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世界の出稼ぎと移民(1)アフガニスタン

2000年9月4日   田中 宇

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 アフガニスタンの首都カブールから西へ約40キロのところにあるカキジャバ村は、3000メートル級の山々に囲まれた小さな盆地である。谷筋には小麦畑が広がるが、それ以外の場所は砂漠で、岩肌がむき出しの山々を遠景に、見渡す限り小さな灌木しか生えない大地が広がるという、地球離れした光景が展開している。

 車に乗って砂漠を進んでいくと、土の塀で囲まれた家並みがまばらに立ち並ぶ集落があった。ここ1−2年の間にパキスタンの難民キャンプから戻ってきた人々の家であるという。

 カキジャバを取り巻く山々は、ムジャヘディンゲリラの拠点だった。ゲリラは山岳地帯からカキジャバを経由してカブール近郊へと向かうルートで何回もソ連を攻撃した。ソ連はゲリラの通り道であるカキジャバに戦車隊を差し向け、村人たちは難民となり、戦える男たちは山に入ってゲリラに参加した。

 カキジャバ村の砂漠地帯でも、農業を営むことができる。砂漠の平原には水がなくても、山麓の地下には水脈がある。そこから「カレーズ」と呼ばれる地下用水路を掘り、平原まで水を引いて砂漠を耕地に変えるのである。この方法は何百年も前から、アフガニスタンやイランで行われてきた。

 カキジャバ村にはかつて、長さが1キロ前後のカレーズが38本掘られていたが、ソ連の空爆などによってすべて破壊された。その後、村人たちが難民キャンプから戻るようになって、カレーズの修復工事が進められていた。

 私が見せてもらった工事現場では、地下10数メートルのところにカレーズを掘り直していた。数十メートルおきに竪穴を掘り、そこから高さ50センチほどの水路用トンネルを左右に掘り進み、となりの堅抗から伸ばしてきたトンネルとつなげる。すべて手掘りであり、大変な重労働であることが想像できる。

 カキジャバ村には今後、難民キャンプからの帰還者が増える見通しだが、カレーズの復旧工事が遅れており、村からUNHCRに援助の要請が出されていた。私がカキジャバを訪れたのは、支援を決定するためのUNHCRの現地視察に同行したのだった。カレーズを1本掘るのにかかる労賃は1500ドル(約15万円)前後とのことで、この費用をUNHCRが出す方向で話が進んでいた。2000年のアフガニスタンは、30年に一度という大干ばつだったので、帰還者に対する水の確保は特に重視されていた。

写真:カキジャバ村の子供たち

写真:工事中のカレーズの竪穴

▼パキスタン国民になりすまして出稼ぎへ

 村の人々は、カレーズ掘りの技術に自信を持っていた。イランに毎年2−3カ月間、カレーズ掘りの出稼ぎに行く人も多いという。中にはサウジアラビアなどペルシャ湾岸諸国まで井戸掘りの出稼ぎに行く人もいるという。案内してくれた村人は「サウジのやつらは井戸掘りの技術なんて何も持っていない。石油の収入があるから金持ちだが、自分では何もできないんだ」と言って笑った。

 イランでのカレーズ掘りのような出稼ぎは、この村からだけでなくアフガン全土から男たちが行っている。イランへの出稼ぎは季節労働だが、ペルシャ湾岸諸国へは遠いため長期の出稼ぎとなり、いったん行ったら2−3年以上は帰ってこないケースが多い。

 汚職が横行しているパキスタンでは、IDカード(住民登録カード)を「買う」ことができる。役人にお金を渡し、市民として登録してしまうのである。IDカードがあればパキスタン国民としてパスポートをとれるから、難民キャンプでは、パキスタン人になりすましてペルシャ湾岸諸国などに出稼ぎに行く人も多いという。長く戦争が続いているアフガニスタンでは、多くの人々にとって、海外への出稼ぎは最も実入りの良い収入源となっている。

 アフガニスタンにはカキジャバ周辺のような砂漠が多いが、そういった地帯を走ると、ときどき砂漠の真っ只中に家が立っているのを見かけることがある。土の壁に囲まれた、巨大な屋敷である。近くに耕作地もないのに、どうやって生計を立てているのかと思ったら「ああいった屋敷の多くは、家族の誰かが海外に出稼ぎに行っているのです」とUNHCRのラフマッドが教えてくれた。

 砂漠の土地はほとんど無料なので、資材さえあれば巨大な屋敷を作れる。砂漠の中の家は大きく、耕地に囲まれた農村の家は小さいという傾向がみられた。

▼失業増のイランから強制送還

 アフガン人にとっては、難民と出稼ぎは、今やあまり大きな違いがなくなっているようにみえる。特にイランへの出稼ぎはそうだ。1979年にソ連の侵攻を受けた後、700万人のアフガン人がパキスタンとイランに逃げて難民となったが、パキスタンではキャンプを作ってそこだけに住まわせたのに対し、イランではキャンプを設立せず、東部の町マシャドや首都のテヘランなど大都市の中に自由に住んでもらった。

 ソ連の侵攻から1年も経たないうちにイラン・イラク戦争が始まり、戦時体制に入ったイランでは、前線に兵士として男たちを送り込んだため人手不足となった。そのためイラン政府は、労働力の穴埋めにアフガン難民たちを使うことに決め、一般市民と混住させた。イランに住むアフガン難民は、出稼ぎ者とあまり変わらない状況に置かれた。

 ところが今やイランでは、人手不足とは正反対に失業者が増えてしまった。イラクとの戦争に際してイランは人海戦術をとった。戦争の前線では、少年兵に地雷を抱かせてイラク軍の戦車に突っ込ませるようなカミカゼ戦法がとられていたから、国民に多産を奨励して兵士の数を増やす政策を取った。

 1988年にイラクとの戦争が終わるころには、子供の人口比率が急速に大きくなり、彼らはやがて就労年齢に達し、失業中の若者が町にあふれることになった。イラン政府にとって、以前は歓迎したアフガン人労働者たちは、今や余計な存在になってしまった。

 そのためイラン政府は2000年初めから、国内に住むアフガン難民の強制送還を始めた。強制送還は人権侵害にあたるため、アフガニスタンへの帰還を希望する人だけを返すよう、UNHCRがイラン政府と交渉したが、その後も帰還を希望していないアフガン人が帰還希望者としてイラン・アフガン国境に送られてきている。

▼難民になるのも出稼ぎの手法

 アフガニスタン人の中には「難民」という地位を利用して海外へ出稼ぎに行く人々もいる。カブールあたりに住んでいる人でも、ブローカーに6000ドル(約60万円)を払えば、名義は他人だが写真だけ自分のものと貼り替えたタイやロシアのパスポートを買うことができる。

 それを使ってイギリスに入国した後、イギリス政府に対し、偽造パスポートで入国したと正直に言った上で難民の申請を出し、認めてもらえれば、本名に戻って大手を振ってイギリスで働くことができるというわけだった。イギリスを選ぶのは、アフガン人に対する難民認定が寛容だからで、あるアフガン人は「日本は難民認定が厳しいので目的地にならない」と言っていた。

 1998年のデータによると、年間に約1600人のアフガン人がイギリス政府に難民申請したが、申請を却下されてイギリスから出国を命じられたのはわずか65人で、残りのほとんどは4年間かけて審査し、その期間中はイギリスに滞在して良いという決定を受けている。4年間といえば出稼ぎとしてはかなりの長さだし、その間に「所在不明」になってしまうこともできる。

 以上はお金にかなり余裕がある人向きの方法だが、それほどお金がない人でもイギリスに難民申請できる意外な方法があった。今年2月、アフガン国内を飛行中のアリアナ航空(アフガニスタン唯一の航空会社)の旅客機がハイジャックされ、そのまま中央アジアを経てロンドンまで飛んだ後、乗客は開放され、犯人グループ14人は投降した。

 この後、170人の乗客と犯人グループのうち、95人はアフガニスタンへの帰国を望まず、自分たちはアフガニスタンで人権侵害を受けていたとして、イギリス政府に難民申請した。乗客の中には飛行機に乗る用事がなかった人も多く、ハイジャックは乗客の何割かと犯人たちがぐるになったイギリスへの集団亡命である可能性が濃厚となった。

 同種の事件の再発を防ぐため、イギリス政府は犯人とぐるだった可能性がある乗客には出国命令を出したが、アフガニスタンの人権状況を考えて強制退去にはせず、事実上、イギリスに滞在し続けることを黙認する結果となった。

▼傭兵として世界へ

 アフガン人の出稼ぎで、もう一つ特異な分野は「兵士」である。カブール近郊の国道を国連の車で移動していた時、馬に乗った10数人の男たちとすれ違った。そのとき同乗していたUNHCRのラフマッドが「彼らはこれから傭兵としてカシミールに出かける元ムジャヘディンたちだ」と言った。

 びっくりして振り返ったが、特に変わった集団ではなかった。カブール近郊から山岳地帯の裏道を馬で越えてパキスタンの部族地域に入り、そこでパキスタン側のイスラムゲリラ組織と合流し、インド軍と戦っているカシミールの前線まで行く旅程の途中らしい。カシミールのゲリラはパキスタンのISIから資金援助を受けており、そのお金の一部が彼らの懐に入るのだろう。百戦錬磨で命知らずの元ムジャヘディンたちは、パキスタンにとって使える存在であることは間違いない。

 ところで、なぜカシミールに行く傭兵たちだと分かったのだろう。ラフマッドに尋ねたが、はっきりとした答えはなかった。彼もかつてはムジャヘディンの一員で、このあたりを往復していたから、彼らは顔見知りだったのかもしれない。

 アフガン人の傭兵が戦闘に参加しているのはカシミールだけではない。古くは1992年にアフリカ北部のイスラム教国であるソマリアの内戦に米軍が介入した時、元ムジャヘディンが参戦した。彼らは86−87年にアメリカから供給されたスティンガーミサイルを、今度は米軍のヘリコプター目がけて発射したという武勇伝を聞いた。

 アメリカはスティンガーの一部の部品の寿命をわざと短くして、アフガン人に渡してから2−3年しか使えないような仕掛けをほどこしたが、アフガン人はそれを直して使い続けたという。あわてたアメリカ政府は、ムジャヘディンがスティンガーを隠している場所を通報したら報奨金を渡すと布告したが、それで何台回収できたのかは分からない。

 アフガン人はまた92−96年のボスニア紛争では、セルビア人と戦うイスラム教徒を支援して参戦したし、94年から断続的に続いているロシアのチェチェン紛争でも、イスラム教徒のチェチェン人を支援しに出かけている。ムジャヘディンはソ連軍と戦った経験が長い上、チェチェンはアフガンのように山岳地帯なので、技能を発揮できる場となっている。

 これらの参戦に必要な経費は、アラブのイスラム主義組織や、その黒幕であるといわれるサウジアラビアの富豪オサマ・ビンラディンから出ているといわれている。アフガン人義勇兵たちは「イスラム教を守るための戦い」と称しているが、実のところ金を稼ぐための行動という側面が大きい。

 アメリカは99年からアフガニスタンを経済制裁しており、それは一般のアフガン人の生活を苦しくしているが、生活が苦しくなるほど、稼ぎが良い傭兵となる人も増えるわけで、アメリカはむしろ、制裁をやめた方が国際平和に貢献できるのではないか、と考えられる。

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