イラク日記(7)劣化ウラン弾の町2003年2月4日 田中 宇○2003年1月13日 今日は、南部の町バスラに行く日だ。バスラはクウェート国境近くのイラク第2の都市で、湾岸戦争の激戦地にも近い。湾岸戦争時、米軍はこの地域の戦闘で劣化ウラン弾を使用した。劣化ウランは原子力発電所などから出る核廃棄物だが、これを混ぜることで安い価格で密度の高い弾を作ることができ、ミサイルや対戦車砲の表面に使うと砲弾の貫通力が強まる。ウランは重い金属で、鉛の弾と同じ大きさで、鉛よりずっと同じ重さの弾を作れる。この重さが、貫通力を高める。 イラクの地図(ナゴヤ建機センターのホームページ内)バスラは右下。 劣化ウランは放射能を出して人体に被害を与えるが、戦場で使う分には「敵」に対してのみ放射能をばらまくのでかまわないということで、米軍は湾岸戦争やコソボ戦争などで劣化ウラン弾を使った。 ところが実際には「敵」の中には無数の市民がいた。クウェート国境近くのイラク領内で米軍が発射した大量の劣化ウラン弾からばらまかれた放射性物質は、砂漠の砂塵に混じって周辺の村々やバスラ市内に到達し、湾岸戦争が終わった数カ月後の1991年夏ごろから、バスラ一帯では放射能の影響と思われる白血病やガン、奇形児の出産が増加した。 これらの患者数は湾岸戦争から12年が経過した今になっても減らず、バスラだけでなく、バスラから500キロ離れた首都バクダッドなどでも、1995年ごろから劣化ウラン弾が原因と思われる白血病やガンなどの患者が増えだした。子供や胎児に被害が大きいため、バスラとバクダッドに、白血病やガンを専門とする小児科・産婦人科病院が作られている。 (湾岸戦争に参戦した米軍など多国籍軍の兵士にも、劣化ウラン弾が原因と思われる症状が出ている。最近ではアフガニスタンで同様の被害が注目され、2001年秋のアフガン戦争で米軍が劣化ウラン弾を使った可能性が指摘されている。アフガン戦争前の2000年5月に私がアフガニスタンに行ったときは、ジャララバードでアフガン人の医者が「ソ連軍が劣化ウラン弾をつかったため、奇形児が出産される率が高くなっている」と言っていたが) 堀越上人を中心とする私たちの旅行団は、戦争や経済制裁で苦しむイラクの人々の実状を知り「連帯」や「慰霊」をすることが団体としての目的なので、バスラに行って劣化ウラン弾の被害に関連する場所を日帰りで訪れることが、日程の中に組み入れられた。 ▼飛行禁止区域を毎日飛ぶ旅客機 バクダッドからバスラまでは、1日2便の飛行機が飛んでいる。イラクの南半分と北の3分の1の地域は「シーア派とクルド人をイラク軍の人権侵害から守るため」と称して米英が「飛行禁止区域」に指定し、イラクの軍民の飛行機やヘリコプターの飛行を禁止していると聞いていたので、バクダッドからバスラに飛行機で行けるのは意外だった。 バクダッドからは北部の大都市モスルへも、飛行禁止区域の中を飛ぶ飛行機便がある。いずれも湾岸戦争後9年間は運休していたが、2000年から運航を再開した。アメリカが定めた飛行禁止区域は、軍用機だけでなく、民間機も対象にしている。バクダッドとバスラやモスルとの間を飛んでいる旅客機は、毎日飛んでいるのでアメリカ側は黙認しているのだろうが、建前的には、いつ米軍機に撃ち落とされるか分からない状態で飛んでいることになる。 そんな危険な空の旅なのに、私たちが乗った飛行機は、行きも帰りも満席だった。同行した外務省のフセインによると、この路線だけでなく、バクダッド・モスル線も、大体いつも満席だという。料金はバスラまで往復で20ドルで、世界的な水準からみれば非常に安く、政策的に安価に抑えられているが、イラクの一般的な人々の収入と比べると高い値段だ。乗っている人々の多くは民間ビジネス(ブラックマーケット)を手がける比較的裕福な人であろうと思われた。 イラクでは国内線だけでなく、国際線の定期便も飛んでいる。バクダッドからヨルダンのアンマンへヨルダン航空が飛び、シリアのダマスカスへはイラク航空が飛んでいる。このうちアンマンへは飛行禁止区域内を飛んでいる。 バクダッドで日本外務省の方々にお会いしたが、外務省の人々はアンマンとバクダッドの間を行き来するのに、公務では飛行機を使わず、自動車で10時間ぐらいかけて移動しているという。その理由を尋ねたが、明快な答えはなく「まだ時期尚早かと思いまして」といったような曖昧な答えをいただいただけだった。 勘ぐるに、飛行禁止区域を飛ぶので危険があると判断しているのだと思われるが、それを日本国民に広く伝えてしまうと、日本人がアンマン・バクダッド線に乗らなくなり、ヨルダン航空から苦情を言われかねないので黙っている、という構図ではないかと思われた。いぶかる私に対し、外務省の方は「ヨルダン航空は、国連の認可を取った上でバクダッド便を飛ばしていると言っています」と安全性を強調していた。 空港のビルは、バクダッドもバスラも立派なものだったが、発着便がほとんどないのでがらがらだった。バスラはチグリス・ユーフラテス川(2つの川が合流した後の下流ではシャトルアラブ川と呼ばれる)の河口近くに位置する町だ。 低地なので海水が川を逆流してくるときがあり、そのため土地は塩分が強く、草がほとんど生えない広大な荒れ地が、空港から町まで延々と続いていた。塩水の影響を受けない上流から運河を掘り、真水の農業用水を引いて耕地を増やす努力が続けられており、運河は「サダム運河」と名づけられている、とガイドのフセインが説明した。 ▼病院のアラブ式「心のケア」 バスラに着いて最初に訪れたのは、劣化ウラン弾の影響と思われる白血病や各種のガンに冒されている子供たちが多い「バスラ小児科産婦人科病院」だった。担当医師によると、子供の白血病やガンは、湾岸戦争前にはほとんどいなかったが、湾岸戦争終了から半年後ぐらいから増加し始め、1995年ごろにはバスラ周辺だけでなく、イラク全土で増加が顕著になった。今では毎週5人ほどが入院してくる。 白血病の治療は、複数の薬を組み合わせて投与すると効果があるが、必要な何種類かの薬のうちのいくつかが「生物兵器の原料になりかねない」という理由で、国連から経済制裁の対象製品に指定されて満足な治療ができないという。 輸入薬に頼らず、アラブの伝統的なハーブ系の薬草を使った治療なども試みているが、十分ではない。「アメリカは、劣化ウラン弾をばらまいて子供たちを病気にしただけでなく、薬の輸入を禁じて治療をさせないようにして、無実の子供たちを殺している。薬があれば直る子供たちが死んでいくのを見るのが、医者として一番つらい」と担当医は怒っていた。 劣化ウラン弾の影響と思われる白血病やガンの子供たちを収容する病院はバクダッドにもあり、私たちは違う日にそこも訪問したが、そちらには頭など体のあちこちが膨れ上がったガンの末期症状の子供もいた。傍らにいる母親は目もうつろで、深く悲しんでいることがうかがえた。病室を出た後、担当医が小さな声で「あの子はあと1週間ぐらいしか持たないと思う」と言った。 バスラの病院では、私たちはそのような患者を直接は見なかったが、この病院に何度も通った写真家の森住卓さんの写真には、バスラの病院におけるショッキングなケースがたくさん写っている。 病院を訪れて印象的だったことの一つは、患者は一人で寝ているのではなく、母親など親族が必ず一緒にいることだった。親族は昼間だけのお見舞いに来ているのではなく、患者と一緒に夜も病院に寝泊まりしているのだという。患者を一人にして寂しい思いをさせることは治療にとってマイナスだ、という考え方から、イラクだけでなくアラブ諸国の多くの病院では、家族が誰かがいつも患者のそばにいるようにしているのだと聞いた。 これこそ「心のケア」だと思い、私が感心していると、近くにいた担当医が「日本ではどうですか」と尋ねた。私が「ほとんどの病院では、親族は昼間しか病院にいられません」と答えると、意外そうな顔をされた。イラクの病院では、廊下のすみに座り込んでお喋りしている女性などもよく見た。最初はなんだか変だと思ったが、患者と一緒に病院に寝泊まりし、病院が第2の自宅になっている親族たちなのだと分かってからは、規則にそって整頓されている日本などの病院の方が息苦しいのではないかと思えてきた。 ▼子供専用墓地 バスラで次に訪れたのは、病院の近くにある子供専用の墓地だった。近くの病院で死亡した6歳以下の子供が埋められているという。500メートル四方ぐらいの広い空き地に、見渡す限り小さな土饅頭が点在している。それぞれの土饅頭は、上の部分が簡単にコンクリートで固められ、そこにアラビア語で死んだ子供の名前や死亡日が刻まれていた。 全部で数百人分か、それ以上はあった。古いものは崩れてコンクリートがはがれていき、その上にまた新しい遺体が埋められるので、全部で何人埋まっているかは分からない。 このような子供専用の墓地は、バスラにはほかにもある。堀越上人と松崎さんは1995年にもバスラを訪れ、その際に市内の別の場所にある子供用墓地を訪れたが、そのときにはたまたま子供を埋めにきた家族がいて、掘っているうちに前に誰かが埋めた別の子供の遺体が出てきてしまい、あわてて埋め戻しているのを見たという。 堀越さんと松崎さんが太鼓を打ち、線香を焚いていると、向こうから墓守の老人がやってきた。手に持っている過去帳を見せてくれたので、そこに載っている人数を数えたところ、過去1年間に350人の子供がここに運ばれてきていることが分かった。ほぼ全員が、近くの病院で亡くなったもので、多くは劣化ウラン弾が原因と思われる白血病やガンか、経済制裁が一因の栄養失調やその他の障害による死亡だという。 病院で亡くなった子供の全員がここに埋められるわけではない。お金に余裕がある家は、日本などと同様、代々の一族のために墓地を用意しており、亡くなった人はみなそこに埋めるので、子供専用の墓に埋める必要はない。お金に余裕がない一族が、ここに埋めに来る。 この墓地では、子供の遺体を洗って埋め、セメントで簡単な墓碑を作るまでの作業を5000ディナール(約300円)でやってくれる。私たちが訪れたときにちょうどセメントを盛る工事をしていたのは、1週間前の1月6日、白血病で亡くなった生後2カ月の男の子の墓だった。 この場所が空恐ろしいのは、空き地の隅の方はまだ墓地になっていないゴミ捨て場兼用の原っぱになっていて、そこではたくさんの子供たちがサッカーなどをして遊んでいることだった。子供たちが遊んでいる空き地と墓地の間には質素な木の看板が立っていて、そこには「すべての死者に冥福を。墓の上に乗るべからず」などと書かれている(とガイドが言っていた)。 【写真】木の看板を撮っていたら写りたがり屋の子供たちが集まってきた。 この看板は、墓の上に乗って遊ぼうとする子供たちを戒めているのだが、バスラ周辺では、今も毎日のように白血病やガンに冒されて入院する子供たちがいる。今日は土の上で元気に遊んでいる子供たちも、いつ冷たくなって土の下に埋まる状態になるかもしれない。そんな状態なのに、子供たちは明るく全力で遊んでいて、嘉納さんや私がカメラを持っていることに気づくと、どんどん寄ってきて、我も我もと撮ってもらおうとする。衝撃的という表現を超えて、なんだか不思議な光景だった。 ▼戦車の墓場で戦闘の音を聞く 子供の墓地を後にした私たちの車は、市街地を抜けて南に走った。バスラから30キロ南に行くと、クウェートとの国境である。私たちは国境の手前にある「戦車の墓場」に向かっていた。湾岸戦争時に、米軍(多国籍軍)がイラク側の戦車など車両類を空爆して破壊した残骸が、今も残っている場所だ。 バスラ市街を出ると、周囲は砂漠(荒野)になった。遠くには、高い煙突が何本か並び、炎を吹き上げているのが見える。天然ガス田だそうだ。市街を出て30分ほど走った後、幹線道路を外れて小道に入り、砂漠の中を1キロほど行くと、戦車の墓場が見えてきた。戦車やトラック、乗用車などの錆びた残骸が、荒野の中に点々と転がっている。戦車数台、自動車15台ぐらいの規模だった。 【写真】道以外の場所に立ち入ると危険だという。はるかにガス田から上がる黒煙が見える。 「地雷が埋まっているかもしれないので、道の外に出ないでください」とガイドのフセインが言う。ここはイラク情報省のガイドが外国人を案内する際のコースの一つになっているらしく、幹線道路からの通り道が決められており、そこを通っている限りは安全ということだった。道ばたに地雷が埋まっている場所があった。地面にビールのアルミ缶の最上部のようなものが顔を出している。その上に乗ると爆発するのだそうだ。近くには地面に棒が突き刺してあり、そこに大きなペットボトルが逆さまに差し込んであって、それが目印になっていた。 ここが湾岸戦争の前にどういう場所だったのか、ガイドのフセインも知らないという。米軍はこの地域の戦闘で劣化ウラン弾を使ったので、車両の残骸に触らない方が良いと言われた。(もっとクウェート国境に近い場所には、ここよりずっと大規模な戦車の墓場があり、そこは2時間以上滞在すると劣化ウランの放射能が人体に悪影響を残すという) この戦車の小墓場にいる間に、頭上で轟音が聞こえた。米軍の戦闘機の飛行音だという。空を見上げたが、雲一つない晴天なのに、飛行機の姿は見えない。かなりの高度を飛んでいるようだった。 しばらくすると、遠くからドン、ドン、ドンという地響きを伴った連発音が聞こえた。イラク軍が対空砲を撃っている音だった。「米軍機は高く飛んでいるので届かないだろう」とフセインが言う。「届かないのに撃つのは弾の無駄じゃないですか」と聞くと「領空侵犯されているのだから、届かなくても反撃せねばならないんです」という返事だった。 ▼トマト農園の衝撃 戦車の墓場からバスラへの帰り道、ビニルハウスでトマトを作っている農家に立ち寄った。地下水を汲み上げて散水し、砂漠の中に農園ができていた。この農園に農家が3軒あり、一戸あたり年収は100万ディナール(約6万円)ほどだという。バクダッドの公務員と大差ない年収だ。ここの農家の人々は、毎日のように米軍戦闘機の轟音を聞いているという。 米軍が使った劣化ウラン弾が作物に影響を与えることはないか尋ねると「あるかもしれない」との答えなので驚いた。「イラクで作っているあらゆる食糧に、劣化ウラン弾が影響を与えている可能性がある。しかし、われわれはそれを食べないわけにはいかない。みなさんだって、もうすでにホテルで毎朝トマトを食べているのではないですか」と言う。 確かに、ビュッフェ形式のホテルの朝食には毎朝トマトのサラダがあった。ガイドのフセインはこのあと、私たちと食事をするたびに「これに劣化ウランが入っているかもしれないよ」などとブラックジョークを何度も飛ばしていた。冗談めかして言っているが、その裏には、劣化ウラン弾を使ったアメリカの戦争犯罪を私たちに思い起こさせるための情報省の戦略があるようにも感じられた。 【写真】農民一家。写真を撮るといったら女性たちは着替えて出てきた。胸の刺繍がおしゃれ。 私たちがその次に連れて行かれたところも、反米宣伝の訪問コース上であった。つい1カ月ほど前の2002年12月1日、米軍の戦闘機がバスラ市内の国営石油会社の本社敷地内のガレージを空爆した。その際に石油会社の周辺に住んでいた一般民家なども被弾し、12人が死亡、数十人が負傷した。負傷者の一人は4歳の子供で、お腹と手を負傷し、指が何本かなくなってしまった。その子供(アーメド君)の家を、私たちは訪れた。 【写真】米軍の空爆で左手の指先を失い、腹にも大怪我をしたアーメド君。 2002年12月に別の日本人NGOの方が写したアーメド君。 こちらの写真ではヤッセル君という名前で紹介されている。 米軍は石油会社の向かい、アーメド君の家の隣には、ペプシコーラのボトリング工場があったが、ここは米軍が湾岸戦争の際に空爆して破壊したという。4階建てのアパートになっているアーメド君の自宅の屋上に上ると、破壊された石油会社のガレージやペプシの工場が見えた。石油会社の社屋そのものは無傷だった。米軍の攻撃は威嚇のためだったのか、それとも攻撃対象を誤認したのか、そのあたりは分からなかった。 ▼ニュースに敏感な人々 バスラはペルシャ湾の一番奥にある港で、昔からメソポタミアの外港として世界貿易上、重要な役割を果たしてきた。8世紀ごろのアラビアの物語である「千夜一夜物語」の中に「船乗りシンドバッドの話」がある。スリランカなどの地名も登場する半分現実、半分おとぎ話の物語だが、バクダッド在住のペルシャ系商人だったシンドバッドが7回にわたって東方へと冒険の旅に船出する出発地点がバスラである。 その後、西欧人が東方貿易を手がけるようになると、バスラは「東方のベニス」などと呼ばれるようになった。だが今は、市内中心部を流れるシャトルアラブ川の河畔に、ベニスのような水郷の面影がわずかに残っているだけだ。 バスラ周辺は、イランとクウェートに挟まれた地域で、イラン国境まで20キロ、クウェート国境まで30キロという近さである。1932年にイラクがイギリスの信託統治から独立する際、イギリスはクウェートを引き続き植民地(自治保護領)として残すことで、イラクの海に面した領土をなるべく狭くする戦略を採った。イラクをなるべく海に面しない国として独立させ、貿易をやりにくくすることで、イギリスはイラクの経済力を制限しようとした。 イランとクウェートという敵国に挟まれているため、バスラの人々はイラクの中でも特にニュースに敏感だといわれている。私たちが乗った借り上げタクシーの中でも、アラビア語のラジオニュースを流していた。 このラジオ局(1548KHz)は、アメリカのポップ音楽をDJつきで流したりしていたので、私は「なんだ。イラクにもおしゃれな放送局ができてるじゃないか」などと思いながら聞いていた。ところが、バクダッドに帰るころになってこのラジオ局の正体を知り、非常に驚いた。最近アメリカが始めたイラク向け宣伝放送(ラジオ・サワ)だったからだ。 ラジオ・サワ(Radio Sawa)は、昔からあるアメリカの宣伝放送VOAだとプロパガンダ臭が強すぎるという米当局の判断で、VOAを改組し、洗練されたプロパガンダ放送として2002年3月からアラブ全域で放送している。「サワ」とはアラビア語で「一緒に」という意味だという。イラク向けには毎時イラクの国内ニュースを流す番組を加えた特別放送を行っている。イラク政府は警戒し、ラジオ・サワに対し妨害電波を出して聞こえないようにしているという報道を読んだことがある。 ラジオ・サワはインターネット放送として世界中で聞ける。イラク向け特別放送もある。 ▼宣伝放送の健全な聞き方 放送がラジオ・サワだと教えてくれたのは、情報省のフセインだった。情報省の役人が外国人を案内するタクシーの中で、そんな敵国の宣伝放送を一日中聞いて問題ないのか。驚く私に対し、フセインはこともなげに「ニュースを30分ごとに流すので、便利だからみんな聞いていますよ」などと言う。ニュースといっても、ウソ情報を含んだアメリカの宣伝放送ではないのか。 ますます驚く私に対し、フセインは「確かに、この放送は先日、フセイン大統領が亡命したというウソのニュースを流し、イラク社会を混乱させようとした。しかし、そんなニュースがウソだということは、イラク人にはすぐに分かる」と言う。 聞けば、イラク人は以前からBBCやラジオ・モンテカルロ(RADIO MONTE CARLO-Moyen Orient、フランス系)など西欧の放送局が流すアラビア語放送で国際ニュースをキャッチしてきたという。バスラの車内ではラジオ・サワだけでなく、クウェートのFMの英語放送(99.7MHz、英語のラジオ・サワ?)も聞いていた。バクダッドで乗ったタクシーでは、ラジオ・モンテカルロを聞いていた。それらの外国放送には、中立を装うBBCなどでも、西欧の側からのプロパガンダが入っている。人々はそれらを聞くうちに、自然とプロパガンダとそうでないものを聞き分ける耳を養ってきたらしい。 この日のラジオ・サワのニュースでは、イラク国内にいる国連査察団の動向、パレスチナでのイスラエル軍の動向、北朝鮮の核問題など、BBCなどが流すのと同じ標準的な国際ニュースが流されていた。 見方を変えると「ふつうのニュースの中に、ときどきウソが混じるかもしれない」と考えるイラク人のラジオ・サワに対する聞き方は、ニュースに対する接し方として、むしろ健全かもしれない。2001年秋の911事件以後、アメリカ国防総省のラムズフェルド国防長官などは「これからはウソの情報を流してテロリストを攪乱するのも戦争の一つだ」などと豪語し、ウソ情報を流すことを正当化している。 こんな豪語が報じられているにもかかわらず、アメリカではいまだに国民の大半がマスコミのニュースをすべて真実だと思っている。日本のマスコミの多くは、アメリカのマスコミが流すニュースを翻訳してたれ流しているだけが、日本人の多くも「マスコミは真実しか報じないものだ」と軽信している。 車内に流れるアラビア語のラジオ・サワを聞きながら、宣伝放送の罠に引っかかっているのはイラク人ではなく、アメリカ人や日本人の方かもしれない、と思った。
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