他の記事を読む

戦争を乗り切ったバグダッドの病院

2003年5月10日  田中 宇

 記事の無料メール配信

【この記事は「8月15日状態のバグダッド」の続きです】

 医学生たちと話した翌朝(5月6日)、学生たちがキャンパスを案内してくれるというので、ムスタンシリヤ大学医学部に行ってみた。

 医学部は、中心街からチグリス川を渡った南の郊外にあり、付属のアルヤルムーク病院(Al-Yarmuk)と同じ敷地だった。この病院は、バグダッドで2番目に大きな総合病院とのことだ。病院の入り口には、米軍の戦車が2台止まり、海兵隊員が病院を出入りする人々をチェックしていた。

 医学部の出入り口は少し離れたところにあり、私が着いた朝9時前は、ちょうど登校時間だった。登校してくる学生たちのうち半分近くは女子で、父親とおぼしき人が運転する自家用車で大学の前まで送ってもらって登校してくる女子学生が何人もいた。スカーフをしていない学生もかなりいて、白衣と教科書を軽く抱えて登校してくる彼女たちの姿は、かなりファッショナブルな感じがした。

 医学部は日本と同様、入学試験が難関で、私が前日に知り合った男子寮の学生たちは、地方の苦学生という感じの若者が多かったが、全体的に見ると医学生には、市民の中でも子供の教育に十分金をかけられるかなり裕福な家庭の子供が多いようにも見受けられた。ただ、イラクは大学まで無償なので、日本のように医学部に入ると巨額の学費がかかるということはないようだ。

 大学は、開戦直前から閉鎖となり、数日前の5月3日土曜日の週明けから再開されたばかりだった(イラクはイスラム教国なので金曜日が休みで、土曜日が一週間が始まる)。終戦直後、大学と隣の付属病院は何回か略奪に遭い、講義棟の中もかなり荒らされていて、まだ授業ができる状態ではなかった。

 この日登校してきたのは、総勢700人の学生のうち100人以下だったが、いくつかある教室のうちの一つでは講義が行われ、教授に率いられた医学生たちが病院の患者を見回るなど、実習も再開されていた。

▼病棟に陣取った秘密警察

 寮に住む学生の一人が、私を大学病院の教授の一人に紹介してくれた。教授は、ICU(集中治療室)のある病棟の責任者だった。彼によると、開戦から約1カ月前、病院にイラク秘密警察(共和国防衛隊?)のメンバーがやってきて、3階建ての病棟の3階部分から患者や職員を追い出して陣取った。

 秘密警察は、病院職員が3階に上がってくることを許さず、何人ぐらいの秘密警察員がいて、そこで何をしていたのか、病院側にはまったく知らされなかった。病院が軍事利用されていることが米軍に察知されて空爆対象にされることを、職員たちは恐れた。たが、この病院は救急患者に対応しているため毎日24時間開けておく必要があり、1−2階部分を使って病院運営が続けられた。

 バグダッド市内に米軍が入ってきた4月6−7日には、米軍戦車が病院の3階部分に対して砲撃を加え、2発が着弾し、3階部分に穴が開いた。米軍は、イラク側の無線交信などから、3階に部隊がいることを察知したらしいが、秘密警察のメンバーたちは、直前に逃げ出して被害を免れた。米軍の砲撃は、北と東に面した3階の真ん中だけを破壊し、2階には被害が出ていない。米軍の精密誘導兵器の性能がうかがえる。

 砲撃を受け、職員は患者たちを屋外の空き地に避難させた。砲撃で自家発電装置も破壊されたため、病院は完全に停電してしまい、集中治療室に不可欠な人工呼吸器などが止まってしまった。これによって、何人かの患者が死亡した。市内への米軍侵攻で発生したけが人を運んでいた病院の救急車も撃たれ、患者と救急隊員らが亡くなった。

▼クルドからも届いた援助物資

 米軍の攻撃が止んだ後、病院を襲ったのは略奪者の群だった。フセイン政権の崩壊から約2週間、電気も止まってしまった病院からは、患者と職員のほとんどが避難して去っていたが、この間に略奪者の集団が何回か病院を襲い、特に1階の集中治療室などにある高価な医療器具を持ち去った。各病室についているエアコンも、いくつも持ち去られた。

 2週間の閉鎖期間を経て、病院が再開されたのは4月20日ごろだった。略奪者の再来を防ぐため、米軍に依頼して戦車を2台派遣してもらった。最初の週は外来患者だけを受け付け、次の週からは入院の受け入れも再開された。

 私が病院を見学したときには、まだ8人部屋の病室に2−3人がいる程度だったが、略奪されてがらんとしている事務室から職員や医者が忙しく出入りしたりして、病院の機能は回復し始めていた。砲撃で破壊された3階部分の修復も進んでおり、すでに瓦礫は取り除かれ、外壁のレンガも積まれ、内装の復旧に取りかかっていた。

 病院が運営を再開して間もなく、各方面からの支援もやってきた。最初に相次いで到着したのは、シーア派の聖地ナジャフと、戦禍をまったく免れた北部のクルド人地区からやってきた、食糧や水を満載したトラックだった。

 ナジャフには、シーア派の総本山である宗教学院がある。イスラム教は、政治も宗教の中に包含しているため、この宗教学院は、戦後のイラクの一つの政治的中心になり始めていた。そこからイラク各地の病院などに支援物資を積んだトラックが送り出された。

 意外だったのは、病院にはクルド人からの支援も届いたということだった。クルド人勢力は主に、クルド民主党(KDP)とクルド愛国同盟(PUK)という2つの組織に分かれているが、この2つは両方とも、アルヤルムーク病院だけでなく、イラク各地に食糧支援のトラックを送ったという。

 クルド人は、それまでイラクからの分離独立を目指していたはずなので、フセイン政権がなくなった以上、もうイラクの他地域のことなど考えず、勝手に独立宣言するのかと思っていた。ところが、前回の記事にも書いたように、クルド人はむしろイラクの他地域と共存する道を選び始めた。

 クルド人地域は、数年前からフセイン政権と合意を結び、事実上の自治権を与えられていた。今回の戦争に際しては、北隣のトルコが米地上軍の通行を許可しなかったので、クルド人地域では戦闘がまったく行われず、バグダッドやイラク南部のよりも、ずっと物資が豊富な状態を維持していた。それで、イラクの他地域に物資を送って恩を売る戦略が可能になった。

▼「医者は足りている」

 国内諸派からの支援の到着に続き、外国からの支援も届いた。フランスやEUから派遣されてきた医療専門のNGOが病院内に拠点を置き、病棟の入り口には、それらのNGOのステッカーがいくつも貼られていた。私は当初それを見て、さすが欧州の援助団体は動きが早いと感心したが、教授の話では、欧州だけでなく、韓国などのNGOもやってきているという。

 欧州のNGOは、単に自己顕示欲が強いのでステッカーなどを用意周到にしているだけらしかった。そういえば、以前訪れたアフガニスタンでも、欧州のNGOは、自分たちが支援を手がけた建物などに、大きく自組織の名前を彫り込んで残していた。アフガニスタンでは、日本からの支援が他国を抜いて1位だったものの、欧州勢の方がずっと目立っていた。

 だが、アフガン人は日本からの援助のことをよく知っており、私は、日本人は欧州勢のように自己顕示欲に駆られる必要はなく、謙虚にやっていれば良いのだと思ったことがある。

 韓国のNGOは医者を派遣してきたとのことで、私が廊下に立っていたら「韓国のお医者さんですか」と尋ねられたりした。韓国は、三星などの企業がイラクに家電製品や自動車を以前から売り込んでおり、米軍の侵攻にも協力して韓国軍は派兵を申し出た。今後のことを考えて、今またNGOが来ているのかもしれないと思われた。

 とはいうものの、私が会った教授によると、医者を派遣してこられるのは意味がないという。「うちの大学には、たくさんの医者がいる。医者は十分に足りている。足りないのは、設備や物資の方だ。人的支援の場合は、医者ではなく看護師が不足している」と教授は言っていた。イラクでは家族による看護の伝統が根強いのと、女性が看護師になることを好まない傾向があるため、看護学校が一校しかなく、看護師が足りないのだという。

 よく言われることだが、イラクの人々は、教育水準の高さではアラブ随一である。湾岸戦争まで、イラクは石油収入を教育に回し、しかも社会主義だったので男女平等に高等教育をほどこし、海外留学経験者も非常に多かった。湾岸戦争後、世界から敵視されて海外留学も行けなくなったが、私が会った医学生たちは、自分たちの教育水準には自信を持っており、教授が「医者は足りている」と誇りを持って語るだけのことはありそうだった。

 私はバグダッドで、よく「わが国はアフガニスタンとは違う」という主張を聞いた。これはつまり「アフガニスタンと同じようにイラクも医者が足りないのだろう、といったような思い込みをしないでほしい」という、世界の援助関係者に対する警告なのだった。

▼フセイン側近の復職に反対する医者たち

 今、病院の職員たちが問題にしているのは、フセイン大統領の側近でバース党から派遣されていた保健省の副大臣が、そのまま副大臣に居座りそうなことだという。

 戦争の終わりにイラク政府は消滅し、病院の上位機関である保健省もなくなった。アルジェナビ(Al-Jenabi)という名前の保健省副大臣も、故郷の村に逃げ帰って隠れていた。だが、この村にやってきてアルジェナビを捕まえた米軍は、彼をそのまま保健省の副大臣に戻すことを決めた。

 副大臣は、保健大臣の言動や保健省内の動きを監視し、おかしな動きがあればフセイン大統領に密告するために、保健省に送り込まれてきた問題の人物である。医療関係者の間では、この人物に対する嫌悪感が非常に強い。米軍が、この副大臣をわざわざ探し出してもとの地位に就けることには、反対の声が大きい。

 教授は「アルジェナビは保健省の裏側を知っていたはずだから、アメリカは一時的に彼を使いたいだけかもしれない。しかし反フセイン陣営にも、保健省のことに詳しい医者で政治活動をしている人がたくさんいるのだから、その中から副大臣を選ぶべきで、わざわざフセインの側近を復職させる理由が分からない」と言っていた。

 私が教授に会った翌日には、アルジェナビを副大臣に復活させることに反対する500人程度の規模の医療関係者の集会が、パレスチナホテルの前で行われた。市内中心地にあるパレスチナホテルには、世界からマスコミが集まって宿泊している。ホテルの前で抗議集会をやり、英米などのマスコミでこの問題を取り上げてもらい、副大臣を復職させる米軍の決定をくつがえそうという戦略だった。



田中宇の国際ニュース解説・メインページへ