殺害される結果となった。638年にイスラム教徒の軍隊がエルサレムを征服し、その後の1300年間にわたるイスラム時代が始まる直前の出来事だった。

▼一神教のコピーか完成版か

 キリスト教がユダヤ教の改革運動として始まり、ユダヤ教の聖典を旧約聖書として位置づけたのと同様、イスラム教もユダヤ教をいろいろと「活用」している。イスラム教は、ユダヤ教とキリスト教という「以前の不完全な一神教」を超越する、いうならばバージョンアップされた「完成された一神教」として登場した。

 イスラム教の聖典であるコーラン(クルアーン)には、旧約聖書の内容が包含されているし、イスラム教ではモハメット(ムハンマド)だけでなく、キリストや、ユダヤ教の預言者であるモーゼも、「神」が人類に送ったメッセージを伝えた預言者であると認めている。その上で、イスラム教のムハンマドが人類にとって最後の預言者であり、彼が神から授かったメッセージ(啓示)が、それ以前の預言者がもたらした啓示に比べて完璧なものだとしている。

 また、ユダヤ人の祖先であるとされるアブラハムは、イスラム教では「最初のイスラム教徒」であるイブラヒムとして登場する。(彼の墓はパレスチナのヘブロン市にあるが、そこは両方の宗教にとって聖地であるため奪い合いが続き、その争いで無数の人々が死んでいる)

 イスラム教徒からすれば、コーランは神がそれまでに人類に与えた啓示を集大成した完成版なので、教えや登場人物がユダヤ教やキリスト教とダブっていても不思議ではないどころか、むしろコーランが神の啓示であることを証明している、ということになる。だが、ユダヤ教徒からすれば「マホメットが私たちの宗教をコピーして作っただけだ」ということになる。

 イスラム教、キリスト教、ユダヤ教という3つの一神教は、同じ「唯一神」に対して別々の名前をつけているだけなので、三者の争いは「地中海一神教」とでも呼ぶべき一つの宗教の宗派争いであるともいえる。三者の争いがことさら残虐で醜く、長引いているのは、近親憎悪の感情が働いていると考えれば、不思議ではない。

 これらの一神教の信者、特にイスラム教徒は、日本人など多神教を信じている人々を蔑む傾向が強いように感じられたが、多神教徒である私の目から見れば逆に、醜い近親憎悪を続けている一神教の方が、尊敬しにくいものに思えた。一神教徒以外の日本人にとっては石油を確保する観点以外では、この争いには関与しない方が賢明だという気もしてくる。(中国などにとっては、武器を売って儲けるという観点もあるだろうが)

▼アブラハムの岩をムハンマドやキリストの岩に転用する

 イスラム教は完成版一神教として登場したため、その聖地もユダヤ教やキリスト教と同じ場所に作られることになった。神殿の丘にある「岩」も神聖なものとされたが、その神聖さに対してイスラム教は、ユダヤ教とは違う由来をつけた。

 コーランの「夜の旅」章に、神がムハンマドを夜間飛行させ、メッカから「至遠の地」(非常に遠い場所)のモスクへと連れていったというくだりがある。コーランには、その至遠の地がどこであるか明示されていないが、後からの解釈により、その場所はエルサレムの神殿の丘であるとされた。丘の中心部の「岩」の上が、ムハンマドが帰途に天に上っていった場所で、岩のくぼみがムハンマドの足跡だという筋書きになった。

 そして、イスラム教徒が638年にエルサレムを支配し始めて50年ほどたった後、神殿の丘の「岩」を囲んで「岩のドーム」が建てられ、その近くに「アルアクサモスク」が建てられた。「アルアクサ」とは、アラビア語で「至遠の地」という意味である。

 またイスラム教はメッカの方角を向いて礼拝をする決まりになっているが、この方角(「キブラ」と呼ばれる)は当初、メッカではなくエルサレムに向いていた。ムハンマドが布教を開始した当初、アラビア半島には多くの多神教徒やユダヤ人が住んでいた。ムハンマドは多神教徒からの攻撃に対抗するため、ユダヤ教徒と手を組もうと試み、ユダヤ教の聖地であるエルサレムの方角に向いて礼拝することにしたが、ユダヤ教徒の協力をあまり得られなかったため、礼拝の向きをメッカの方角に変更した。

 礼拝の方向が変更されたことについてコーランでは、キブラを東にするのも西にするのも神の心に基づくものだから、疑問に思う者は愚かだ、と述べている。だが、この「問答無用」は、イスラム教徒以外には通用しない。ユダヤ人などからみれば、イスラム教が、コーランには明示していない「夜の旅」の目的地を、エルサレムの神殿の丘に指定したこともまた「ユダヤ教の権威を、イスラム教の権威として流用する行為」としてとらえられることになる。

 西暦638年以来、神殿の丘はイスラム教徒が管理する聖地となった。だが、途中で一度、1099年から1291年まで、エルサレムはキリスト教徒の十字軍によって占領され、市街地に住むイスラム教徒とユダヤ教徒のほとんどが殺された。神殿の丘にある「岩」は、今度はキリストが昇天した場所であるとされ、ムハンマドの足跡はキリストの足跡に変更された。岩を取り囲むドームはキリスト教の礼拝所になり、アルアクサモスクは十字軍の王の宮殿に転用された。

 同じ聖地に対し、違う宗教(宗派)の人々が、自分たちに都合の良い「神聖さ」の解釈をして奪い合いを続けてきたことには、外部の者として奇異な驚きを感じざるを得ないが、この聖地争奪戦は「パレスチナ問題」として、今日もまだ世界的な大騒動であり続けている。近代に入っての争奪戦は「シオニズム運動」を通じたユダヤ人の入植とイスラエル建国に始まるのだが、それは改めて書きたい。

(続く)



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