イランの生き残り戦略2004年2月24日 田中 宇外からは「保守派」と対立しつつ「改革派」が少しずつ改革を進めているように見えるが、実はその対立は「民主化を進めろ」と圧力をかけてくる欧米や自国民を騙すための見せかけでしかない、という政府運営を行ってきたと思われる国が、世界にはいくつもある。 たとえば最近までの中国がそうだった。江沢民が国家主席だったときは李鵬が保守派を演じ「保守派が反対するので民主化を進められない」という言い訳がなされていたが、トップが胡錦涛に交代すると、今度は江沢民が「保守派」と目されるようになり、同じことが繰り返された。 この演技は、天安門事件以来、中国政府に対して「民主化せよ」と要求し続けたアメリカなどからの圧力をかわす目的があったと思われるが、昨年あたりからアメリカの世界戦略の中に占める中国の役割が「高度成長して世界経済を牽引してもらう」「東アジアの安定させるための政治的な要の国(地域覇権国)になってもらう」ということに変わり、アメリカ中国への民主化要求も弱まったため、最近の中国は「保守派と改革派の対立」を演じる状態から卒業して「大国」と見なされるようになり始めている。 一方、ミャンマーの軍事政権は、いまだに「保守派と改革派」の対立を演じている。政権トップのタンシュエ首相は保守派で、ナンバー3のキンニュン中将が改革派ということになっているのだが、改革はほとんど進んでいない。(関連記事) ▼ハタミ大統領を使った「対立演技体制」 もう一カ国「保守派と改革派」の対立を演じてきたのが、中東のイランである。イランで「対立演技体制」が作られたのは1997年の選挙で、それまでほとんど無名だったハタミ師が勝って大統領になったときだった。 イランでは1979年のイスラム革命によって、それまでの欧米型国家を目指す立憲君主制のパーレビ王室が倒された。その後、革命を起こした人々の内部で、イスラム教による政治を重視するホメイニ師ら「保守派」と、政教分離や民主主義の徹底などを望む「改革派」との対立が深まった末に保守派が優勢になり、ホメイニらイスラム法学者(聖職者、ファギーフ)が独裁的に権力を握る「イスラム統治体制」(ヴェラーヤテ・ファギーフ)が確立した。 国民の中には改革派を支持する人も多かったが、保守派は1980年からイラン・イラク戦争が起きたのを機に改革派を弾圧し、選挙を経て就任していた改革派のバニサドル大統領を弾劾して追放し、イスラム統治体制を強化した。1988年にイラン・イラク戦争が終わり、翌年にはホメイニ師が死去、冷戦終結や湾岸戦争など、周辺情勢が激変する中、イランの聖職者たちは欧米との関係改善を模索した。だが、ヨーロッパとの関係はある程度改善したものの、アメリカとの関係は良くならなかった。 (シーア派のイスラム教は、イスラム化する前のメソポタミアの宗教を内包しているため解釈の自由度が高く、政治のあり方に対しても多様な主張が出る。イランのイスラム法学者の中には、ホメイニ師のようなタカ派から、ハタミ師のような改革派、ラフサンジャニ師のような穏健保守派など、いろいろな意見がある)(関連記事) イラン政治の冷戦後の停滞が変化し始めたのは、1996年ごろからアメリカのクリントン政権が外交政策におけるタカ派的な傾向を強め「イラン・リビア制裁法」などを発動したことが一つのきっかけだった。同時期にドイツなどもイランに民主化を要求した。 ▼「諮問会議」でしかないイランの「国会」 従来、イランの選挙に立候補するにはイスラム法学者たちで構成する「護憲評議会」の事前審査をパスしなければならず、改革派の多くが立候補を阻まれていた。法学者たちは、その規則自体は変えず、運用を少しずつゆるめ、政界で改革派が活躍できるようにした。これは、欧米からの批判を緩和するためだったと思われる。 1997年の大統領選挙では、民主化を政策として打ち出した改革派のハタミ師が立候補し、投票率90%、得票率70%で保守派の候補に圧勝した。穏健派は国会での議席も増やし、やがて穏健派が多数派を構成するまでになった。イスラム的に厳格な規制をはめられていた国民生活の制限も少しずつ緩められた。 とはいえ、イランでは国会や大統領のさらに上に、イスラム法学者の「護憲評議会」や「専門家会議」があり、護憲評議会は国会の決議をイスラム法に合致していないとして棄却できる。また、大統領は行政府の長というだけで、軍の統帥権など国家の最高権力は専門家会議が選出する「最高指導者」(初代ホメイニ師の死後、ハメネイ師が就任)が握っている。(イランの国会の正式名称は「イスラム諮問会議」で、名前からして国権の最高決定機関ではない) 国会は、いくつかの改革的な立法を行ったが、たびたび護憲評議会によって棄却された。改革派の新聞もいくつも発刊を許されたが、イスラム独裁を批判すると廃刊処分になった。結局のところ、改革派が与党や大統領になっても、それは保守派の手の中で踊っているだけだった。ハタミ政権がスタートして7年がすぎ、すでにイラン国民はハタミら改革派に対する失望感を強めている。 ▼辞任を賭したはずが辞めなかった改革派幹部 だから、イランで2月20日に行われた国会議員選挙の事前審査で、護憲評議会が約8000人の立候補希望者のうち2000人以上の立候補を禁止し、これに抗議して改革派の国会議員たちが1月末から国会内で座り込みを開始した際、イラン国民は改革派を支持するデモ行進などをほとんど行わなかった。アメリカのネオコン派系新聞の中には「改革派は敗北する可能性が強かったのに、立候補を禁止されたことを良いことに、保守派批判を強めた」と分析するものもある。(関連記事) ハタミ大統領を含む何人かの改革派の閣僚らも「護憲評議会が立候補禁止処分を取り消さなければ辞任する」と表明した。一時は選挙を延期して再検討する可能性も取りざたされたが、結局選挙は予定通り行われ、しかもハタミら改革派の政治家は誰も辞任しなかった。こうして実施された選挙の結果、国会は保守派が多数派になった。(関連記事) 改革派は国民に対し、投票を棄権するように呼びかけ、事前には投票率は30%を割るという予測も出たが、実際の投票率は約50%だった。投票率は首都テヘランでは約30%だったが、その他の地方では60−70%で、リベラルな知識人が多い都会と、保守的な風土の地方では、国民の意識に大きな差があることが示された。 改革派の多くは、イスラム統治体制そのものをなくすことは主張しておらず、既存の制度を部分的に改善すべきだと考えていた。イスラム革命から25年がすぎ、若者の人口比率が多い(6割が20代以下)イラン国民の中には「そもそもイスラム統治体制などという独裁体制を止めるべきだ」と考える人が増えており、昨年6月には政教分離を求める大学生のデモも起きている。(関連記事) 彼らは保守派でも改革派でもないという意味で「第三勢力」と呼ばれ、欧米のマスコミでは「改革派が敗退した今後は第三勢力と保守派の一騎打ちとなり、いずれ第三勢力が勝つ」と予測する向きもある。だが、今のところ第三勢力を代弁するリーダー的な存在の政治家やイスラム法学者がいない。 ▼アメリカの失敗で優勢になるイランの保守派 なぜ今の時期に保守派が強硬な姿勢に転じ、改革派を使った演技を止めたのか、その背景を考えていくと、意外に保守派は強いかもしれないという分析も成り立つ。考えるべき点の一つは、アメリカとの関係である。911後、アメリカがアフガニスタンとイラクに侵攻し、アフガン戦争を口実に中央アジア諸国にも米軍基地がいくつも作られ、イランは東西と北から米軍に包囲された。イランは「悪の枢軸」としても名指しされ、いつ米軍に攻め込まれてもおかしくない状態になった。 事態がここで止まっていたら、イランの保守派としてはむしろ改革を進めているふりを強めた方が「うちは民主化してますよ」と言えて得策だったかもしれない。イラク侵攻を機にアメリカとEUの関係が悪化したが、EUはイランに対して割と友好的で、2002年12月にはイランが人権問題を改善すればEUは欧州市場でイランの製品が売れるようする、という関係強化も実現しており、アメリカがイランに攻め込みそうになったら強硬に反対してくれそうだった。(関連記事) ところがその後、アメリカはイラクの戦後処理を泥沼化させ、アフガン統治も失敗が明らかになった。「中東を民主化する」と豪語していたアメリカは、逆に今やEUや国連といった国際協調主義の勢力に助けてもらわないと、イラクでもアフガンでも行き詰まりから脱せなくなっている。 再選を狙うブッシュ大統領は、11月の大統領選挙の前にイラクの政権をイラク人に委譲した上で治安を改善し「イラクを民主化した」と宣言できる状態にすることを至上命題としている。そのためには米政府は、イラクの多数派であるシーア派に政権移譲のやり方について納得させ、同時にイラクからの分離独立を希求しているクルド人に対し、しばらく分離独立の動きを止めさせておく必要がある。 そしてイランは、イラクのシーア派とクルド人に対してかなりの影響力を持っている。イランも国民のほとんどはシーア派で、イラクのシーア派の最高指導者であるシステーニ師はイラン生まれ(つまりイラン人)である。シーア派最大の聖地はイラクのナジャフで、そこに住む聖職者の中にはイラン出身者が多い。イランとイラクで、両国の国境地帯にある油田を共同開発する構想も持ち上がっている。(関連記事) (システーニは従来、イランの保守派を批判する態度をとってきたが、それは仇敵イランを敵視する傾向が強かったフセイン政権の政策に逆らわないようにするための処世術だった可能性がある。イランの選挙の直前、選挙から外された改革派の人々がシステーニに宛てて「イランの保守派を批判してください」と嘆願する手紙を書いたが、無視されている。アメリカに対するシステーニの姿勢も動いており、彼は改革派というより現実派なのだろう)(関連記事) ▼イラク復興でイランの助けを借りたいアメリカ また、クルド人の二大勢力のうちの一つであるPUKは、イランから支援を受けてフセイン政権と対峙してきた。PUK指導者のタラバニ議長はペルシャ語(イラン語)を流暢に話す。新生イラクの暫定政権の準備会ともいうべき暫定評議会のメンバーの多くが、イラン詣でをしている。ネオコンの傀儡で評議会員であるアハマド・チャラビ(シーア派)も、何回かイランを訪れている。(関連記事) アメリカがイラクのシーア派やクルド人に言うことを聞かせたければ、イランに頼むのが得策なのだが、これまでずっとイラン政府の中で対イラクを含む外交政策を握ってきたのはホメイニ師以来の保守派勢力である。改革派は、外交的な権限をほとんど持っていない。大統領選挙で時間的な制約がきついブッシュ政権としては、イランの政権転覆を待って改革派と交渉するだけの余裕がない。保守派政権を容認した上で、イラクの安定化に協力してもらうしかない。 イランの選挙前の1月、ブッシュ政権は上院議員らのグループをイランに訪問させる計画を立て、イラン側に打診した。選挙前の微妙な時期で、そんなときにアメリカ人が25年ぶりに訪問してきたら、テヘランの改革派や若者たちがその機に乗じて反政府デモをやって騒乱になるかもしれないので、イランの保守派政権はこの訪問の申し出を断った。(関連記事) 訪問の話は流れたものの、アメリカがこのような提案をしてきたということは、イラク復興にイランを協力させたいのだと思われる。協力の見返りは、イランの保守派政権に対する敵視をやめるというアメリカの確約だろう。中東ではすでにリビアがこの路線を先行している。こう考えると、イランの保守派もすでにアメリカから半分許されているようなものだ。昨年10月の時点で、すでにアメリカとイランが秘密交渉をしているという報道もあった。だから、もはや改革派を使った演技が必要なくなったのではないかと思われる。(関連記事) ▼民主化しなくても経済成長すれば イランは最近、核兵器開発をめぐる疑惑を持たれているが、これについても、欧米やIAEAと交渉しているのは保守派のロハニ師という聖職者で、最高指導者であるハメネイ師に直結した人物である。EUの外交官はAFP通信に対して「今後、保守派がイランの国会だけでなく、大統領府も押さえるかもしれない(つまりハタミ大統領が失脚するかもしれない)が、われわれはずっと保守派と交渉してきたから問題はない」と述べている。(関連記事) EUの高官はイランの選挙に対し「改革派の立候補が禁止された不正選挙で、今後の交渉が進まなくなるかもしれない」とコメントしているが、その実、EU側はイランの民主体制が見せかけだけだということを以前から熟知し、保守派とだけ交渉してきたのだった。(関連記事) イランの保守派は、これまで反米色を強く打ち出してきたが、実際の外交政策では、もはやほとんど反米ではなくなっている。保守派は、今回の選挙で民主主義を後退させたものの、今後はリビアと同様、核兵器開発を進めていたことを認めた上で、アメリカやEUと外交関係の改善を進め、経済を上向かせて国民からの反発を緩和する方向に進む可能性もある。中国が政治の民主化を全く進めないにもかかわらず、経済成長を実現したため国民の不満をおさえるのに成功しているのと同じ道である。 選挙が終わったとたん、イラン政府の高官が「アメリカの石油会社を拒むつもりはない」というメッセージを発した。これはイランの保守派の外交に対する自信を示しているが、アメリカにはイランへの投資を禁止するイラン・リビア制裁法があり、その解除を米議会が決定する可能性は今のところない。(関連記事) ▼EUの中東展開 むしろ、今後イランとの親密さを増しそうなのは、ドイツを中心とするEUである。EUは昨年秋の「ソラナ・ペーパー」で、EUが外交力を行使する影響圏を、中東からアフガニスタンまで拡大する構想を打ち出している。すでにアフガニスタンにはNATO軍のかたちでEUが進出しているし、トルコもEU加盟に向けて動いている。これでトルコとアフガニスタンの間にあるイランがEUと親密な関係を結べば、EUのソラナ構想は現実のものとなる。(関連記事) EUの中でも、イランとの関係緊密化に最も積極的なのはドイツである。ドイツは戦前の帝国主義時代にイランへの覇権拡大を目指していたことがある。ドイツの主導でEUがイランとの関係強化に動いていることは「ドイツ外交の復活」であると指摘されている。イラン人の方でも、ドイツ人に親近感を持っている。私は以前イランを訪れたとき、イラン人から「アラブ人はユダヤ人と同じセム系だが、われわれイラン人はアーリア系でドイツ人と同じ人種なので優れている」といった発言を聞き、驚いたことがある。(関連記事) EUはかなり積極的で、昨年10月にイランの核開発疑惑が持ち上がり、イランが北朝鮮を真似て強硬姿勢をとり続けようとしたとき、ドイツ、フランス、イギリスの3人の外相が一緒にテヘランを電撃訪問し、イランの保守派重鎮たちと話し合って譲歩させている。このときEUは「イランが核兵器開発を止めたら、代わりにEUが発電用の原発を用意する」という提案をしている。これは、かつて米クリントン政権が北朝鮮に対して提案したのと同じ解決方法である。 ▼日本も油田開発で・・・ ドイツだけでなく、イランとの関係を契機に半世紀ぶりに外交力を復活させるかもしれない国がもう一つある。それは、わが日本である。日本政府はイランで選挙が行われる前日の2月19日、イランのアザデガン油田を共同開発することで合意調印した。この開発計画は昨年から日本が希望していたものだが、イランを敵視するアメリカからの反対を受け、日本側が動きを止めていた。イラン側は、開発権を中国やEU勢に譲ってしまうと脅したが、アメリカの意向を恐れる日本は、なかなか動こうとしなかった。(関連記事) 選挙後、イランがEUやアメリカと接近していく可能性があることを考えると、選挙直前のタイミングは日本にとって最後のチャンスだった。選挙後に日本がのこのこと出かけていっても、もはやイラン側は不利な条件でしか応じてくれなかったかもしれない。 アザデガン油田開発の決定は、これまでアメリカに対してほとんど逆らったことがなかった戦後の日本が、エネルギー確保という「国益」問題を突きつけられ、ようやく独自の意志決定を行った911後初めてのケースだろう。日本政府はこの件で「必要なときはアメリカに逆らっても良いのだ」という感触を得たのではないかと思われる。 日本はかつてイスラム革命前にイランで大規模な石油化学プロジェクトを展開したが、革命後イランが反米に転じたため、巨額の損失を出して撤退した経緯がある。本音では、日本はもっとイランなど中東諸国でエネルギー開発を展開したいはずである。 私なりのうがった見方をすれば、アメリカの覇権を自ら縮小したい中道派は、日本が外交的に自立し、中国と組んでアジアの安定を維持するために動いてほしい、と考えているのではないかと思われる。その意味では、日本がアメリカの反対を押し切ってアザデガンの油田開発に調印したことは「臆病な息子がようやく少し親離れしてくれた」という状況なのかもしれない。
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