分解するイスラエル(2)「誰がユダヤ人か」をめぐる陣取り合戦

1999年6月2日  田中 宇


 この記事は「分解するイスラエル:2種類のユダヤ人」の続編です。

 イスラエルの首相と議会の選挙戦は、4月下旬から本格化した。各党はテレビコマーシャルを打って宣伝を始めたのだが、右派の大型政党であるリクードのテレビ広告には、ロシア語の字幕が入っていた。

 その他いくつかの中小政党のコマーシャルにも、ロシア語字幕が入っていたが、左派の大型政党である労働党の広告には、字幕が入っていなかった。

 労働党は、選挙戦について報じるマスコミのコメンテーターから、労働党は戦略が甘いと批判されたりしたため、慌てて2日目から、ロシア語字幕を入れるようになった。

 これらはすべて、イスラエルの有権者約400万人のうち14%を占めるロシア系住民への配慮だった。

 テレビ広告が始まって数日後には、リクードはロシア語の音声をつけたコマーシャルに、ヘブライ語の字幕を入れるというところまで、ロシア系の気を引くためのキャンペーンを強化した。(それまでのコマーシャルは、ヘブライ語の音声にロシア語の字幕だった)

 またネタニヤフ首相は、ユーゴスラビアの戦争に関して、セルビア側を擁護する姿勢をとり、同盟国アメリカを怒らせてしまったが、これもセルビアを擁護しているロシアと同じ立場をとることで、国内のロシア系有権者の支持を集めようとしたものだ。

 有権者の14%といえば、マイノリティである。それなのになぜ、ロシア系の票が、今回の選挙でそれほど重視されたのか。それはロシア系の人々が、それまでの与党だったリクードへの支持を止める可能性がある最大の集団だったからだった。

 イスラエルの選挙制度は、首相を直接選挙で決める。国民は議員だけを選び、国会が投票で首相を選出する間接選挙になっている日本やイギリスなどと異なり、イスラエルの有権者は、選挙時に国会議員と首相という2票を、別々の投票箱に入れる。

 ロシア系住民は、自分たちの党「ロシア移民党」を持っているが、首相候補は出していなかった。そのため、選挙戦の最終局面では一騎打ちとなったリクードのネタニヤフと労働党のバラクは、いずれもロシア系有権者の獲得に必死だった。

●三つの対立軸があるイスラエルの政治

 ロシア系住民は、1990年にソ連が崩壊して海外渡航が自由になってから、旧ソ連のロシアやウクライナから、大挙してイスラエルに移民してきた人々だ。彼らは、社会主義の時代を通じて、事実上、自由な信仰を許されていなかったので、全体としてみると、伝統的なユダヤ教の律法や習慣を維持していない人々が多い。つまり改革派ユダヤ教徒ということになる。

 そのため、労働党=改革派ユダヤ教徒、リクード=正統派(保守派)ユダヤ教徒、という図式の中では、ロシア移民党は労働党支持になりそうなのだが、現実のネタニヤフ政権下では、リクード支持であった。

 というのは、イスラエル2大政党の対立構図として、労働党=エリート、リクード=ブルーカラーというのがあって、それでいくと、あとからイスラエルに移民し、ヘブライ語も十分に話せない人が多いロシア系は、ブルーカラーが多いので、リクード支持になるからだ。

 また、もう一つの対立構図として、パレスチナ人との和平問題に関して、労働党=和平推進、リクード=和平に消極的、というのもあり、その点でもロシア系はリクード支持である。

 旧ソ連の人々は、かつて広々とした国に住んでいたので、狭いイスラエルに来ただけでも窮屈なのに、まして土地をパレスチナ人に返して、もっと国土が狭くなることなどゴメンだ、という心境が、ロシア系のパレスチナ人嫌いにつながっている、といわれている。

 このようにイスラエルでは、ユダヤ教の改革派VS正統派、エリートVS非エリート、和平支持VS和平反対という、少なくとも3つの対立軸があり、その綾の中で、ロシア系はネタニヤフ政権支持という状況にあった。

●厳しくなった「ユダヤ人」の定義

 このような複雑な構造の中で、結論としてネタニヤフ政権支持になっていたのは、ロシア系だけではなかった。

 超正統派ユダヤ教(ウルトラオーソドックス)の人々が集まって作られた「シャス」という政党も、改革派ユダヤ教徒のエリートたちを嫌っているという点で、ネタニヤフ政権の中に入っていた。

 そしてシャスは、ネタニヤフ政権の中で、内務大臣のポストを恒常的に与えられていた。内務省というのは、市民権やIDカードの発行、出生登録、結婚・離婚届の受理などを管轄している役所である。

 日本では、出生登録や離婚・結婚届け出の制度をめぐって大問題になることはないが、イスラエルはそうではない。「ユダヤ人の国」ということを条件に、多種多様な移民を受け入れて成長してきたイスラエルでは、「ユダヤ人」をどう定義するかによって、イスラエル国民として認められる人々の範囲が、狭くも広くもなる。

 またイスラエルでは、宗教抜きの結婚登録制度がなく、ユダヤ教のラビ(聖職者)が結婚を認めないと、役所が婚姻届を受理しない制度になっている。

 このように、内務大臣の決定いかんでは、イスラエルに住むことが認められても、国民になれない人、結婚を国に認めてもらえない人などが多数出てきてしまう仕組みになっている。

 そして、厳格にユダヤ教の立法を守るシャス党が、内務大臣を務め続けたことによって、「ユダヤ人」の定義は、非常に厳しいものになっていた。こうした政策の犠牲になった人々の多くが、ロシア系の移民だった。

 旧ソ連では、宗教によって人々が別々に生活する状況を嫌い、異教徒間の結婚や混住を奨励していた。人々の心の中にある宗教心をできるだけ薄め、社会主義という一つの信条にのみ、人々の心を集中させようとしたためだった。

 そのため、旧ソ連のユダヤ人の中には、キリスト教徒などと結婚した人が多かった。彼らがイスラエルに移民してきた際、適用されたイスラエルの法律は「帰還法」という、外務省が管理する入国管理の法律だった。この法律では、両親か祖父母のうち、誰かがユダヤ教徒であれば、ユダヤ人として認め、移民を許可する仕組みになっていた。

 こうして1990年のソ連崩壊以後、68万人が旧ソ連からイスラエルへと移民してきた。

 だが、イスラエル国内に引っ越してきたあと、市民権を得るためには、内務省が管轄する「宗教法」に基づく許可を得なければならなかった。ここでは、母がユダヤ教徒でなければ、たとえ父がユダヤ教徒だとしても、ユダヤ教徒として認められない。

 また、ユダヤ教への改宗はイスラエル国内のラビによるものしか有効ではないとしたため、海外で改宗した人がユダヤ教徒として認められず、イスラエル国籍も取得できなくなってしまった。

●内務省支配をめぐる対立で崩壊したネタニヤフ陣営

 こうした法律は、ネタニヤフ政権の後半である昨年にどんどん強化された。より多くのロシア系移民が市民権を受けられなくなったため、ロシア系のシャスに対する憎しみは強まっていった。

 ロシア移民党もシャスも、ネタニヤフ政権の連立内部にいたため、ネタニヤフ首相は何とかして両者の反目を静めようと、昨年各種の融和策をとったが、根本的な解決とはならなかった。

 そして今回の選挙活動が本格始動した4月末、ロシア移民党のナタン・シャランスキー党首が、テレビのコマーシャルとして放映した演説の中で、内務大臣のポストをシャスから奪い、ロシア移民党が握ることを、選挙を通じて獲得する第1目標とする、と宣言した。これはリクードの連立政権の枠を壊し、シャスに戦いを挑むことを意味していた。

 シャスのアリエ・デリ党首は翌日、ラジオのインタビューで反撃し、「ロシア移民の中の何万人もが、ニセモノのユダヤ人だったのに、移民として受け入れてやったのだ。彼らは(キリスト)教会に行く異教徒だし、(ユダヤ教の律法で禁じられている)豚肉を食べ、売買春をしているような人々なのだ」と述べた。

 ネタニヤフ首相は、急いで両者の対立を静めようとしたが、対立の溝は深く、そのうちに両党の支持者の中から、ネタニヤフを中心とする連立に見切りをつけ、バラク支持へと鞍替えする人々が続出した。

 特にロシア系は、バラクの労働党が、正統派ユダヤ教徒勢力が国政を牛耳ることに強く反対しているのに同調し、鞍替えが進んだ。シャスが支配していた内務省は、ユダヤ教の安息日である土曜日に、バスなどの公共交通の運行を禁止したり、レストランの営業を認めない政策を強行し、改革派系の人々の強い反発を招いており、労働党はこの流れに乗ったのだった。

 イスラエルでは、新たな移民集団を受け入れるたびに、国民の間の方向性のばらつきが広がり、国会の過半数を取るための連立政権が組みにくくなっている。

 ネタニヤフの連立政権が維持できなくなり、選挙で負けたのは、国内の各セクト間の矛盾が解決しにくくなっている中で、歴史的必然だったともいえる。新たに政権をとったバラクにとっても、この矛盾を解いていくことが難しいことには変わりない。

 今回の選挙では、リクードが選挙前の32議席から選挙後は19議席へと急減した半面、シャスは選挙前の10議席から17議席へと急増した。これは正統派ユダヤ教を信奉する人々が、リクードから、宗教色の濃いシャスへと支持を移したことを表している。ユダヤ教の正統派と改革派との対立姿勢は、政治的難題として、以前より鮮明になっている。

 もう一つ、ネタニヤフ政権を崩壊させた原因となったのは、パレスチナ和平問題に対する、党内の分裂だった。和平反対派だったはずのネタニヤフが、アメリカから非難され、嫌々ながら同意したわずかな譲歩が、党内の和平反対派から強く批判され、身内から不信任を突き付けられて崩壊したのだった。

 この問題について語り始めると、かなり長くなりそうなので、回を改めて書くことにする。

 (続く)

 


 

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