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イラク日記(6)庶民生活

2003年1月28日   田中 宇

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 イラクには英字新聞が一紙ある。政府系の「イラク・デイリー」という16ページのタブロイド版の日刊紙だが、インクがかすれていたりして、経済制裁下で節約して作っていることがうかがえる。毎朝、ホテルのフロントに無料で置いてあるので読んでみたが、1面には毎日必ずサダム・フセイン大統領のことが写真つきで載っている。閣議を開いたとか、海外の要人を迎えたとか、演説したとか、そういったことだ。

 直球の宣伝記事が載っている感じの1面をめくると、後ろの面には変化球系の記事が載っている。面白かったのは1月8日の15面下の記事で「医法人類学的な調査をもとにイエス・キリストの顔をコンピューターグラフィックで復元してみたところ、欧州人の顔ではなく、浅黒い中東系の貧民の顔になった」という内容だ。

 この記事を載せることにより、イラク当局の人たちは「君たち欧米のキリスト教徒たちが拝んでいるキリストは、実は君たちの側の人間ではなく、僕たちの側の人間なのだよ」と言いたいのだろう。この記事は、イラク側がねつ造したものではない。CNNが報じたもので、実はCNNのウェブサイトにある記事と写真を含めて全く同じだ。

 CNNのサイトにアップされた日時まで載っているので、ウェブ上からコピーしてきたものに違いない。BBCのサイトからコピーしてきた別の記事もあった。

 もう一つ私の興味を引いたのは、1月14日の7面に出ていた「イラクの結婚をめぐる伝統」(Marriage in Iraqi Tradition)という記事だ。単にイラクにおける結婚のやり方を紹介しただけの記事で、政治的な宣伝臭やニュース性の少ない、埋め草的な記事である。

 両親や親戚が、適齢期の息子に合いそうな女性を見つけると、お茶をご馳走になりに行く。すぐに花嫁候補の女性本人は出てこず、彼女の父母や親戚と雑談していると、彼女自身がお盆に入れたお茶を運んでくる。新郎側の肉親は、彼女がお茶を出し、再び奥の台所に消えるまでの数分間で品定めを行う。その後、両家は「ダウリ」と呼ばれる、新郎側から新婦側への持参金の額を話し合う。ダウリは、新郎新婦が使う新しい家具一式を買うために使われる。そのほか新郎側から新婦に、金のブレスレットとネックレス、結婚式で着る衣装などが贈られる・・・といった感じのことが、この記事には書いてあった。

▼子供は7人?それとも2人?

 この記事の手続きだと、新郎と新婦は結婚が決まってからしか会えないことになる。昔の日本のようだ。私たちの車の運転手だったコミュニケーション省の職員モハメドは、この記事に載っているような結婚式をしたという。近所の人の紹介で結婚したというが「結婚が決まってからしか会えなかったけど、初めて見たときに一目惚れしたよ」という落ちが、モハメドの話にはついていた。もう1人の運転手アリは職場結婚、ガイドのフセインは大学時代の友だちと結婚したそうで、実際には恋愛結婚が多いとのことだった。

 結婚後の人生設計も、伝統的なイラク社会と最近のバクダッドでは違う。以前は子供を7人も8人も作るのがふつうで、既婚の女性は、産める限り常に妊娠していることが模範的な女性だとされていた。ところが、ガイドのフセイン(42歳)と運転手のアリ(30代前半)は子供が2人、もう1人の運転手のモハメドは1人しか子供がいなかった。フセインは「これ以上子供を作るつもりはない。子供は2人ぐらいまでにして、全員を大学までやるような教育を施した方がいい」と言う。周りの同世代の知人には7−8人の子供を持つ親もけっこういるそうで、イラク社会は多様化が進んでいるのだと思われた。

 湾岸戦争後の経済制裁は、イラク人の結婚にも影響を与えていた。新郎側から新婦側に渡される支度金(ダウリ)は、新婚家庭に必要な家具や調度品などをそろえるためにあるが、必要なものを満足にそろえようと思うと、1000万ディナール(60万円)ぐらいかかるが、猛烈なインフレにもかかわらず経済制裁で国庫に金がないので、公務員の給料は5万−10万ディナールのままだから、多くの人は息子のダウリを満足に出せない。(イラクは社会主義の国なので、就労者の多くが公務員)

 ダウリはかなり減額し、金のブレスレットなど象徴的なものにだけお金をかけ、結婚式も盛大にやらず、親族だけの小規模な会合で終わらせるケースが増えていると聞いた。私たちが泊まっていたアルラシードホテルでは毎週末(木曜日)、必ず鳴り物入りの結婚式が開かれ、ラッパや太鼓の音が聞こえていたが、ホテルで結婚式を挙行できるのは、前々回の記事で紹介したパソコンショップの店長に象徴されるような「密貿易」に支えられた民間経済にたずさわっている少数の人々だけだ。

(国連の経済制裁など認めない、という立場に立つなら「密貿易」などと呼ぶ方が間違っているということになる)

 結婚式が多いのは、間もなく米軍の侵攻が始まる可能性が高いので、その前に所帯を固めておいた方がいい、と考えている人が多いからだという。

▼おしゃれな金製品は外国製

 結婚前に贈られる金のブレスレットや指輪など、金の宝飾品を売っている場所として有名な地域が、バクダッド市内に3カ所ある。その一つが、前回の記事で紹介した「カズミヤ廟モスク」の門前町であるカズミヤ地区である。モスクの前の大通りや、そこから入る横町に面して、間口が2メートルほどの小さな金製品の店が、100軒近く並んでいる。

 この手の金製品の商店街は、テヘランやダマスカスなど中東の大都市には大体ある。金製品の店は、金持ちだけが出入りする店ではない。アラブ全域で、庶民でも結婚式だけでなくいろいろな人生の節目に、金の腕輪や指輪を買う習慣がある。カズミヤ地区では、黒い布(アバーヤ)を頭からかぶったおばさんや娘さんたちが、店の中であれこれ品定めをしている光景を、店頭のガラス越しによく見かけた。

【写真】カズミヤ地区の金製品屋

 店の数は多いが、品数は意外に少ない。私は、妻へのお土産として金のピアスを買うため、何軒かの金製品屋に入ってみたが、繊細な作りの商品は少なかった。どこの店でも大体同じものを売っていて、少しおしゃれな感じのものは、イタリア製だったり、アラブ首長国連邦製だったりした。中東の金製品のほとんどは、日本で売っている商品より黄色が強く、日本人にはぎらぎらしすぎる感じを受ける。

 私の買い物はピアス3つで50ドルほどだった(金の重さを計って値段を決めていた)が、そのうちの一つはピアスを耳にとめる針の部分が太すぎて、使いものにならなかった。もう一つは安全ピンのようなやり方で耳にとめる形式だったが、安全ピン型の部分をうまくかみ合わせるのが難しく、脱着に手間のかかるものだった。

▼幅を利かせる韓国製品

 バクダッドにいくつかある繁華街のうち、カズミヤ廟モスクの門前町が「浅草」だとしたら、「青山」や「銀座」に相当するのがアラサート・ヒンディーヤ通りの一帯である。この地区には、外国製品のファッション店や、最新の電化製品を売る店、お洒落な高級レストランなどが並んでいる。カズミヤ地区と、アラサート・ヒンディーヤ地区は、市内の中央を流れるチグリス川をはさんで対称的な場所にある。

 アラサート・ヒンディーヤ通りで目を引いたのは、韓国の家電の家電メーカーLG電子の専門店である。ここにはテレビ、ビデオデッキ、ステレオコンポ、洗濯機、掃除機、パソコンなど、LG製品ばかりを扱っていた。いずれも日本で売っている製品とあまり変わらない価格で、地元のふつうの人にはとても手が届きそうもない。

 店員に客筋を尋ねると「民間セクターでビジネスをしている人々」だという。つまり、例のパソコンショップの店長など「密貿易」を前提にビジネスをしている人々である。政府幹部など選ばれた人々だけが受信を許される衛星放送も去年から始まっており、その受信機も売っていた。

 アラサート・ヒンディーヤ通りだけでなく、LG電子はバクダッド市内にいくつかのアウトレット店を構え、あちこちに巨大な看板を立てている。韓国政府は何年か前からバクダッドに通商代表部を置いており、韓国企業は1996年に経済制裁が緩和された後に経済が活性化しているイラク市場を狙った売り込み戦略を進めている。

 韓国だけではない。雑貨や衣料品などは中国製も大量に流入している。八百屋ではブロッコリが中国からの輸入だった。台湾からはパソコン部品などが入っている。タクシーに乗ると「コリア?、タイワン?、チャイナ?」と尋ねられた。出身国を尋ねているのだが「ジャパン」が入っていなかった。街頭で私の顔を見るなり「メイドインチャイナ!」と叫んだ通行人の青年もいた。

 日本企業は湾岸戦争前はイラクといろいろ商売していたが、その後、政府の方針でイラクから全面撤退し、まだほとんど戻ってきていない。日本勢が再進出をためらっているうちに、韓国や中国勢が、イラク市場を席巻している。「日本がアメリカの顔色ばかり見ていると、韓国や中国にイラク市場を盗られてしまうよ」とガイドのフセインは言う。韓国や中国に負けたくないと思っている日本人のメンタリティを、彼はよく知っていた。

▼肉を食べられない庶民生活

 高額商品についてはこのくらいにして、庶民でも買う日用品の価格について書く。バクダッドの中心に近い住宅街で、八百屋に入っていろいろな野菜の値段を尋ねたところ、1キロあたり、ジャガイモとタマネギが500ディナール(30円)、ミカンは1050ディナール(60円)、イラン産のリンゴは1750ディナール、中国産のブロッコリは2000ディナール、シリア産のイチゴは7500ディナール(470円)だった。野菜や果物の色つやは良く、おいしそうだ。

【写真】カラフルな八百屋

 次に、となりの雑貨屋で尋ねた。鶏卵1個100ディナール、国産タバコ1箱250ディナール、電球は国産が400ディナールで中国製は500ディナール。トルコ製パスタ一袋500ディナール。石鹸1個100ディナール。歩道にコンロを入れたカートを置いて営業しているお茶屋「チャイ屋」のお茶は一杯50ディナールだった。

 向かいの肉屋では、羊と牛の赤身の肉がそれぞれ1キロ4500ディナール(280円)、ソーセージは1キロ5500ディナール、羊の内蔵(腸)は1キロ1500ディナールだった。肉は、夏には1キロ7000ディナールぐらいに値上がりする。夏は雨が全く降らないので牧草が減り、肉の価格が高騰するのだそうだ。

【写真】値段を尋ねた肉屋の店先

 1ディナール1円ぐらいだとして考えると、日本の物価水準と大体似た感じになる。為替相場(1円が約16ディナール)から考えると、物価は日本の16分の1である。ところが、就業者の多数を占める公務員の月給は、教師が5万ディナール、医師が10万ディナールといったところなので、年収との単純比較で考えると、1ディナール10円ぐらいでないと釣り合わない。

(情報省のガイドのフセインは当初、教師の月給が5000ディナールだと言っていたが、後でフセインが教育省に連れていってくれたとき、対応した局長さんに「教師の給料が5000ディナールなのは安すぎないか」と尋ねたら「そんなに安くない」と言われ、実は5万ディナールぐらいもらっていることが分かった。外国人からの質問に対し、情報省は庶民の生活苦を強調しようとして、公務員の給与を低めに言い、物価水準を高めに言う戦略をとっているのかもしれない)

 このほか、イラク政府は全国民に対し、毎月9キロの小麦粉、3キロのコメのほか、植物油、砂糖、塩、お茶、洗剤など、最低限の生活に必要な物資を配給している。それらを加味しても、月給5万ディナールでは、食べるだけがやっとだろう。「一般の公務員の月給だけでは、安い野菜は買えても、肉を全く口にできない」とフセインが言っていた。1ディナール1円の物価水準だとしても、肉は冬季の安いシーズンでも100グラム450ディナールだから、肉の値段は日本の3−5倍ということになる。公務員の給与水準は、1ディナール1円換算よりもっと低いので、肉を買えないのは本当だろう。

▼札束の苦悩

 イラクでは石油産業が国有化されているので、湾岸戦争前のイラクは石油を輸出して国庫を潤していた。ところが湾岸戦争後の経済制裁で石油輸出が禁止され、1996年以後に制裁が緩和された後も、イラク政府は国連が認めた一定量の石油しか輸出することを許されていない。国家財政が貧しいままなので、公務員の給与を上げられないという事情がある。

 イラクの通貨ディナールの為替は、湾岸戦争前は1ディナールが3ドル(300円弱)だった。ところが湾岸戦争の敗戦と経済制裁でディナールの相場は急落し、私がイラクを訪れたときは1ドル2200ディナールだった。ものすごいインフレなので、政府が高額紙幣を準備する余裕がなく、最近まで最高額の紙幣は250ディナールだった。最近ようやく1万ディナール札が新規発行されたが、まだほとんど出回っていなかった。250の上の高額紙幣がいきなり1万になるあたりが、インフレのすごさを物語っている。

 事実上の最高額紙幣が250ディナール(15円)なので、100ドルも両替すると、ビニールの手提げ袋が一杯になってしまう。町の両替屋では黒いビニール袋をくれた。ホテルのパソコンで白黒のプリントアウトを1枚するのが250ディナールだった。お札の価値より、お札の印刷代の方が高いかもしれない。ちょっとした買い物をしに行くのに、100枚の札束をいくつも持って行かねばならない。250ディナール以外のお札は、ほとんど見なかった。

 お札の価額が250という区切りの悪い数字なので、買い物の支払いのときには何枚のお札を渡せばいいか、計算に苦労する。人々はよく「値段は○枚」という言い方をしていた。「250ディナール札で○枚」ということだ。少し高い買い物になってドルとディナールを混ぜて払うときなど、ディナールの方は店員も数えなかったりする。100枚の束の最初と最後の通し番号だけ見て100枚だということにしてしまっていた。

【写真】両替屋の店頭。輪ゴムで束ねた1センチほどの札束で100枚(1600円)

▼公務員に女性が多い理由は・・・

 私たちはイラク政府の教育省のほか、厚生省(保健省)にも行って局長級の幹部から説明を聞いたが、いずれの官庁も女性職員が多いのが目立った。さすがイラクは社会主義の国だけあって女性の社会進出が進んでいる、と思っていたら、教育省の局長は「最近は男性が公務員になりたがらないのが問題だ」と言う。給料が安すぎて、稼ぎ頭の男性が公務員を続けていると一家を食わせていけないので、多くの男性職員が退職して「民間セクター」に移ってしまったのだという。

 タクシー運転手、街頭のチャイ屋や露天の雑貨屋、廃品回収業などが、元手が少なくてもできる商売だ。廃品回収業の人に月収を尋ねたら15万ディナールだった。公務員の医者の1・5倍の収入である。

 最近は病院でも、従来の公営部門(医療費は完全無料)のほかに、医療費をとる代わりに良い医療を行うという民営部門を新設し、そちらの収入で医者の収入を底上げするケースが多いという。事実上の病院民営化である。無料のはずの公営部門でも、手術の際などに患者の家族が担当医師にお金を払うことを要請されるようになっていると聞いた。

 こうした傾向は「社会主義市場経済」の中国などでも同じだが、イラクのケースが特殊なのは、アメリカが大量破壊兵器にかこつけてイラクの石油輸出を阻止していることを止めれば、医療は無料に戻せるという点である。



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