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イスラエルとレバノン

2000年6月12日  田中 宇

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 イスラエルの「建国の父」であり初代首相だったベングリオンは、イスラエル独立から11年前の1937年、「イスラエルが建国したら、すぐに同盟国になりそうなのはレバノンである」という発言をした。

 中東で地中海に面した二つの国、レバノンとイスラエルは、第一次世界大戦の後、オスマントルコ帝国からこの地域を奪ったイギリスとフランスが、長期支配のために作った国である。多数派であるイスラム教徒が、この地域を統一することがないよう、少数派であるユダヤ教徒にイスラエルを、マロン派キリスト教徒などにはレバノンをそれぞれ建国させ、分断を作り出した。

 英仏の戦略の手先として使われたイスラエルは最初から、自らの建国によって土地を奪われる多数派のイスラム教徒(アラブ人)の敵意に包囲される状態に耐えねばならなかった。その中でイスラエルが、同じく少数派の国である北隣のレバノンを、同盟国としてみたのは当然でもあった。

 だが、イスラエルが結束の強いユダヤ人の国として存続したのに対し、レバノンではマロン派キリスト教徒、シーア派イスラム教徒、スンニ派イスラム教徒がそれぞれ30%前後ずつ存在し、その他にギリシャ正教のキリスト教徒、ドルーズ派イスラム教徒などが10%弱ずついるという、民族のモザイク状になっている。

 そのため、マロン派キリスト教徒を中心とする国として建国されたにもかかわらず、その後は各勢力の数に比例した政治が展開されるようになり、国内に強い多数派ができない不安定な状態となった。(国会議員の数も人口比などによって各勢力に割り当てられる。政治バランスが崩れかねないので、人口調査も長いこと実施されていない)

▼イスラエルの建国が崩したレバノンの政治バランス

 イスラエルは、こうした微妙なバランスの上に立つレバノンのキリスト教勢力を支援しようとしたが、イスラエルの建国そのものが、このバランスを崩すことになった。1948年にイスラエルが建国され、その直後から3回にわたり、アラブ諸国とイスラエルトの間で中東戦争が起きたが、戦争のたびにイスラエルの領土は拡大し、そこに住んでいたアラブ人たちは難民となって周辺国に追い出された。

 イスラエル北部に住んでいた人々は、北隣のレバノンへと追い出され、レバノンの首都ベイルートの南郊からイスラエル国境にかけての南部レバノンに難民キャンプを作って住むようになった。1967年の第3次中東戦争で難民が急増すると、パレスチナ難民たちはレバノン南部からイスラエルに向かってゲリラ攻撃を始めた。この戦争でゴラン高原を奪われたシリアは、パレスチナ人の攻撃を支援することで、イスラエルに圧力をかけた。パレスチナゲリラの中心となっていたのは、アラファトを議長とするPLO(パレスチナ解放機構)だった。

 シリアは「もともとレバノンは自国の一部だったのにフランスの陰謀で分断された」という意識を持っており、イスラム教勢力を支持することで、レバノンに対する支配を強化しようとしていた。キリスト教勢力を通じてレバノンへの影響力を強めたいイスラエルとはライバル関係にあった。

 ゲリラ攻撃に手を焼いたイスラエルは、1978年にレバノンに武力侵攻した。国連はすぐにイスラエルに対する非難決議を出したが、イスラエルは無視した。冷戦の真っ最中で、ソ連に支援を求めたシリアを警戒したアメリカが、イスラエルの行為を大目に見たからだった。

 その後イスラエルは、レバノンのキリスト教勢力の中からイスラエル軍に協力する人々を集めて軍事訓練をほどこし、民兵集団である「南レバノン軍」を作り、自らの代理として戦わせ、イスラエル軍自体は国境付近にまで撤退した。

 1979年にはイランでイスラム革命が起き、ゲリラ勢力には「イスラム主義」(イスラム原理主義)という新たな精神的支柱が加わり、ゲリラ攻撃も激化した。1982年には、再びイスラエル軍が直接侵攻し、アラファト議長らPLO幹部をチュニジアに追い出した。

▼南レバノンはイスラエルの「ベトナム戦争」に

 だが、イスラエルのレバノン侵攻は、パレスチナゲリラ退治という当初の目的を達成したものの、侵略の犠牲となったレバノン南部の人々は、イスラエルに対する敵視を募らせた。1982年のベイルート侵攻後、イスラエルは国境からレバノン領内に幅15キロの土地を「安全地帯」として占領し、南レバノン軍に守らせる態勢を続けたが、これに対抗するために南レバノンの人々は武装組織「ヒズボラ」を作り、イスラエルに対する攻撃を続けた。

 南部レバノンの人々はシーア派のイスラム教徒が多い。ヒズボラはシリアに加え、同じくシーア派であるイランからも資金援助や軍事訓練も受け、ゲリラ戦術を向上させていった。イスラエルはヒズボラがいるのでレバノン南部の占領を続けねばならなかったが、ヒズボラはイスラエルの占領が続く限り、レバノン内外のイスラム世界から支持されるという堂々巡りになった。イスラエルは抜けられなくなり、「アメリカにとってのベトナム戦争のような泥沼状態だ」と言われるようになった。

 建国後50年が過ぎたイスラエルは経済成長を遂げ、国民の命も大事にされるようになった。レバノン南部で兵士が一人死ぬたびに、新聞には「レバノン占領は意味がない」という批判記事が出た。しかも、アメリカの軍事技術をそっくり使える立場にあるイスラエルでは、地上軍を展開するより、空爆によってレバノン南部を制圧した方が効率が良い時代に入っていた。そのため、どうやってレバノン南部から撤退するかが、ここ1−2年のイスラエルの課題になっていた。

 イスラエルと周辺国の和平は、1993年のオスロ合意をきっかけに進展するはずだったが、和平をするとマイナスになる人々が各国にいて、小さな対立が和平を座礁させるという事態が続いた。イスラエルでは、西岸やゴラン高原の占領地に入植した人々が土地を失うことを恐れ、政府に反和平の圧力をかけ、そのため前政権のネタニヤフ首相は和平交渉の動きを止めるような政策を続けた。

 昨年5月の選挙で、ネタニヤフに不満を持つ和平派の人々が「当選したら1年以内にレバノン南部から撤退する」との公約を掲げるバラクを当選させた。それをきっかけに、南レバノンをめぐる状況が変わり始めた。

 一方シリアでは、ゴラン高原が返還されない限り、シリアは反イスラエル勢力の盟主であり、レバノンやパレスチナ人に対する影響力も維持できるという構造であったため、アサド大統領はこれまでイスラエルとの和平に消極的であった。彼は先日、ついに亡くなったが、その1−2年前から体調を崩しており、自分の息子にスムーズに政権を譲るため、イスラエルとの膠着した関係を改善しておいた方が良いと考えていた。

▼「アサド後」を見通して動き出していたシリアとイスラエル

 こうした機運の中で昨年12月、アメリカの仲介によってイスラエルとシリアが和平交渉に入り、ゴラン高原の返還問題が話し合われたが、その時は合意に達しなかった。

 アサド大統領は1967年にゴラン高原を奪われた際、すでにシリアの国防大臣などを経験し、政権中枢の人物だった。同時期にシナイ半島をイスラエルに取られたエジプトは1979年にイスラエルと和解し、半島を返還させている。その後20年もたっているのに、アサドが単に奪われた土地を返してもらうだけだと、「アサドのせいでゴラン高原の20年間が無駄になった」と国内で言われかねない。シリアは独裁的な国なので表面的には反発は出ないが、アサド政権が終わった後に影響が出るかもしれない。

 そのためシリアは、1967年の国境ではなく1948年の国境まで戻すように主張し、交渉はまとまらなかった。(1948年の国境だと、ガラリア湖の湖畔の一部がシリアの領土になる。この地域では、水はとても貴重な資源だ)

 この交渉では、イスラエルはゴラン高原とレバノン南部から撤退する代わりに、シリアとその傘下のヒズボラなどは二度とイスラエルを攻撃しない、という交換条件を成立させようとしていた。

 それは実らなかったのだが、イスラエルのバラクは、レバノン南部から無条件に撤退しても、政権末期に入っているシリアはこれ以上イスラエルを攻撃してこないだろう、と読んだのだろう。しかもイスラエルが一方的に撤退すれば、その後もレバノンを支配し続けるシリアに対する風当たりも強くなる可能性があった。

▼突然の撤退が生み出した危機

 こうしてバラクは選挙公約どおり今年7月にレバノン南部から撤退する方針を打ち出したのだが、それが次第に確実になってきた5月下旬、イスラエル軍撤退によって置き去りにされる可能性が強い南レバノン軍の兵士や家族たちが、いっせいにイスラエル領内に逃げ出した。イスラエル軍はヒズボラと直接向き合うことになった。

 南レバノン軍に戦死者が出てもイスラエル世論にほとんど影響を与えないが、正規軍に死者が出たら大変なので、イスラエルはすぐに完全撤退せざるを得なくなった。イスラエルの撤退は、ヒズボラ側にとっては予期せぬ大勝利となった。これによってレバノンの内政に変化が起きることは確実だ。

 そしてレバノンには、1982年にアラファトが逃げ出した後も、約20万人以上のパレスチナ人が難民として残り、市民としての権利も与えられず、失業率80%という状態で難民キャンプに住んでいる。

 彼らはイスラエル軍の撤退によって、直接かつての自分たちの故郷の地を国境のフェンス越しに遠望できるようになった。彼らはどんな気持ちで「奪われた故郷」を眺め始めているのだろう。今のところ、レバノン側からイスラエルへの攻撃は起きていないが、一触即発の状態であることは間違いない。

(続く)



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