拉致問題終結の意味2014年5月30日 田中 宇5月29日、日本政府が北朝鮮との間で、拉致問題の再調査の見返りに経済制裁を緩和することで合意したと発表した数時間後、米国議会下院の外交委員会が、北朝鮮に対する経済制裁を強化する法案を可決した。新たな制裁は、資金洗浄と人権侵害に関するもので、核開発に対する既存の制裁の上に科される。たとえ北朝鮮がこんご中国などの圧力に応えて核兵器開発をやめたとしても、米国の対北制裁が残る仕組みになっている。北朝鮮に対する制裁を緩和する日本と、強化する米国という、日米が逆方向に動く事態になっている。 (US tightens North Korea sanctions) 米議会が審議中の新たな対北制裁は、北朝鮮がドルを使った国際決済をできないようにするものだ(ドルの国際決済はすべて米国のNY連銀を通過するので、そこで制裁する)。米国は07年にも同様の制裁を北朝鮮に科し、北朝鮮と取り引きしていた中国領マカオのデルタ銀行が制裁対象にされ、中国政府に大きな脅威を与えた。当時の米ブッシュ政権は、北核廃棄を目標にした6カ国協議の主導役を中国に押しつけ、その上で北への金融制裁を発動し、中国の銀行をも対象にすることで、中国に「早く6カ国協議を進めろ」と圧力をかけた。中国が脅威を感じて6カ国協議を進めて合意案を出すと、米国はそれに乗り、北に対する制裁を08年にいったん緩和した。 (北朝鮮制裁・デルタ銀行問題の謎) しかしその後、米国は北朝鮮との関係を改善せず中国に任せ切りにしたため、北朝鮮は核開発を再開し、3回にわたって核実験を行った。今年に入り、北が4回目の核実験実施をほのめかす中で、中国は北に圧力をかけ、中朝対立が強まった。米議会が北にドル使用禁止の制裁を再開することは、米国が中国に北の面倒を見させようとする動きの再強化を意味する。 (北朝鮮の核実験がもたらすもの) 冷戦時代の東西分断のなごりである北朝鮮を、崩壊させるにせよ、国際社会に受け入れるにせよ、どこかの大国がその軟着陸を主導する必要がある。昨今の米国は、北朝鮮を敵視する米韓合同軍事演習をさかんに行っているが、これは北朝鮮の脅威を煽るばかりだ。米国はもはや、北の脅威を低下させる解決策をほとんどせず、敵視するだけで放置している。1994年の枠組み合意締結から03年の6カ国協議開始まで主導役は米国だったが、その後は米国の希望により、主導役が中国に移っている。 (North Korea needs 'strategic shaping') 米国が北朝鮮問題の解決役だった時代に、米国は、北朝鮮の問題を解決することを通じて、極東の国際的な安全保障体制を、日韓の対米従属と中朝への敵視で構成されていた冷戦時代の体制から、日韓朝米中露が対等に協調するかたちに転換しようとしていた。94年の枠組み合意は、北が核開発施設を廃棄する見返りに、日韓が北に軽水炉を提供し、日韓から北への経済支援で北を経済的に安定させるシナリオだった。03年からの6カ国協議は、北が核を廃棄し、北朝鮮と日米韓が和解し、6カ国協議を朝鮮半島関連6カ国の地域安保協定に昇格することが最終目的だった。 (日米安保から北東アジア安保へ) いずれのシナリオでも、日韓は、北朝鮮と和解することで、北の脅威があるので対米従属が必要だという従来の国是を棄て、米国に頼らず独自の外交姿勢を持つ国是への転換を迫られる。日本が何も考えずに枠組み合意や6カ国協議に参加していると、米国の傘下から外されていきかねなかった。そこで日本政府は、98年から拉致問題を重要な外交案件に掲げて「たとえ米朝が和解しても、日本は拉致問題がある限り、北朝鮮と和解できず、敵視せざるを得ない」と言えるようにした。拉致問題は、ロシアとの和解を避けられる北方領土問題や、中国との和解を避けられる尖閣問題と同質の、日本が対米自立を避けるための「外交防波堤」だった。 (ヤルタ体制の復活) (6者協議進展で困る日本) 米国がずっと北朝鮮問題解決の主導役をしていたら、日本政府は拉致問題をずっと「解決」しなかっただろう。北朝鮮が謝罪しても、同時に渡してきた遺骨をDNA鑑定したところニセモノだったと憤って見せ(長く土の中にあって、地中の雑多な生物にさらされてきた遺骨を、DNA鑑定して本人のものと特定することは不可能だと、英国の科学誌ネイチャーが指摘したが、日本では無視された)、日本は拉致問題の解決を拒否した。 (北朝鮮6カ国合意と拉致問題) しかし03年から米国が中国に北朝鮮問題の解決役を押しつけ、胡錦涛の時代に消極的だった中国が、習近平政権になって北朝鮮問題の解決役をすることに本腰を入れるに至り、拉致問題に対する日本政府の姿勢が変化し始めた。米国が北朝鮮と和解して日韓を対米従属から押し出す見通しが消えた以上、拉致問題を使って日本が独自の北朝鮮敵視策を続ける必要はない。 今年3月には、日本政府が北朝鮮側と交渉し、モンゴルで、拉致被害者の横田めぐみさんの両親が、めぐみさんの娘キム・ウンギョンさんと面会する場を設けた。ウンギョンさんは、めぐみさんがすでに亡くなっていることを面会した祖父母に伝え、遺骨は別人のものだとする日本側の主張を全面否定した。この面会は、めぐみさんがすでに死んでいるとする北朝鮮の主張を日本側が追認せざるを得ない状況を作ることが事前に予測されていたが、それでも安倍政権は面会を実施した。 外交防波堤にする策を乗り越えて拉致問題を解決しようと02年に首相だった小泉純一郎が訪朝したが、事後の官僚機構のプロパガンダ策にかなわず失敗した。安倍首相は、小泉がやり切れなかった拉致問題の解決を成し遂げて、小泉を乗り越えることを目標にしている。外交防波堤としての拉致問題の政治的必要性が低下している以上、安倍は自分が訪朝し、拉致問題を解決した首相として歴史に名を残したいだろう。 (安倍靖国参拝の背景) 中国は、韓国と協調しつつ、北朝鮮に核兵器開発をやめさせようとしている。この策が成功すると、中国は、韓国と北朝鮮の両方を傘下に入れ、米国に在韓米軍の撤退を迫るだろう。朝鮮半島は、冷戦の場から中国覇権下に変質する。日本が拉致問題を解決して北を支援することは、この中国の覇権拡大を妨害する策でもある。北朝鮮の対外経済関係の大半は中国が相手だ。日本が貿易や経済支援を再開してくれると、北朝鮮は「中国や韓国から関係を切られても日本がいるのでかまわない」と強気に言えるようになり、中国や韓国の言うことを聞かないようになる。今のタイミングで日本が北との関係を復活することは、北の核兵器開発を助長することにもなる。日本は独自の核兵器を持っていないので、北の核を使って代理的に中国を威嚇させる戦略という見方もできる。 (China agrees North Korea's nuclear activities a serious threat, says South) 日本は、北朝鮮だけでなくロシアに対しても「中国の言うことだけ聞く必要はない」と言えるようにする接近策をやっている。安倍政権は、プーチンのロシアとの関係を悪化させたがらず、ウクライナ危機で米国がロシアを制裁するのに一応乗ったが最小限の制裁にとどめている。5月28日には、日本の国会議員33人が、ロシアのサハリン島のガス田から東京近郊まで天然ガスを運ぶパイプラインを敷設する計画を近く提案すると報じられた。 (Japanese Lawmakers Propose $6Bln Gas Pipeline From Sakhalin) サハリンから日本へのパイプライン計画は10年前からあるが、従来は北方領土問題などで日露対立があり、日本がロシアのガスに依存することでロシアが優位になることをおそれ、計画が進まなかった。2011年の大震災後、日本で原発が使いものにならなくなったため、状況が変わったとされる。だが、ロシアのガスに依存すると、EUがロシアに強い態度をとれないのと同様、日本もロシアを敵視できなくなる。 中国は先日、ロシアに恩を売るかたちでロシアから天然ガスを長期輸入する契約を結んだ。いまさら日本がロシアからガスを買ったところで、ロシアと中国を反目させることは困難だ。中国に脅威を与えたかったのなら、日本はロシアとの和解をもっと早くやるべきだった。むしろ今の日本は、中露結束による日本の孤立を防ぐため、ロシアからガスを買おうとしているかのようだ。 (◆プーチンに押しかけられて多極化に動く中国) 日本が対米従属を続けられるなら、朝鮮半島が中国の覇権下に入ろうが、中露が結束しようが、日本にとって大した問題ではない。だが、米国の覇権はかなり揺らいでいる。オバマ政権は中国包囲網策として「アジア重視策」を掲げるが、その実体は、軍事展開の現状維持の見返りに、日本や東南アジアに米企業による利権食い荒らし容認の体制であるTPPへの加盟を求めるもので、これは「対米従属の値上げ」である。TPPに関する米国の要求はきつすぎて、日本は受容できていない。オバマは訪日時、米国の軍事負担を減らすため日本が自由に海外派兵できるようになれと安倍に求め、安倍はそれを受けて集団的自衛権の拡大解釈を進めている。米国は余力が急減している。いずれ日本は対米従属を続けられなくなる。 (◆WTOの希望とTPPの絶望) (Suspicion undermines US-Japan ties) 米国の覇権が衰退する一方で、中国の台頭やBRICSの結束が強まり、世界の覇権構造が多極化している。日本人は関心を持たないが、中国からコーカサスまでのユーラシア中央部では、中露の覇権が急速に強まっている。そんな中で日本は、対米従属以外の自前の戦略として、今回の、北朝鮮に資金をやって中国の言うことを聞かなくさせる嫌がらせ策を超える戦略を持っていない(嫌がらせ策でも、新たに打ち出しただけ大きな前進だが)。 朝鮮半島は戦前、日本の覇権下(国内)だった。今の日本人の多くは韓国人が大嫌いだから、朝鮮半島なんか中国にやってしまえと思うかもしれないが、これは日本の長期的な国益を無視している。戦前のような上下関係のある植民地化(併合)は「悪」だが、ドイツとフランスなどがEUとして統合したように、日本と韓国(いずれ北朝鮮も)が対等な関係で「日韓併合」するなら、EUよりはるかにゆるやかな統合であったとしても、日本は朝鮮半島を中国に奪われることを防げる。 しかし、このような試論は、日本人と韓国人が小さな無人島をめぐって強く憎悪し合う現状のもとでは、まったく机上の空論だ。このままだと、日本は無策のまま、唯一の依存先である米国をいずれ喪失し、中国沖の孤立した弱小島国に戻るしかない。
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