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アフガニスタン紀行(1)カブールの朝

2000年5月29日   田中 宇

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 この記事の内容に沿った写真集も作りました。

 アフガニスタンは早朝が美しい。私が訪れた5月中旬には、雲一つない晴天が続き、雨がほとんど降らないので空気は乾いていた。

 20年も戦闘が続いたので、電気が来ていない場所が多く、人々は早寝早起きなのだろう。首都のカブール市内では、夜明けとともに人々が動き始めていた。とはいえ街を歩いているのは、子供たち以外はほとんど男ばかりだ。1996年からカブールを統治している軍政組織「タリバン」は、おとなの女性が街を出歩くことを制限しているからである。

 外出する女性たちは、目の部分だけがメッシュになっているシーツのような大きさの「ブルカ」(burkha)と呼ばれる青やオレンジ色の布を、頭の先から足首あたりまですっぽりとかぶらなければならない。

 これは、アフガニスタンの都市だけの伝統的な決まりであり、農村の女性たちはブルカをしていなかった。農村では、頭にスカーフのようなものをかぶるイスラム世界のスタンダードの格好をしているだけだ。都会では女性たちは、親族の男と一緒でなければ出歩けない。同様の決まりは、中東のいくつかのイスラム教国にもある。ブルカは、タリバン政権の人権侵害の象徴として紹介される時が多いが、実はタリバン以前からの伝統である。

▼遺跡のような市街戦の跡

 助手席に私を乗せた車は、カブール市内を南に向かっていた。中心部を流れるカブール川の南には、かつて商店街があったというが、ソ連軍が撤退した後の1992以来、「ムジャヘディン」と呼ばれるアフガン人の武装組織どうしが、首都の支配権をめぐって市街戦を展開し、周囲の山々から砲弾を撃ち合い続けた結果、町のかなりの部分が廃墟になっていた。

 街を遠望すると、破壊から7年しか経っていないのに、まるで何百年も打ち捨てられていた古代遺跡のように見える。鉄筋を使わないレンガ造りの建物は、破壊されて雨や雪に洗われると、ほどなく遺跡のようになってしまうようだった。

 とはいえ逆に、内戦から7年もたっているのに、ほとんど復興は始まっておらず、きのう戦争が終わったかのような感じも受けた。建物は再建されず、商人は路上に粗末な屋台や小屋を作って営業している。コンテナを流用した店もある。

 そんな悲惨な状況だが、美しい朝の光に照らされながら人々がうごめいている光景には活気が感じられた。写真を撮りたかったが、タリバン政府はイスラム教が偶像崇拝を禁止していることを理由に、国内での写真撮影を禁止していた。

 ドライバーや同乗するアフガン人によっては、小さなカメラで車窓の内側から素早くシャッターを押す程度なら大丈夫だと言う人もいて、前日までに何枚か撮ったのだが、市内中心街にはタリバンのメンバーや通報者が多そうだった。

 私は国連を通じてアフガニスタンの入国許可をもらい、国連の宿舎に泊まっていたので、国連に迷惑をかけたくないという思いもあった。カブールに着いて最初に説明を受けた国連の安全担当官からは、タリバンを刺激しないため、なるべく写真を撮らず、車から降りてうろうろするのも避けるよう、クギを刺されていた。

 何週間か前には、アメリカ人の女性フォトジャーナリストがタリバンから強制出国処分にされていた。ジャーナリストの多くは、アフガニスタンに対する理解不足のまま、入国前からタリバン批判の記事を書くことを決めており、禁を破って一眼レフのカメラでおおっぴらに写真をとる・・・。安全担当官をはじめとするカブール在住の国連職員の多くは、そんな風に見ているようだった。

▼街が復興しなくても活況な運輸業

 カブール中心街の路上には、トラックやバンがずらりと並び、貨客ターミナルのようになっていた。トラック業者から徴収する税金は、タリバン政府の重要な財政源となっている。アフガン難民の青年集団だったタリバンが1994年秋、パキスタンからアフガニスタンへと進軍し始めた時、資金援助をしたのは、パキスタンからアフガニスタンを通ってイランや中央アジアへと荷物を運んでいた、アフガン人のトラック業者だった。

 ムジャヘディンとソ連軍との戦いが、ムジャヘディンどうしの戦いへと転化して戦争が続き、いつまでもアフガニスタンを通る輸送路が安定しなかった。各地のムジャヘディン指導者は、自分の領地内を通る幹線道路に関所を設け、トラックから通行料を巻き上げていたため、トラック業者たちは困っていた。

 そこににタリバンが登場し、ムジャヘディン各派を次々に破ってアフガニスタンの大半を支配した。こうした経緯から、破壊された街が復興せず、難民の帰還が進まなくても、運送業は活況なのだった。

 大型のトラックはロシア製や古いベンツが多いが、それより小さな旅客用のバンやピックアップトラックは、圧倒的に「トヨタ」ばかりだった。トラック以外の車の8−9割はトヨタ車だ。しかも、日本で使われていた時の法人名などが側面に書かれたままの日本の中古車が多かった。建設会社や温泉ホテルの送迎車、メーカーの配送車などである。

 アフガン人に、1992年型の中古車の日本での値段を尋ねられた。そのぐらいの型式がアフガニスタンには多いらしい。92年といえば、日本はバブル経済の末期である。儲かっていた建設会社などは、5年ぐらい使った車を中古車として売り、新車を買っていた。まだ十分に使える自動車をわざわざ中古車にして、それが回り回ってアフガニスタンまで来たのだろう。これは日本による意図せぬ「民間援助」の一形態と言えるかもしれない。

 「日本語が書かれたままの方が、日本のブランドであると分かるので格好良いと思われているんです」と、アフガン人が説明してくれた。アフガン人のほとんどは、日本に対して良い感情を持っている。欧米やロシアは昔から、アフガニスタンを支配しようという魂胆でやってくるが、日本にはそうした魂胆がない上、アフガン難民への援助の額も世界最大であることが、アフガン人の親日さの背景にあるようだ。

 日本軍は第2次大戦中、インド東部まで進軍したところで敗けたが、それが幸いしている。歴史のいたずらで、日本軍がイギリス軍を破ってインドを西進し、アフガンの山すそまで進軍する戦況となっていたら、アフガニスタンは親日国ではなかっただろう。

▼免税品という名の密輸品

 アフガニスタンを走る中古車の多くは「免税品」である。日本からドバイやアラブ首長国連邦などに中古車として輸出されたものをアフガン人やパキスタン人の仲介業者が買い、船でパキスタンのカラチへと陸揚げし、そのまま運転して持ってくる。

 アフガニスタンは海に面していない内陸国だが、帝国主義時代のイギリスは1921年、反抗心が強いアフガン人をなだめるため、パキスタンを通ってアフガニスタンに向かう製品に課税しないという協定をアフガニスタン政府と結んだ。

 この協定はパキスタンがイギリスから独立した後も生き続け、現在に至っているが、パキスタン・アフガニスタン国境の監視がゆるいため、いったんアフガニスタンに入った商品が再びパキスタンに逆流し、家電や衣類などが免税価格のままパキスタンでも売られる状況になっている。麻薬や武器も、このルートで運ばれている。

 私が乗った車は、カブールの市街を抜け、郊外に出た。この幹線道路は片側一車線だが、アフガニスタンにはめずらしく、きれいに舗装されている。町外れには、空のコンテナを道の両側に1つずつ縦にそそり立たせた、にわか仕立ての巨大ゲートがあり、黒いターバンを撒き、機関銃をかたわらに立てかけたタリバンの兵士が、退屈そうに椅子に座っていた。

 こうした検問所も1995年にタリバンが政権をとる前は、ムジャヘディンのどれかの派閥が、トラックなどから通行料を脅し取る場所だった。ムジャヘディンはソ連と戦っていた時代にはヒーローだったが、末期には暴力団そのものであった。タリバンの時代になってから、治安は格段に良くなった。

 タリバンのメンバーは、ターバンの色で見分けがつく。黒は兵士で、白は行政官や宗教指導者だ。他の一般の男たちのターバンは茶色や灰色、あるいは島模様が入った黒などである。ターバンはアフガニスタンの男性の正装であり、タリバンはターバンもしくはイスラム教の帽子をかぶり、「シャルワカミズ」(shalwar kameez)と呼ばれるパジャマのような民族衣装を着ることを男性に義務づけている。

 ターバンは、長さ5メートルほど、幅1メートルほどの一枚の布である。高級品は絹で、普及品は綿などだ。それを、剣道の「面」の下につける手ぬぐいを巻くような要領で、ぐるぐると頭に巻きつける。アフガン人なら1分ほどで着用が完了する。

▼「地元の人と同じ格好」は危険

 ズボンやシャツなど洋装の人はほとんどいない。下手をするとタリバンの宗教警察に逮捕されるか、制裁として暴行されるからだという。タリバンが人々の服装に対して厳しいのは「外見は心を表す。敬謙なイスラム教徒はそれにふさわしい格好をするはずだ」という考え方に基づいている、とアフガン情勢を解説した英語の本に書いてあった。日本の明治政府が武士のちょんまげ帯刀を禁止したのと、方向は逆だが似たような政策だ、と思った。

 アフガニスタンにいる外国人は、国連職員や援助団体のNGOなどごく少数だが、彼らは洋装を貫き、ひと目で外国人と分かるような格好をしている。地元人のような格好をすると危険なのだ。98年には、日本人のある旅行者が入国し、地元民と同じシャルワカミズを着て旅行していたが、行方不明になってしまった。

 私の案内をしてくれたUNHCR(国連難民高等弁務官事務所)の山本芳幸さんは「日本人はシャルワカミズを着ると、ハザラ人と間違われてしまう」と言う。ハザラ人はアフガン人の一民族だが、13世紀にアフニスタンを破壊してまわったジンギスカンらモンゴル人の子孫と言い伝えられており、日本人と容貌が似ている。

 アフガンの各民族は、相互に歴史的なライバルであり、ハザラ人は今も弾圧される傾向が強い。そのため、日本人がアフガン人のふりをするのは非常に危険で、ズボンにシャツという格好の方が安全なのだった。

(続く)

 この記事の内容に沿った写真集も作りました。

 なお、山本さんは「カブールノート」の連載を執筆し、メールマガジン「Gazette」などネット上で発表している。今回の私のアフガニスタン訪問は、山本さんのご尽力により、UNHCRがスポンサーとなった。UNHCRと山本さんの仕事については、改めて書く予定。


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