「原理主義」に疲れたイランの人々1999年4月23日 田中 宇 | |
●この記事は「イラン:革命を知らない子供たち」の続編です。 1983年から84年にかけて、大学生だった筆者は、休学して1年間の世界一周の貧乏旅行をした。なるべく飛行機を使わずに、北米・中米からヨーロッパを通ってアジアに向かったのだが、訪問した国の中にイランがあった。トルコから鉄道とバスを乗り継いでイランに入り、10日ほど滞在した後、パキスタンに抜けた。 当時イランは、イラクと戦争中だった。テヘランで筆者が泊まっていたのは、街で唯一の安宿といわれていた「アミルカビール」であったが、部屋のいくつかは、しばらく前のイラク空軍の空爆で、天井に大きな穴があき、青空が見える状態だった。 (そのころ、欧米の多くの国は事実上、イラクの側についていたので、欧米人の格安旅行者たちは、イランのビザをもらうことが非常に難しかった。先進国の中では、日本だけがほとんど唯一、イランとの友好関係を維持しており、日本人はノービザで入国できたため、そのとき十数人いた安宿滞在者のほとんどは、日本人だった。インドからヨーロッパへ、またはその逆の方向に、長旅をしている人ばかりだった) 街を歩く女性たちは、上から下まで黒いチャドルで体を覆っており、5年前に起きたイスラム革命以降、厳しいイスラム教の規制が、社会にかけられていることが感じられた。 とはいえ、こんなこともあった。筆者がイランにいたときは、ちょうどラマダン(断食月)の最中で、イランの大多数を占めるイスラム教徒は、夜明けから日没まで、食事をすることができなかった。 異教徒である筆者ら日本人は、昼に食事をしてもいいのだが、近くのレストランに行って、外から見えないようにカーテンがぴったり閉められている奥の部屋で食べる、というスタイルだった。ところが宿に出入りしている地元のイラン人青年の中には、日本人旅行者と一緒についてきて、食事をする人が何人かいた。 イスラム教では、旅行中の人や妊娠中の女性は、ラマダン中でも断食しなくても良いことになっているのだが、旅行中の日本人を「案内」して一緒に旅行しているガイドだ、と言って、昼食をとっていたようだ。 またテヘランには、古い歴史を持つ大きなバザール(総合市場)があるのだが、そこに行くと、敵国であるはずの欧米から入ってきた製品が多く並び、密輸品であることをうかがわせた。また、店の奥に行くと、公定両替率の5-6倍の闇レートで、米ドルをイランのお金(リアル)に両替してくれるところもあった。 ●広大な戦死者の墓地に迷い込む ある日、筆者は一人で市内バスに乗って、郊外の観光名所に行こうとしたのだが、バスを乗り間違えてしまった。(表記がすべてペルシャ語で、英語を話せる人もほとんどおらず、路線図もないので、公共交通を使って独力で移動することは、とても難しかった) 仕方がないので、間違いに気づいた後も、ずっとそのまま乗っていくと、バスは終点についたらしく、真っ黒なチャドルの女性や子供たちが目立つ乗客集団が、ゾロゾロとバスから降りた。筆者も降りてみると、そこは広大な霊園であった。 小さく簡素な墓碑が見渡す限りの土地を埋め、乗客たちは、その中に分け入り、それぞれのゆかりの人のお墓に散らばっていった。どうやら、ここはイラクとの戦争で死んだ兵士らのための、巨大な墓地であるようだった。 バスはほかにも何台か到着していたが、乗客の多くは、黒いチャドルの女性たちだった。もう15年も前のことなので、筆者の記憶も定かではないのだが、拡声器から大音量で聖職者らしい男の強い口調の演説が流れ、その音は墓地全体に行き渡っていた。 墓地には日陰がほとんどなく、午後の強い日差しの中、黒いチャドルの女性たちが墓碑の前にしゃがんで、持参したお供えのようなものを袋から出して置いている姿が、悲痛な光景として、筆者の脳裏に焼き付いている。 欧米仕込みの近代兵器を持っていたイラクに比べ、イランの武器は貧弱だった。そのためイラクが敷設した地雷原を突破するのに、若い少年志願兵に手をつながせ、一直線に並んで歩かせて、その後ろをゆっくりと戦車が進む、という戦略もとった。運悪く地雷を踏んだ兵士は吹き飛ばされてしまうが、人命より戦車の方が大切なのであった。 そして、こうした戦略の後ろに、政府が多産を奨励し、どんどん「兵士」を作り出すという「人海戦術」があった。そして、戦死した兵士が英雄として埋葬される広大な墓地のひとつに、バスを乗り間違えた筆者が迷い込んだ、ということらしかった。 ●刺身のツマの対立候補が圧勝 イラン・イラク戦争は1988年に終わり、89年には革命の父、ホメイニ師が死去した。だが、これらのことは、イランの体制を、いっそうイスラム原理主義色の濃いものにすることにつながっていった。 戦争中に、国家の団結力を強めるという名目で、「穏健派」をおさえて権力を広げた原理主義派は、戦後、しだいに体制への不満を強める人々を、強く弾圧していった。 1994年には、言論の自由を求めて作家協会を結成した134人の作家のうち、5人が「謎の死」を遂げた。翌年には、近くのアルメニアで行われた国際詩人大会に出席するために、詩人30人が乗ったバスの運転手が、運転中に突然、窓から飛び降り、バスをそのまま山道から転落させようとした、という陰謀めいた事件も起きている。(近くにいた乗客がとっさにハンドルを握り、転落を回避した) 一方、町では宗教警察の男たちがパトロールを続け、レストランで楽しそうに歓談している人々や、街中で仲良くしている男女を取り締まった。イラクとの戦争後も続いた欧米からの経済封鎖で、バザールの密輸品の値段は上がり、権力のある聖職者と特別なつながりを持つ長老格の商人だけが、儲けられるようになった。 若者が企業家精神を発揮してバザールで商売を展開しようとすると、長老たちがイスラムの名の元にそれを潰し、自分たちの利権を守ろうとする・・・そんな構図ができていった。 人々の不満の高まりは、1997年の大統領選挙で明確になる。権力を握っていたイスラム原理主義者の勢力が押し立てた候補が破れ、「民主主義」の名目のためだけに、刺身のツマのような対立候補として立った穏健派のハタミ師が当選した。投票率90%の中で、得票率70%という圧勝だった。 イランの大統領は、他国と異なり、最高権力者ではない。軍、警察、司法、外交といった国政の中枢は、宗教上の権力者である原理主義者のハメネイ師が握っている。だがハタミ師は圧倒的な人気を背景に、少しずつ原理主義派の力を奪っていった。 もともとホメイニ師が掲げたイスラム革命の理念は、「イスラム政治」と「民主主義」とをバランスさせるものだった。だからイスラム聖職者の中にも、「民主主義を認めない原理主義者より、民主主義を認めるハタミ師の方が、イスラム革命に対して忠実だ」と主張する人も現れた。 ●2月の選挙に向け対決姿勢 こうした中、両派の対決の一つの頂点となったのが、今年2月末に行われた地方議会選挙だった。選挙に先駆けて、昨年9月ごろから対決姿勢が強まっていった。 「悪魔の詩」という本を書いた作家、サルマン・ラシディ氏は、イスラム教を冒涜しているとして、1989年にホメイニ師から「死刑宣告」を受けて以来、イギリスなどに隠れ住んでいるのだが、このラシディ問題について、ハタミ大統領は昨年9月、死刑は実行しない、と宣言した。だがしばらくすると、最高指導者のハメネイ師が「死刑宣告は有効である」と再宣言し、両派の齟齬が明らかになった。 さらに10月には、イランのイスラム教の最高意思決定機関である「専門家会議」の選挙が行われたが、穏健派候補の多くは、立候補前の事前審査で不適格とされてしまった。選挙は投票率が低く、「棄権は神への反逆だ」と原理主義者が叫んでも、効果は少なかった。 さらに11月には、民主活動を続ける有名な作家夫妻が、自宅で何者かに殺害された。10月から12月にかけて、ほかにも何人かの民主活動家が殺されたり、行方不明になったりした。原理主義派は「アメリカかイスラエルの犯行だ」と発表したが、ハタミ大統領はそれを否定した。 以前なら、闇に葬られていただろう、これらの事件は、昨年以来20-30紙が新たに創刊された新聞各紙が、いっせいに調査報道を展開し、政府として真相を究明しなければすまない状況となった。 捜査を進めた公安機関である情報省の内部でも暗闘が続いたが、今年1月、情報省は、自分の組織内の犯行であったと発表し、2人の職員を逮捕した。 マスコミの中には、職員の単独犯行ではなく、情報省の上部、さらには情報省を管轄しているイスラム原理主義派の聖職者たちの関与を問題にする向きもあったが、ハタミ大統領は、そこまでは動かなかった。下手に捜査を上部に拡大すれば、ハタミ大統領自身がハメネイ師ら原理主義派の反撃によって、失脚させられるかもしれないからであった。 また昨年11月には、アメリカからビジネス開拓のためにやってきた実業家たちが乗ったバスが、テヘラン市内を移動中に、宗教警察系の青年部隊に襲われるという事件もあった。 これは、アメリカとの関係を回復させるため、アメリカの実業家にイランでビジネスをしてもらおうという意図で、ハタミ政権が在米イラン人協会を通じて呼んだものだった。原理主義派は、自分の系統の新聞に「CIAのスパイがテヘランにやってきた」と書かせて、襲撃を誘発した、というのが真相らしい。 ●ネクタイは自由のシンボル こうした対立構造の中で行われた2月の地方選挙の結果は、ハタミ派の圧勝であった。首都テヘランの市議会議員選挙は、15議席中、ハタミ派が12、無党派が3で、原理主義派はゼロになってしまった。(無党派は、俳優やスポーツ選手が政治家に転じた人々) また第2の都市イスファハンでも、11議席のうち7つをハタミ派が獲得した。テヘランでは、ネクタイ姿やサングラスをかけた顔写真を選挙ポスターにした候補者もいた。以前なら、こうしたいでたちは欧米文明に毒されているとして、激しく非難されたが、ハタミ政権の2年間にタブーではなくなった。今やネクタイやサングラスは、自由や豊かさのシンボルとみられている。 このように、昨年秋から強まった、原理主義派と穏健派の対決は、2月の選挙によって、穏健派の勝利が明らかになりつつある。 今やテヘランは、中東の大都市の中では、かなり自由な雰囲気を持った町になっている。カップルで歩いていても、咎められることはないし、言論の自由も広がっている。 テヘラン郊外にあるスキー場では、一昨年の冬あたりから、若い男女がスキーウエアを着てすべる光景が見られるようになった。スキーウェアとはいえ、ずんどうのチャドルに比べれば、からだの線が見えるとあって、若い男たちの間では、女の子を眺めたければスキー場に行け、といわれているという。 イランでは来年、国会議員選挙が予定されている。それまでに再び、原理主義派の反撃があるかもしれない。だがもはや、イランの人々の意思は、穏健派支持ではっきりしており、ハメネイ師らが強権を発動すれば、人々の激しい怒りをかうことになるだろう。
関連サイトイランの男性と結婚した、あやにょさんのサイト。体験に基づく国際結婚についてのコラム集や、「ペルシャ語発音講座」など。
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