パレスチナ・西岸紀行(1)2002年8月5日 田中 宇パレスチナ問題にたずさわる人々の中に「マッピスト」(地図専門家、地図屋)と呼ばれる人々がいる。パレスチナ問題は、地図上の線引き問題でもある。 1967年の第三次中東戦争以来、イスラエルはヨルダン川西岸とガザ地区を占領してきたが、1993年のオスロ合意から始まったイスラエルとパレスチナ人側との和平交渉の中で、イスラエルが占領してきた土地のうち、どの部分をどのようにパレスチナ人の自治に委譲するかということが重要になった。 イスラエルがパレスチナ側との和平に応じたのは、イスラエル軍が西岸とガザの全部を統治し続けると、行政サービスや治安維持にコストがかかりすぎるからだった。だが他方、パレスチナ人に自治を与えすぎると、他のアラブ諸国から武器供給を受けてイスラエルを攻撃するかもしれず、イスラエルの安全保障が危機にさらされかねない。そこでイスラエルは、安全保障を損ねない範囲でパレスチナ人に自治を与えることに合意した。 ガザは西岸に比べてずっと狭い地域で、海に面した長方形の土地なので、周りを壁で囲み、その中でパレスチナ人に自治を与える一方、外部との人やモノの出入りはイスラエルが管理することで、イスラエルの安全保障が守られるようにした。 だが西岸は、ガザの何十倍もの面積があり、砂漠の中に町が点在しており、囲い込んでしまうには広すぎた。しかも、イスラエル側では、宗教的な理由や、パレスチナ人に圧力をかけて西岸から追い出したいという考えに基づき、西岸の中に無数の小さな町(入植地)を作って住みつく人々が増えた。 国連決議はイスラエル人が西岸に移住することを禁じたが、国際的なイメージより自国の安全保障を重視するイスラエル政府は、国連決議を無視して入植地を増加を黙認・支援した(シャロン首相は1970年代から、入植地拡大運動の指導者だった)。西岸では、パレスチナ人の町や農村と、イスラエル人の入植地(町)とが、終盤戦の碁盤上の白黒の碁石ように、隣接して散らばる状態となった。 このような状況の西岸地区でパレスチナ人の自治が始まることになったとき、イスラエル政府は、パレスチナ人の町や村だけを自治区に指定する一方、イスラエル人の入植地や幹線道路はイスラエルの管轄下に残るような線引きを行うことにした。 一方、パレスチナ人側は、自治区を少しでも広くしようとした。その結果、双方の交渉担当者や政治家などは、地図を見ながらあれこれの線引きを主張するようになり、マッピストの出現となった。 ▼地図が理解を助ける 私は今回イスラエル・パレスチナに来たとき、最初は詳細な地図を持っていなかった。ところがその後、10万分の1のロードマップ帳を見つけ、自分がバスなどで移動した道順を確認したところ、イスラエル側がどのような地理的理由によって、各所で検問や道路封鎖、入植地の増設などを行っているか、かなり推測できるようになった。 たとえば、幹線国道の多くは、西岸のパレスチナ人の町々を迂回して通るルートをとっており、その幹線道路からパレスチナ人の町に入る道が分岐する場所に、イスラエル軍の検問所が作られている。こうすることにより、イスラエル側は、幹線道路の交通を遮断せずに、パレスチナ人の町を封鎖することができる(幹線道路はイスラエル人入植者の交通路ともなっている)。 一つのパレスチナ人の町と、となりのパレスチナ人の町の間の丘陵地帯には、イスラエル人の入植地が作られている。入植地はいくつもの場所で、パレスチナ人の町と町の間を分断しようとしている。一方、パレスチナ人の方も多産で人口が増え続けているので、双方の居住地が隣接するケースが増え、緊張が強まっている。 こうした陣取り合戦が最も激しいのが、双方が首都にしようと考えている「聖都」エルサレムだ。エルサレムは、ユダヤ人の町である西エルサレムと、パレスチナ人の町である東エルサレムとに分かれているが、ここでの陣取り合戦は、イスラエル側が圧倒的に優勢になっている。 イスラエル側は、東エルサレムをぐるりと取り囲むように点々と入植地を作り、その間を有刺鉄線のついたフェンスでつなぎ、東エルサレムを西岸の他の地域と切り離そうとしている。 エルサレムを取り囲む入植地は、公団住宅が並ぶイスラエル人のための郊外の住宅地となっており、宗教右派の人々がパレスチナ人と戦うために住んでいる感が強い砂漠の中の入植地とは雰囲気が違う。 これらの入植地はいずれも、西岸の現状変更を禁じた国連決議に違反して建てられているが、入植地の住宅は政府の補助金によって、占領地以外のイスラエルの町の住宅より、かなり安く売られていることが多い。 そのためエルサレム郊外の入植地には、政治色の薄いイスラエル人たちがたくさん住むようになり、イスラエルによる東エルサレムの占領は、国際社会からの非難を受けつつも、ますます動かしがたいものになっている。 ▼門前町のバスターミナル 実際に西岸における人々の日常生活がどうなっているかをみたくて、私は7月28日に、エルサレムから北隣のパレスチナ人の町ラマラに行くことにした。 エルサレムから西岸への公共交通は、パレスチナ人とイスラエル人のルートが別々に存在している。エルサレムのバスターミナルも2つに分かれている。西岸の中でも、イスラエル人が住んでいる入植地に行くバスは、西エルサレムの立派な中央ターミナルから出発する。 一方パレスチナ側の公共交通である乗り合いタクシーは、東エルサレムの旧市街、ダマスカス門前のターミナルから出発する。ターミナルといっても、ごみごみした場所に、タクシーが駐車できる広場があるだけだ。 その広場や周辺の路上で、運転手や助手の子供らが行き先を連呼し、客を集めている。ラマラ、ベツレヘム、ヘブロン、ナブルスなど、西岸のパレスチナ人各都市に向かう乗り合いタクシーがここから出発する。 このターミナルがあるダマスカス門前は、まさに「門前町」と呼ぶにふさわしい。エルサレムの旧市街は古い城壁に囲まれており、城壁の門の一つがダマスカス門である。門の内側は細い石畳の細い道が入り組み、両側に食料品店、洋品店、土産物屋などが軒を連ね、買い物をするパレスチナ人たちで混雑している。 ここは、イスラエル人の居住地域から徒歩10分ぐらいの距離にあるが、一般のイスラエル人はほとんどここには来ない。武器を持ち、防弾チョッキを着た警察や右派青年が、挑発のために闊歩しに来るぐらいである。私がダマスカス門の近くの宿に泊まっていると言ったら、何でそんな危ないところに泊まるんだ、と何人かのイスラエル人から言われた。 私は1997年、2001年1月、そして今回と、これまで3回イスラエル・パレスチナを訪れたが、来るたびにダマスカス門の周辺の商店街の賑わいが失われているように思われた。 特に今回は、半年以上にわたって西岸の町々が断続的にイスラエル軍に封鎖され、パレスチナの経済が悪化し、パレスチナ自治政府も壊滅に近い状態まで破壊されてしまったので、商売は細り、町は汚れていた。観光客がほとんど来ないので、土産物屋も開店休業状態で、終日閉まっているシャッターも目立つ。 それでも、パレスチナ人の町が戦場や廃墟になったわけではない。人々は非常に厳しい状態ながら、なんとか暮らしている。東エルサレムだけでなく、ヘブロンやラマラなど西岸の諸都市の商店街も、イスラエル軍が外出禁止令を敷かない限り、買い物客でにぎわい、車も行き交っている。 ▼文明的な人々 私はイスラエル・パレスチナに来るたびに、西岸の町を一つかふたつ訪問したが、そのたびに、自分が乗った乗り合いタクシーがダマスカス門前を出発するときは、少し緊張する。撃たれて戻ってこれなくなるのではないか、などと思う。 だが「シェルート」と呼ばれる乗り合いタクシー(8−10人乗りのライトバン)に乗り合わせている他の人々は、子供連れのお母さんや、アラファトのように頭に布を被り、杖を持ったおじいさん、乳飲み子を抱いた若い女性、携帯電話を持ったジーンズ姿の若い男など、毎日この路線を使っている普通の市民という感じの人々である。 彼らは厳しいイスラエルの占領下で暮らしているわけだが、服装や持ち物、物腰などは、カイロやアンマンなどアラブの他地域の市民と同様、高度な文明人である。着るもののセンスでは、カイロより西岸の方がおしゃれかもしれない。昨今の西岸の女性の間では、光沢のある薄いクリーム色(真珠色)のヘジャブ(スカーフ)が流行っているようだった。真珠色のスカーフは、おしとやかな感じがする。 5シェケル(150円。イスラエルの通貨)とか3シェケルの運賃を運転手に払い、10人ほどの市民と同じシェルートに乗り合わせると、この人たちと一緒に行動している限り、大丈夫ではないかと思えてくる。イスラエル軍による厳しい規制や、非道な嫌がらせを受け、かなりの不自由さがあるものの、何とか普通の市民生活が維持されているからだ。 ただ、乗り合いタクシーの中でアラビア語の地元ラジオのニュースが始まると、みんな集中して聞いている。情勢が刻々と変化するため、人々は、どこで銃撃があり、どこの町がイスラエル軍に封鎖された、といった情報に敏感だ。 西岸の町々の人々は、夕方以降に許可なく町の外のイスラエル管轄地区(C地区)にいることが禁じられている。午後6時とか7時までに自分の町に戻ることができないと、逮捕され、身分証明書を没収される可能性がある。急変する新情勢を知らないと、家に帰れないどころか、もっとひどい目に遭うかもしれない。そのため、人々はニュースに敏感なのだった。 (続く) 田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |