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ミャンマー民主化をめぐる駆け引き

2003年7月8日   田中 宇

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 東南アジアのミャンマー北部のシャン州で5月30日、地方遊説中だったアウンサン・スーチー女史の一行を、群衆が襲った。スーチーと支持者の一行が15台の自動車と約100台のバイクでディペイン(Dipeyin)という村にさしかかったとき、路上で待ちかまえていた数百人の群衆が、竹やりやこん棒で一行を襲撃した。ミャンマー当局によると、2時間の乱闘の後、警察が介入したときには、2人が死亡、50人が負傷していた(タイの反政府勢力によると死者は数10人)。(関連記事

 当局は「スーチー女史の身の安全を守るため」と称して、スーチーと彼女の政党(国民民主連盟、NLD)の幹部を拘束し、現時点(7月7日)でも、まだ釈放していない。さらに、ミャンマー政府は各地のNLD事務所を閉鎖し、反政府運動が起こりやすい全国の大学を休校にした。

 スーチーを襲撃したのは、軍事政権に雇われた武装群衆(民兵)だった可能性が強い。スーチーは今年4月にチン州を遊説中にも同様の武装集団に襲われており、今回は警戒してスーチー一行の自動車にもこん棒などの自衛武具が積まれていた。ミャンマー政府は、武装群衆にスーチーを襲わせておいて「危険なので身柄を安全なところに移す」といって拘束する自作自演を行った可能性が高い。

▼新たな和解交渉の直前に起きた拘束事件

 スーチーらNLDと軍事政権とは、昨年5月から和解の時期に入っており、6月上旬には国連特使が仲介する新たな和解交渉が始まるはずだった。

 昨年5月にスーチーは1年半ぶりに自宅軟禁を解かれ、毎月のように地方を遊説して回るとともに、軍事政権側との話し合いを重ねた。スーチーは軍事政権に対する厳しい非難を控えるとともに、どこを遊説するか事前に政権側と話し合った上で出発し、行く先々で政権側から接待を受けることもあった。

 軍事政権側はスーチーと和解の過程に入る前の2001年11月、日本の小泉首相と会談した際「スーチーを政権に入れて連立政権とすることも考えている」と語っている。軍事政権にとっては、スーチーと和解しない限り、海外からの投資を呼び込めず、国民経済が疲弊して暴動が起きかねないという事情があった。(関連記事

 和解工作は最初の数カ月間はうまく行っていたが、その後は再び対立が目立つようになった。スーチーは今年に入って軍事政権に対する批判を強め、政権との和解は行き詰まった。その理由は、スーチー側に立つ見方だと、軍事政権はまじめに交渉してスーチーを政権に入れようとする気などなく、欧米の非難をかわすため形式的な交渉の場を重ねているだけであることが分かったため、政権に対する非難を再開した、ということになる。

 一方、軍事政権側に立つ見方だと、スーチーは今年1月に在ミャンマーのアメリカ政府代表(事実上の大使)と会った後、政権に対する非難を再開した。アメリカの対ミャンマー政策の変化を受け、スーチーの政府批判も再開された、というわけだ。1995年にも、アメリカのオルブライト国連大使(その後国務長官)がミャンマーを訪問した後、スーチーが急に強硬論に転じた経緯があるという。(関連記事

 今年に入ってスーチーと政権との摩擦が再発した後も、スーチーの地方遊説は続けられ、今年4月には中部のチン州などの21の町々を回り、5月6日からは1カ月の日程で北部のカチン州、シャン州などを回っていた。この旅程があと数日で終わるという5月30日に襲撃事件が起こり、スーチーは拘束された。

 スーチーが今回の北部遊説を無事終えていたら、その後は、スーチーと軍事政権とのさらなる交渉が予定されていた。スーチーが拘束された数日後の6月6日、国連がマレーシアの国連大使であるラザリ・イスマイル(Razali Ismail)を特使としてミャンマーに派遣したが、この日にラザリがヤンゴンに着くことは襲撃以前から決まっていた。(関連記事

 もともと、昨年5月から始まったスーチーと軍事政権との和解も、ラザリの仲介の成果だった。その後、今年に入ってスーチーと政権の関係が悪化したのと並行して、軍事政権はラザリにミャンマー入国ビザを出さなくなっていた。3カ月ぶりに入国ビザが発給され、ラザリが新しい和解を仲介するためにヤンゴンに向かおうとしたその矢先に、スーチーが拘束された。

▼軍事政権の中枢は分裂している?

 軍事政権は、国連大使に入国ビザを発給してスーチーとの対話を進める姿勢を打ち出しながら、その一方でその対話の直前にスーチーを拘束してしまうという、矛盾した行為を行っている。この矛盾の背景には、軍事政権の内部が改革派と強硬派に分かれているということがある、とも指摘されている。(関連記事

 ミャンマー軍事政権の中枢は、3人の将軍で構成されている。トップにいるのがタンシュエ上級大将(Than Shwe)で、最高権力機関である国家平和発展評議会(SPDC)の議長と首相を兼務している。ナンバー2はマウンエイ大将(Maung Aye)で、陸軍を統括している。ナンバー3がキンニュン中将(Khin Nyunt)で、諜報や公安部門を統括している。

 トップのタンシュエとナンバー2のマウンエイは保守派で、スーチーとの交渉に消極的である一方、ナンバー3のキンニュンは改革派で、スーチーとの交渉や、海外からの投資を増加させることの重要性を主張してきた。(関連記事

 国連のラザリに仲介してもらい、スーチーを軍事政権側に取り込むという戦略は、改革派のキンニュンが主導してきたが、スーチーとの和解が進むことで、改革派に政権を乗っ取られるのではないかと恐れた保守派のタンシュエらは、襲撃事件を起こしてラザリのヤンゴン到着の直前にスーチーを拘束してしまった、というのが「軍事政権分裂論」である。(関連記事

 ラザリ自身、軍事政権内の分裂が、今回のスーチー拘束事件の背景にあったことを示唆している。ラザリは、軍事政権に圧力をかけすぎると、逆に政権内の改革派が外国の傀儡だといわれて攻撃される環境を作るので、強硬派を有利にしてしまい、民主化をますます遠のかせると考えて、軍事政権に対してあまり強硬な態度をとらないようにしてきたふしがある。(関連記事

 とはいうものの、軍事政権は本当に中枢が分裂しているのではなく、役割を決めて振る舞い、分裂したふりをしている可能性もある。改革派と保守派が政権内で戦っているという構図を外部に信じさせれば、圧力をかけてくる外国との交渉を「改革派」が担当し「われわれ改革派が弱くなるので圧力をかけないでほしい」と外国勢にお願いできる。

 このような演技は、世界のいろいろな国で行われている。中国に関しては、これまで「改革派の江沢民と保守派の李鵬が対立しているので、江沢民政権はなかなか改革を進められない」という「解説」をアメリカの親中国的な記事の中にときどき目にした。アメリカでも、イラク戦争の前からかいま見られるネオコン(国防総省)と中道派(国務省)の対立の構図について、本当の対立なのか、それとも対立するふりをしているのか、判断が難しい。

 政権トップのタンシュエは、ラザリ特使がヤンゴンにいる間、ずっとヤンゴンから遠い海辺のリゾート地に滞在していた。このことから、スーチー拘束事件の直後に、キンニュンらがタンシュエの権力を剥奪する無血クーデターが行われたのではないか、とみる向きもある。だとしたら、スーチーは政権中枢がクーデター後に再び安定するまでの間、拘束されているという可能性もある。(関連記事

 だがその一方で、政権中枢のSPDC内部ではトップのタンシュエが今年2月に中国を訪問して以降、中国との関係が強化できそうなので民主化の必要性はないと判断し、スーチーとの交渉打ち切りに動いたという指摘もある。こちらの分析に基づくなら、スーチー拘束の意味は、むしろ改革派が政権内で弱体化した結果だということになる。(関連記事

▼スーチーと軍事政権

 ミャンマーでは1962年のクーデター以来、軍事政権が続いている。1970年代からゆっくりと民政化しようとしたが失敗し、1987年には市場経済化に失敗して国民生活が悪化する中、軍事政権に反対する大衆が決起したが、鎮圧された。

 この激動を見て、ミャンマー建国時の英雄だった故アウンサン将軍の娘アウンサン・スーチーが、長く住んでいたイギリスから帰国して民主化運動を指揮し、自宅軟禁にされながら1990年の国政選挙で野党だったNLDを圧勝させた。ところが、選挙で負けた軍事政権はNLDへの政権の引き渡しを拒否し、スーチーの自宅軟禁を続けた。1995年以降、軍事政権は欧米からの圧力を受け、スーチーの自宅軟禁を解除したり再開したりという状態を続けた。

 欧米を中心とする「国際社会」は1991年にはスーチーにノーベル平和賞を与えて民主化運動を鼓舞し、その後はミャンマーに対して経済制裁を科した。1997年に東南アジアを襲ったアジア経済危機の余波で、ミャンマー経済はさらに悪化した。行き詰まった軍事政権は1997年、経済改革や必要最低限の政治民主化を重視する新体制に移行したが、その後も大した変化は起きていない。

 スーチーを擁護して強硬な態度を続ける欧米諸国とは対照的に、中国やASEANは、急速に民主化するとミャンマー社会が混乱し、かえって人々の暮らしが悪化すると懸念している。

 欧米が中国や第三世界諸国に対して急速な民主化を要求するのは、それらの国々を不安定にして弱体化させ、欧米に対して従順な体制へと変化させたいという意図が見え隠れしている。中国や東南アジア諸国は、そのことを身をもって知っているから、ミャンマーの軍事政権に対して強硬姿勢をとらないのだろう。

 スーチー自身、イギリスがミャンマーを混乱させるために送り込んできたエージェントだという見方もある。(それとは逆に、そもそもスーチーの父親で国民的英雄だったアウンサン将軍を1947年に暗殺した黒幕は、1962年のクーデターで政権を乗っ取ったネウィン将軍(昨年死去)であり、その後40年も続くネウィンの暗黒支配を終わらせようと、父のかたき討ちと救国のため、アウンサンの娘スーチーが祖国に戻ってきたのは素晴らしいことだ、という見方もある)

▼中国、インドとの三角関係

 イラク戦争以来、アメリカがどこかの国に「民主化」を強要するときは、表面上の言葉とは逆に、その国の体制や秩序を破壊したいのではないか、という懸念がますます強くなっており、国際政治の世界では「民主化」と「破壊」は同義語だったのかと考えたくなるが、その一方で、ミャンマーをめぐっては、欧米の民主化要求の中に謀略性を見いだす中国や東南アジア諸国の側も、別の謀略性をもって動いている。

 ミャンマーの北東に隣接する中国は、欧米の制裁によって減った分の貿易を埋めるかたちで経済関係を強化し、経済支援を増やす見返りに、ミャンマーの軍港を中国海軍の軍港として借用し、これまでライバルだったインドを包囲する軍事戦略を展開してきた。(関連記事

 先日、インドと中国が劇的な関係強化を表明したことにより、中国のインド包囲網は消えていく可能性がある。その一方でミャンマーは2年ほど前からインド製品のミャンマー市場への流入を許すことで、インドとの関係も強化している。インドは以前はスーチー支持を明言していたが、もうそれを言わなくなった。中国とインドが仲直りしたことで、ミャンマー、インド、中国の安定した三角関係が生まれるかもしれない。

 昨年5月、スーチーが自宅軟禁を解かれて民主化が「前進」した後、それまで欧米からの批判を気にしてミャンマーとの関係強化に慎重だった東南アジア諸国が動き出した。

 昨年8月には、マレーシアのマハティール首相が財界人250人を引き連れてヤンゴンを訪問し、ミャンマーの石油採掘権をマレーシア国営石油会社が得るという石油利権の獲得に動いた。このときマハティールは「民主化はゆっくりやらないと混乱に陥る」と軍事政権を擁護する発言をしている。(関連記事

▼中国包囲網とミャンマー

 アメリカの対ミャンマー政策は「新冷戦」としての「中国包囲網」と関係している。2001年初めに現ブッシュ政権が誕生した直後、同年3月には、アメリカの偵察機と中国の戦闘機がぶつかった「海南島事件」を機に、国防総省主導の中国敵視策がとられた(国務省が火消しをして米中関係を悪化させなかった)が、これと同時期にアメリカは「麻薬戦争」の名目でミャンマーでの戦争を激化させようとする作戦を行った。(関連記事

 2001年2月、タイ・ミャンマー国境近くで、ミャンマーからの独立を目指す少数民族シャン人とミャンマー軍との戦闘が激化し、この余波でタイ軍とミャンマー軍も交戦する事態になった。アメリカは、ベトナム戦争以来の同盟軍であるタイ軍をテコ入れするために40人の軍事顧問団をタイに送った。(関連記事

 米軍が介入した表向きの理由は「ミャンマーの少数民族地域で盛んな麻薬栽培を取り締まる」ということだったが、実のところ、タイ軍を通じてミャンマーの少数民族を軍事的にテコ入れし、ミャンマー山間部での内戦を長引かせ、米軍を中国辺境地域に長期間置いて中国をかく乱することだったと考えられる。

 アメリカは中南米のコロンビアやアフガニスタンでも「麻薬取り締まり」の名目での軍派遣を検討したり、実施したりしている。だが「麻薬戦争」の名目で世界への軍事覇権を維持しようとする国防総省の作戦は、911事件を機にお蔵入りした。「麻薬戦争」よりずっと米国民の納得を得やすい「テロ戦争」による長期的な世界軍事支配が可能になったからだった。(関連記事

 同時に「中国包囲網」の作戦も棚上げとなり、ブッシュ政権は中国を「敵」としてではなく、投資効率の良い「金づる」として扱うようになった。(関連記事

 アメリカの軍事介入が減った後、タイとミャンマーの関係は劇的に好転した。今ではタイのタクシン政権について「ミャンマーに甘すぎる」という批判記事が書かれるほどだ。昨年10月には両国の国境が公式に再開され、ミャンマー経済に大きな影響を与えるタイからの物資が再流入するようになった。(関連記事

▼ミャンマーでもロードマップ?

 スーチー拘束後、アメリカがもっと強硬な態度をとる可能性もあったが、それは今のところ起きていない。イラクの教訓から考えるなら、アメリカがテコ入れしてミャンマー軍事政権が倒れ、代わりに親米のスーチー政権になった場合、少数民族の独立要求が強まり、これまで軍事政権が少数民族を強圧的に抑えて維持していた国家としての統一が失われ、スハルト後のインドネシアやサダム後のイラクと同様、弱い国になっていき、混乱の中、ミャンマー国民の生活も向上しない可能性が大きい。

 こうした、ミャンマーが米軍に頼り続けるしかない弱い国として維持される状態は、中国包囲網の戦略をとり続けていたら、アメリカにとって好ましかったと思われる。だが、最近の記事で何回か書いているように、アメリカは中国に対して非常に寛容で、包囲網を解いた感がある。(関連記事

 ミャンマー軍事政権は「アメリカが中国包囲網を解いた以上、スーチーを拘束しても大した制裁は受けないだろう」「親米の日本から経済支援を打ち切られても中国を頼れる」などと判断し、スーチー拘束に踏み切った可能性もある。

 アメリカでは、ミャンマー系の研究者から「ミャンマーの民主化交渉にも、パレスチナ和平のようなロードマップが必要だ」という主張も出されている。ミャンマーの民主化をめぐる交渉は、双方が何を得たいのか、どこまで譲歩できるかといった事前の枠組みがないために進展しないのだ、ロードマップのような枠組みを作れば交渉が上手くいくのではないか、という指摘である。ミャンマーをめぐっても、ネオコン的な「政権転覆」と、中道派的な「ロードマップ」が存在していることになる。(関連記事

 今年2月、ミャンマー軍事政権は「民主化への道筋について、アメリカと話し合いたい」とアメリカ政府に持ちかけたが、無視された。政権トップのタンシュエが中国を訪問した直後で、中国政府から「アメリカに対話を持ちかけてみなさい」と言われたのかもしれない。これは、同時期に北朝鮮が「アメリカと話し合って不可侵条約を結びたい」というシグナルを発したが、アメリカから無視されたことと重なっている。(関連記事

 ミャンマー政権も北朝鮮と同様、このままではいずれ経済難から体制が崩壊するという恐怖感を持っており、だからこそアメリカから政権として承認されれば、世界から資金援助を得て政権を維持できると考えたのだろう。軍事政権がそれだけ窮しているということは、いずれミャンマーで再び民主化交渉が始まる可能性は高いと考えられる。



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