イラク日記(1)大使館訪問2003年1月6日 田中 宇○2003年1月2日 東京の青山にあるイラク大使館は、路地の奥にある、築30年ぐらいかと思われる古い4階建てぐらいのビルだった。ベランダがついた小さなマンションのようなビルを丸ごと大使館にしていた。 入り口のインターホンを押し、玄関の鉄格子を開けてもらって受付の部屋に入ると、サダム・フセイン大統領の等身大の大きな肖像画が掛かっている。ブレザーを着て、顔立ちはかなり若い。フセイン大統領は1937年生まれで、1979年に大統領に就任した時はまだ41歳だった。肖像画は、就任して間もないころの写真をもとに描かれたものかもしれない。 この日、大使館を訪れたのは、イラクのビザをもらうためだった。私一人ではなく、日本山妙法寺のお坊さんである堀越上人と、ジャーナリストの松崎三千蔵さんと、3人で大使館を訪れた。 堀越上人と最初にお会いしたのは昨年8月、パレスチナのガザでのことだ。堀越さんは、ガザの子供たちに、絵を描いた灯籠を100個以上作らせ、昨年8月7日の広島原爆記念日の夕方に、灯籠を持った子供たちをガザの港に集め、蝋燭を立てて海に流すという平和祈念行事をおこなった。私はたまたま8月7日にガザにいたため、行きがかり上、灯籠流しの準備を少しだけ手伝った。 堀越上人は、こんどは1月16日の湾岸戦争の開戦記念日に、バクダッド市内のチグリス川で、イラクの子供たちが作った灯籠を流す計画を進めている。それに同行するということで、ガザの時のご縁で私にも声がかかった。昨年11月ごろからイラクに行こうとしていたが、なかなかビザがおりなかった私は、喜んで同行することにした。 ▼「人間の盾」作戦 受付で待っている間に、堀越さんは「実は今日、ビザがとれるかどうか分からない」と言う。年末に大使館に念押しの電話をしたが、ビザ発給の確約はとれていないのだそうだ。私は1月4日にヨルダンのアンマンに行く格安航空券をすでに買っているし、堀越さん自身はこの日(1月2日)の飛行機でアンマンに行くことになっている。ここでビザがとれなかったら、アンマンまでは行けても、そこから先、イラクに入ることができない。 そもそもこの日、私より少し先に大使館に着いた堀越さんらは最初「今日は大使館は休みだ」と言われ「そんなはずはない。書記官と面会の約束がある」と言うと、ようやく入れてもらえたのだという。 前途多難かとも思われたが、私には大丈夫だろうという予測があった。というのは、何日か前に「アンマンからバクダッドに向け、米軍のイラク侵攻に反対する人々の流れが始まっている。アンマンのNGOは10万人をバクダッド入りさせる予定で、イラク政府は歓迎し、宿代を無料にすると言っている」という記事を読んだからだ。 これは要するに、バクダッドに大勢の外国人がいれば、ブッシュ大統領もイラク侵攻を思いとどまるのではないか、という「人間の盾」作戦である。(関連記事) 10万人も集まるとは考えにくいが、集まったとしても大半は近隣のアラブ諸国の人々で、日本人は少ないだろうから、歓迎されてビザが発給されやすくなっているに違いない、と私は考えた。 米軍の標的になるためにバクダッドに行く、というのは危険な話にも聞こえるが、私は「アメリカが今にもイラク侵攻すると言っているのは外交上の口だけの作戦で、実際にはイラク侵攻の可能性は減っている」と思っている。その理由は、前回の記事「イラク戦争を乗っ取ったパウエル」に書いたとおりだ。(関連記事) ▼ブームになったイラク詣で 受付でしばらく待った後、3階の書記官室に案内された。私たちと面会したのは2等書記官だったが、この人には11月にもお会いした。そのとき私はジャーナリストビザを申請したが「どんなジャーナリストなのか?」と尋ねられ「インターネットで記事を配信している」というと「それは、つまり趣味でやっているんだね」と言われてしまい、ビザ申請は受理してもらったものの、その後音沙汰なしだった。 その点、オレンジ色の袈裟を着た堀越上人は違った。チグリス川での灯籠流しという、イラク当局にとっても戦争回避に向けたPRになりそうな具体的な計画があったためか、私たちにはすぐにビザが発給されることになった。 書記官は、私たちのパスポートにビザを貼りつけながら、ほかにもいろいろな人々が日本からイラクに向かっていると語った。年末には、社民党の議員2人や、テレビ朝日のテレビクルーの一団、民族団体の一水会の人などもイラク入りしたという。年明けには、沖縄のNGOや、日本ボランティア協会(JVC)などもバクダッドに向かうそうだ。12月にイラクに行き、すでに帰ってきた人々もたくさんおり、「開戦間近」という報道が続く中、イラク詣では「平和運動」や「人権問題」にかかわる人々にとってブームになっていることがうかがえた。 ▼鳴り響く嫌がらせ電話 書記官と面会している間、卓上の電話がずっと鳴りっぱなしだった。「いつビザがおりるのか」を問い合わせる人々からの電話がかかってきているのだが、この日はまだ正月三が日の間なので、大使館は表向き閉まっており、電話には出ないのだろうと思われた。 ところが、書記官の説明は私の思い込みとは全く違っていた。「これは嫌がらせ電話で、朝から夜中まで、切っても切ってもかかってくる」。電話をしてくるのは日本人の女性で、その人は一人で延々と嫌がらせ電話をかけ続けているのだという。 そう説明しつつ、書記官は電話についているスピーカーのボタンをオンにした。「ハロー。イラキエンバシー?」日本語なまりの英語で女性が呼びかけている。こちらが黙っていると「ハロー、ハロー」としばらく呼びかけた後、向こうから切れた。こちらが切ると、またすぐ電話がかかってきて、受話器を取ると同じ声の主である。音楽を流してくるときもあるそうだ。何日も続くので、赤坂警察署に届けたという。 嫌がらせ電話は、独裁的なフセイン政権への「抗議行動」として行われているのかもしれない。イラク大使館の人々がうんざりして弱っているのを見て、これも一つの戦争だと感じた。 しかしその一方で、アメリカにとって世界最大の脅威である「悪の枢軸」にしては、ずいぶん守りが弱いので、少し滑稽な気もした。経済制裁で国家財政が苦しいためか、この大使館は電話交換手を置いておらず、全館で電話の呼び出し音が鳴り続けていた。アメリカが世界中の電話を傍受できる時代に、東京のイラク大使館は、一人がかけてくる電話によって機能が麻痺しかかっていた。 イラクに限らず、アフガニスタンのタリバンもそうだったが、最近のアメリカが宿敵として引っぱり出すのは、実は大したことのない勢力であり、アメリカ政府は「闇夜の枯れすすき」をわざと幽霊だと言っていると思われるが、そのことはこの嫌がらせ電話にも象徴されている気がした。 冗談のような話だが、この嫌がらせ電話は、イラク大使館にとってプラスになっているかもしれない。もしアメリカ当局がイラク大使館の電話を盗聴していたとしたら、嫌がらせ電話が盗聴の妨害に役立っているかもしれないからである。 ▼旅行者に荷物を託す大使館員 無事にビザが発給されたところで、次に書記官が切り出したのは「イラクに持っていってほしい荷物がある」ということだった。大使館職員の家族や親戚に、日本で買った服や靴、文房具などを送りたいが、国連の経済制裁があるため自由に発送できない。そのため、イラクに行く日本人にときどき荷物を持っていってもらうのだという。ビザが発給され、私たちが感謝の念を抱いている間に荷物をお願いしてしまうという巧みな戦略だった。 荷物は10キロほどの段ボール箱だった。松崎さんと私で分割して持っていくことにして、2つに分けてくれと言ったら、別々のボストンバッグに詰め直して持ってきたが、2つのバッグを合わせた大きさは、最初の箱よりかなり大きかった。イラクに送りたい物資は山ほどあり、詰め込むだけ詰めて旅行者に持っていってもらうということらしい。 その後、帰宅してバッグの中を確認すると、セーターやジャンパー、運動靴、タオル、野球帽、置き時計、鉛筆と消しゴムなどが詰められていた。ほとんどは中古品のようだ。鉛筆はバラで100本以上あり「△△株式会社創業記念」とか「○○小学校作文コンクール賞」などと印字されているものが何本もあり、どこからかもらったものをかき集めたという感じだ。なるべくお金をかけずに集めた品々に見えた。 こうしたものがイラクで喜ばれるということは、かなり困窮しているということだろう。イラクは世界の石油埋蔵量の11%を保有している。それを採掘して運び出すだけで、全国民が新品の日用品を十分に買えるようになるはずだ。 それなのに現実には、ビザをとりにきた日本人に、書記官が中古の品々を詰めたかばんを託している。アメリカは「サダム・フセインが悪いからそうなるんだ」と公言し、その言葉を信じた「善良な」日本人が「フセインに鉄槌を」とばかり、嫌がらせ書記官室の電話を鳴り響かせている。私には、何かおかしいと感じられた。 何がおかしいのか、私がこれまでに書いた記事の論調からすると「石油利権を確保したいアメリカの中東戦略の結果、こうなっている」ということになるが、これからイラクに行けば、いつも考えていることとは別の視点が開けるかもしれない。そう考えながら、中古品を詰めたけっこう重いかばんを持ち、1月4日の朝、自宅から成田空港に向かった。
田中宇の国際ニュース解説・メインページへ |