パレスチナ・外出禁止令の町2002年8月19日 田中 宇この記事は「パレスチナの検問所に並ぶ」の続きです。 パレスチナの中心都市の一つラマラは、丘の上にある町だ。「ラマラ」という名前自体が「神の丘」という意味である。標高約900メートルの高原にあるこの町は、かつては避暑地として人気があり、1948年から1967年までヨルダンがこの地域を統治していた時代には、夏にはヨルダン人たちで賑わっていた。(関連記事) この地域は、直射日光は日本よりかなり強いが、乾燥しているので日陰は気持ちよく、夜は温度が下がって冷房も要らない。その点では、極度に蒸し暑い東京などより、ずっと過ごしやすい。 人口6万人のこの町は、イスラム教徒とキリスト教徒(主に正教会系)がだいたい半分ずつを占めている。イスラエルの建国によってイスラム教徒のパレスチナ人難民がこの町の周辺に難民キャンプを作って住むようになるまで、ラマラの人口の大半がキリスト教徒だった。 パレスチナ全体では、イスラム教徒が圧倒的多数を占めており、ラマラのような人口構成は珍しい。キリスト教は、イスラム教より生活風習における個人の自由度が高いため、ラマラの人々はファッションや音楽などの流行にも敏感で、ラマラを「西岸随一のヒッピーの町」と呼ぶパレスチナ人もいると聞いた。2年前に和平合意が崩れるまで、イスラエル人もラマラのレストランに食事しに来ていたという。 ラマラには大統領府(アラファト官邸)がある。「平和になってみんなで儲けよう」という趣旨のオスロ合意体制が生きていたころは、証券取引所も機能していた。西岸の首都としての風格があった。だが今は、イスラエルの再占領下にあり、毎晩外出禁止令が続き、レストランもほとんど閉まっている。 ラマラは「神の丘」だけあって、坂が多い。カランディア検問所を出た乗り合いタクシーは、ゆるやかな長い坂を登り続け、中心街に入った。 乗り合いタクシーで、英語が流暢な若者と乗り合わせた。両親がラマラ出身でアメリカ国籍を取得してシカゴに住んでいるが、彼自身はパレスチナが発展すると思い、3年前にラマラに戻ってきたのだという。しかし、彼がラマラに住み出して間もなく、和平は崩壊し、今では連日の外出禁止令である。「もう、うんざりだ。9月にはシカゴに帰る」と彼は言っていた。 中心街の近くで乗り合いタクシーを降り、その近くにある家族経営の小さなホテル(Al-Wehdeh)に宿をとった。ラマラの町は、マナラ広場を中心に放射状に道が広がっているが、その周辺の商店街は、去年来たときと同じように賑わっていた。とはいえ、宿の人に聞くと、昨夜は市内で爆破があり、その前の日は銃撃で人が死んだという。 ▼意外に破壊されていないラマラ市内 ラマラをはじめとする西岸の町々は、1967年の第三次中東戦争でイスラエルがヨルダンから奪い、イスラエル占領地となったが、1993年のオスロ合意以来、パレスチナ自治政府による自治が行われており、イスラエル軍は侵入を許されない「A地区」となった。 (A地区はパレスチナ人が行政権と治安権を持っており、パレスチナ人諸都市の市街地とその周囲。B地区は行政権はパレスチナ、治安権はイスラエルが持つ地域で、パレスチナ人の村が点在する地域。C地区は行政も治安もイスラエルが行なう地域で、幹線道路沿い、イスラエル入植地周辺、砂漠など) だが、2000年秋にオスロ合意体制が崩壊し、2001年秋にアメリカが「テロ戦争」を始めてからは、イスラエル軍の弾圧名目に「テロ掃討」が加わり、パレスチナ人の自爆攻撃を取り締まるとして、西岸の町々のA地区内に次々と戦車部隊で侵攻し「再占領」した。ラマラは3月に再占領され、6月下旬からはずっと夜間外出禁止令が敷かれている。 こうした経緯をみる限りでは、ラマラの町は廃墟のようになっていると思われがちだが、中心街の周りを歩いている限りでは、そうではなかった。いくつかの建物に銃弾が残り、10階建てぐらいの建物は、上層階に穴が開き、ガラスが壊されているものもあった。中心街から放射状に伸びた何本かの道路は、途中でイスラエル軍が作った土砂の山に阻まれ、車が行き交えない状態となっていた。 だが、ほとんどの建物は傷ついていなかった(建物があまり壊されていないのは、後で訪れたナブルスも同様だった)。封鎖された道路も、土砂を取り除けば、また通行可能に戻せそうだった。問題は、イスラエル軍のジープや戦車が定期的に市内を回っている限り、修理してもまた壊されることだった。 イスラエル軍が破壊し尽くした建物の一つは、中心街の近くにある警察署で、昨年1月に前回ラマラに来たときに、すでに廃墟になっており、今回訪れたときには、もう更地になっていた。町外れにあるアラファトの官邸も今年3月に壊された。 イスラエル軍は、行政関係の建物を壊すことで、パレスチナ人による国家建設や自治を物理的に不可能にし、欧州や日本などのパレスチナ国家建設を支援してきた勢力に対して「イスラエルが破壊するので支援しても無駄だ」という思いを抱かせている。 ▼外出禁止令の路上で遊ぶ子供たち 外出禁止令が始まる午後6時が近づくと、繁華街の店じまいが始まった。だが6時をすぎても、まだ中心街はけっこう人通りがあった。車も走っている。私の宿は、町の中心のマナラ広場から200メートルぐらいのところにあるので、宿に戻って屋上から中心街の方を眺めていた。ときどき遠くから銃声が聞こえる。 7時ごろになるとようやく、宿の前の道から車の姿が消えた。イスラエル軍からの告知などは何もなく、静かに外出禁止状態に入った。だが路上では、消えた車に代わって、子供たちが自転車を乗り回したり、ボール投げをして遊び始めた。町にはしばらくイスラエル軍の気配はなかったが、7時をすぎたころ、軍のジープが通りすぎた。ジープが通る1分前まで、子供が遊んでいた。瞬間的に家に入ったのだろう。 午後8時前、暮れなずむ薄明かりの中、宿の前の道を戦車が1台、轟音とともに通り過ぎた。このときも、直前まで遊んでいた子供たちが上手に逃げたのが、屋上から眺めていて印象的だった。 宿の前の道は、その後もときどき通る車はあったが、クラクションを鳴らしたりして猛スピードで過ぎ去っていた。やむを得ない事情で外出禁止令後に走らねばならず、イスラエル軍に見つからないうちに目的地に着こうと全力で運転しているのだろう。1時間に一回ほど、救急車も通った。サイレンを鳴らさず、急病人がいたら運び出そうと、巡回しているようだった。 そのうちに、マナラ広場で誰かがたき火を始めた。数分後、軍のジープが何台か「パウパウパウ」という大きな電子音を発して警告しながらやってくるとともに、広場にいる人々は見えなくなった。逃げたようだ。ささやかな抵抗だったのかもしれない。ジープから消火剤がまかれ、また町は静かになった。あたりは夕暮れに包まれ出した。屋上は風が気持ちよい。しだいに風が強くなってきた。 ▼凧のナショナリズム 宿に泊まっているカップルの客が、私がいる屋上に上がってきてタバコを吸い始めた。エルサレムからラマラに、ビジネスをしにきたパレスチナ人だという。英語で挨拶してきたので、私が「まだラマラでビジネスができるんですか」と聞くと、皮肉だと思ったらしく、苦笑いしながら男性の方が「何とかね」と答えた。カランディア検問所の話になり「日本にもああいう検問所があるかね」と聞いてきた。私が尋ねた皮肉への返答らしかった。 夕空には、凧がいくつも揚がり始めた。遠くでも近くでも揚げている。あちこちの建物の屋上で、大人や子供が糸を操っているのが見える。凧の模様は遠目でよく分からないが、パレスチナ国旗をあしらったものがいくつかあった。ささやかにナショナリズムを主張しているようだ。 オスロ合意が始まった1993年ごろと、それが崩壊した今を比べ、最も違っているのが、人々のパレスチナ建国に対するナショナリズム意識が非常に強まったことだろう。西岸やガザのどの町に行っても、いたる所にパレスチナ国旗が掲げてある。イスラエルが自治政府の施設を全壊させ、パレスチナ警察の職員たちを射殺しても、パレスチナ人のナショナリズムはもう消えそうもない。国家建設が実現しない限り、人々は満足しないということだ。 イスラエル側もそれを分かっているらしく、新聞の世論調査によると、イスラエル国民の7割が、治安維持のためにパレスチナ国家の建設が必要だと考えている。とはいえ同時に、イスラエル国民の7割以上が、パレスチナ国家の建設を許さないシャロン首相を支持している。イスラエル人にとって重要なのは、自分たちの社会の安全が守られることだが、どうしたらそれが実現できるか、イスラエル国内でも意見が分かれている。 ▼恐怖をかきたてるヘリコプター どこからかヘリコプターの音が聞こえてきた。私は、その音に注意を払っていなかったが、パレスチナ人カップルの男性の方が「また誰かを探して殺そうとしている」と言ったので、気になり出した。見上げると、2機のヘリコプターが市内中心部の上空を旋回している。 日本人にとってヘリコプターの音は大した意味を持たないが、パレスチナ人にとっては、戦車の轟音と同様、兵器が近づいてくる攻撃の音であり、不安をかき立てるものなのだろう。イスラエル軍は、町の上空にヘリを飛ばすだけで、住民に恐怖心を抱かせることができる。 イスラエル軍のヘリと、パレスチナ人があちこちから揚げている凧が、暗くなってきた空の上で点となって動いていた。それが空中戦のように見えるのが奇妙だった。ヘリコプターは、20分ほど旋回して去っていった。 その後、夜中の間にヘリコプターは3回ほど飛来した。戦車も2時間に一回ぐらいずつ走行していた。ときどき銃声も聞こえた。ほとんどは1発か2−3発だけで終わったが、機関銃のような連続的な発砲音も聞こえた。やや心配なので、念のため外出用のズボンをはいたまま寝た。 ▼終日外出禁止令の朝 翌朝は、軍のジープが遠くで発している「パウパウパウ」という警告音で目が覚めた。時計を見ると5時半だった。警告音の後、兵士が拡声器で何かアラビア語で言っている。最初の「おはようございます」というのだけ聞き取れたが、あとは分からない。いつもは午前6時で解かれる外出禁止令を、今日は終日外出禁止に延長すると言っているのではないか、と直感的に懸念した。 懸念は当たっていたようで、6時を過ぎても路上には誰も現れなかった。屋上からは、町の中心部のマナラ広場に、戦車とジープが止まっているのが見えた。日が昇り始めた。普通なら一日の人々の活動が始まる朝のざわめきがきこえるはずの時間帯なのに、まったく静かで、日本の正月の元旦の朝のような静けさだった。 7時過ぎに宿の経営者家族が起き出した。宿のほかの客は、誰も部屋から出てこない。終日外出禁止令になると、何もすることがないので、まずは寝坊するしかない、と後で会った他のパレスチナ人も話していた。宿の人に尋ねると、先週は一度も昼間の外出禁止がなかったが、先々週までは一日おきぐらいに週のうち3−4日は昼間も外出禁止になる時期が6月下旬から続いていたという。 問題は、昼間の外出禁止令がいつ発動されるか、その日の朝になってみないと分からないことだった。今日外出禁止になったら明日は大丈夫ということも言えない。2日続けて外出禁止になるときもある。北方のナブルスなどは、市内の難民キャンプに自爆攻撃を支援する人々がいる疑いがあるという名目で、もう2週間以上もずっと終日外出禁止になっていた。 こういう状態が続くと、人々は日々の仕事の予定が立てられない。以前はラマラから東エルサレム(アラブ人地区)に通勤していた人が多かったが、今ではその多くが仕事を辞めざるを得なくなったという。人々の生活水準は下がり、イスラエルとその背後にいるアメリカに敵視と、同時にイスラム教に対する帰依が強まった。未来が見えないとき、人々は宗教に向かう傾向が強まる。 しかもイスラム教のモスクでは、貧しい人々を経済的に支援したり、病院や孤児院を併設している場合が多い。そのため人々とモスクとのつながりは一般に深くなり、イスラム過激派を支持する人も増える傾向となる。こうした仕掛けをイスラエル側が自覚しているとしたら、前回の記事で紹介したように、それはアメリカのテロ戦争に協力して新たな敵を作るためかもしれない。 この日、同じ宿に泊まっていたのは私のほかに4人で、前夜に屋上で会ったカップルと、北方のナブルスから仕事を探しにきたパレスチナ人の男性2人だった。男2人のうちの一人は、ヨルダンが故郷だったが、5年前にナブルスの女性と結婚し、移住してきた。当時のパレスチナは、新国家建設に関係する仕事も多く、生活はヨルダンより楽だったという。 だが今、彼はラマラで仕事が見つからず、終日外出禁止令が明日も続けば、宿代も底をつくため、外出禁止令の中、ホテルを出ていかなければならないと、カタコトの英語で話していた。 この日は午後、中心街の広場に出ていた市民の一人がイスラエル軍に撃たれたそうだが、それ以外は静かに過ぎた。ときどき戦車の轟音とヘリコプターの音、遠くの方で銃声がする程度だった。 ただ、私が経験したのは、わりと穏便な外出禁止令の日だったのかもしれない。ラマラでパレスチナ民兵とイスラエル軍の狙撃兵が突然撃ち合いになったという記事も出ている。 ▼突如解除された禁止令 翌日は、朝5時半に目が覚めた。外出禁止令が解除されるかどうか、気になった。このまま何日間も閉じこめられるのは困る。固唾を呑んで6時すぎまで待ったが、イスラエル軍による通報は何も聞こえてこなかった。どうやら外出禁止令は6時に解除されたようだった。街頭では、商店街の人がほうきで路上を掃き始めていた。 ところが、町の様子を見ようと外に出てすぐに、遠くの方で「パウパウパウ」という音がして、イスラエル軍がアラビア語で警告を発し始めた。6時15分だった。今日も終日外出禁止令だという警告を、どうしたわけか遅れて行ったのだった。私は走ってホテルに戻った。イスラエル軍に見つかったら、下手をすると発砲されかねない。 ホテルに戻って屋上から見ていると、何人かのパレスチナ人が中心街の広場でイスラエル軍に迫られているのが見えた。兵士がジープの拡声器から「お前ら外出禁止令なのに分からんのかコラ」みたいな罵声やパウパウ音を、大音量で浴びせかけていた。 イスラエルによる西岸再占領の特徴は、なるべく統治のルールを一定にしないことで、パレスチナ人がイスラエルの占領のやり方を把握し、先回りして対応してしまうことを防いでいる、という分析記事を読んだことがある。 昨日は5時半に外出禁止令の延長を告知したのに、今朝は6時15分までそれを行わなかったのは、そうした戦略の一環だったとも思えた(今朝は兵士が寝坊しただけかもしれないが)。今日は外出できる、と喜んでいた市民たちは、がっかりして諦めの気分を強めただろう。こうした状況を経て、イスラエルはパレスチナ人を従順にしようとしているのかもしれない。 ところがその後、また突然の転機が訪れた。午前10時すぎになってまたパウパウ音が聞こえ、正午から午後6時まで外出禁止令を解除する、とジープが言って回った。「イスラエル軍は、僕らをさんざん苦しませたあげく、ちょっと譲歩する。そうすると、それが僕らには大きな譲歩を得たように見えてしまう。それが彼らの戦略なんだ」と、同宿の男性が教えてくれた。 【続く】
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