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故郷に帰るアフガン難民

2000年7月10日   田中 宇

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 アフガニスタンの長距離トラックは、極彩色に包まれている。ロシア製やドイツのベンツ製の8−10トンのトラックの後部に深さ2メートルほどの荷台がつけてあり、その壁が緑色や赤、青などの、マンダラのような模様でいろどられている。運転台も同じ極彩色で、運転席の扉に凝った木彫りがはめ込まれていたり、荷台が運転台の上部に船のへさきのように張り出し、飾り立てられていたりする。

 トラックの外装には、人間か動物の眼らしきものがいくつも描かれていることが多い。これは交通事故を引き起こす「魔物」を恐がらせて近寄らせず、事故を防ぐ「魔よけ」の役目を果たしているという。

 イスラム教は偶像崇拝を嫌い、古代遺跡の仏像や人物像を破壊してきた。「眼」を書いて魔よけとすることは、偶像崇拝の最たるものだと思うのだが、そんなトラックが、厳しいイスラム国家となったアフガニスタンの幹線道路を堂々と走っているのは意外だった。トラック運転手の多くはパシュトン族のアフガン人だが、彼らの信仰には、イスラム教と、それ以前の彼らの信仰とが混じった「スーフィズム」的な傾向があるようだ。(スーフィズムはチェチェン人の信仰でもある。詳しくは「真の囚人:負けないチェチェン人」参照 )

 現在のアフガニスタンの経済活動の大黒柱は、イラン・パキスタン・中央アジアに挟まれた地理条件を生かした国際貿易である。現在アフガニスタンのほとんどを統治しているタリバン政権は、国境やカブール、ヘラートなど要衝の都市のチェックポイントを通過するトラックから通行税を徴収し、北部で続く内戦にかかる費用の主要部分をまかなっている。だから、トラックの外装が少しぐらい反イスラムでもかまわないのかもしれない。

【写真】とある峠道ですれ違ったアフガンのトラック

▼22年ぶりの帰郷

 アフガニスタンでは、そんな極彩色のトラックに、家財道具らしき荷物を満載し、その上に何人かの子供たちや犬、ニワトリまで載せて走っている光景を、ときどきみかけた。彼らはパキスタン側の難民キャンプから、アフガニスタンの故郷の村に帰ろうとしている帰還者だった。私をアフガニスタンへといざなってくれた「国連難民高等弁務官事務所」(UNHCR)の山本芳幸さんの仕事は、彼らの帰還を支援することであった。UNHCRは国連の一部門である。

 アフガニスタンの人々は、ソ連軍が攻めてきた1979年から、東隣のパキスタンと西隣のイランに逃げ出し、東西合計で700万人が難民となった。(アフガニスタンの人口の約4割)ソ連の撤退後、今度はアフガンゲリラどうしの内戦が起こり、それが沈静化したのは、1996年にタリバンがアフガニスタンの大半を占領してからだった。その後、難民が故郷に戻り始め、今年は帰還が始まって4年目である。長い人だと22年ぶりの帰郷となる。

 国境の出入国管理が十分でないため、帰還者の数を正確につかむことはできないが、UNHCRによると、昨年は7万人の難民が帰還した。今年は30年に一度という厳しい干ばつのため、かなり減るとみられている。

 難民が特に多かったのは、パキスタンとアメリカからの武器支援を受けたゲリラ(ムジャヘディン)が拠点としていた、パキスタン国境近くの東部山岳地帯の村だった。ゲリラといっても特別な人々ではなく、地域住民のうち男性は皆、ソ連と戦わねばならなかった。ソ連の侵攻の直後、イスラム指導者から「ソ連との戦いは聖戦(ジハード)である」という宣言が出され、ゲリラ戦はアフガニスタンのイスラム教徒の全員の任務となったからだった。村人たちは、いったん全員がパキスタンに逃げて難民キャンプの住人となり、その後、戦える男性だけが故郷の村やその周辺に引き返し、ソ連との戦いを展開した。

 UNHCRは、難民の帰還が始まった直後の97年から支援を始めた。帰還は毎年、雪どけが進む3月から、冬じたくを始めなければならない9月ごろまで続くが、ピークは4−6月である。彼らは、ペシャワールのキャンプでトラックを雇い、そこに家財道具一式を積み込み、故郷の村に向かう。故郷には大体、先に戻っている親戚などが住んでいるから、しばらくはそこに住ませてもらいながら、戦争で破壊された家を再建し、畑を作り直したりして、新しい生活を始める。

【写真】トラックに家財を満載して故郷に帰る途中の難民一家

 だが故郷の村では、畑だった場所に地雷が敷設されていたり、村全体に飲料水や農業用水を供給していた水路が破壊されていたりする。こうなると一家族だけでは対応できない。そのためUNHCRでは、難民が帰還しそうな村の地雷を撤去したり、水路を修理する事業を進めておく。国連には地雷撤去の専門機関やNGOがあるのでそこに頼み、灌漑施設の修理はUNOPS(国際連合プロジェクトサービス機関)などに頼み、国連内の協調で仕事を進める。

 地雷撤去など事前の準備が整い、難民が帰る際は、途中の町にあるUNHCRの事務所で、当面の生活に必要な資金として100ドル分の現金、300キログラムの小麦粉、それから家ができるまで雨露をしのぐ道具として大きなビニールシートが、帰還者に手渡される。(日本の工事現場で使う青い防水シートと似たようなもの)

▼ニセ帰還者との攻防戦

 途中で渡すようにしたのは、出発前に現金や小麦粉を渡すと、受け取るだけで実際は故郷に戻らない難民が続出すると思われるからだ。出発後に渡す形式でも、いったん故郷に戻ってから、すぐにパキスタンのキャンプに引き返してしまう難民もいる。村に帰った翌日にパキスタンに戻ろうとしたら、村で帰還者をチェックする仕事を終えてパキスタンに帰る途中のUNHCRの職員と、国境の入国管理事務所でばったり会ってしまった難民一家もいたそうだ。

 村に帰っても収入になる仕事が少ないので、ペシャワールの難民キャンプに戻りたがる人は多い。ペシャワールなら、贅沢をいわなければ仕事はけっこうあるからだ。

 UNHCRでは、100ドルと小麦粉だけが目当ての「ニセ帰還者」の出現を防ぐため、帰還者が出発したら、すぐに難民キャンプの家を壊してしまう、という手段もとっている。いつの間にかキャンプの元の家に戻っている難民に対して「あげた100ドルを返せ」と言っても「もうない」と言われるのがオチなので、戻れないようにしてしまおうというわけだ。

 家族のうちの一部だけが村に帰るのも、UNHCRは認めていない。ソ連と戦っていた時代、難民キャンプの住民は、男はムジャヘディン・ゲリラとして、キャンプと故郷の村を行き来していたため、その後も両国間を行き来することで金を稼いでいる人が多い。この記事の冒頭で紹介した極彩色の「眼光」鋭いトラックもその一つだし、麻薬の運搬や、日本の中古車をドバイからイラン、アフガン経由でパキスタンに入れる脱税貿易もある。

 彼らにとっては、ペシャワールと故郷の村の両方に家があると便利だから、兄の一家はペシャワールに残り、弟の一家はUNHCRから100ドルもらって故郷に帰ろう、というようなことになる。それは国連が一族の商売を援助していることになり、難民支援の理念から外れるため、帰るときは家族全員でなければならないことになった。

 だが、アフガン人は大家族だから、誰と誰が家族なのか、きちんと判定することは難しい。だからUNHCRが厳密な対応をすると、毎回のように帰還難民との間で見解の対立が起きてしまう。UNHCR内部にもいろいろな意見があるようで、山本さんは「判定が難しい以上、強硬策を取るべきではない」という考えを持っていた。

 このほかにも帰還難民に対する物資や現金の提供は、不公正なことができないよう、いくつもの仕掛けが作られていた。たとえば帰還者が自宅を建て直すときには、窓枠と梁につかう材木が国連側から無償援助されるが、窓のすぐ下の部分まで壁のレンガを積み上げたことが確認されてから、窓枠が手渡される。その後、壁のレンガを積み上げ切ったら、屋根を支える梁の材木を手渡す、というシステムで、家を建設を途中で止めて資材を転売する、という不正を防いでいる。

▼教育や医療も難民支援

 UNHCRの仕事は、難民が村に帰り着いたところでは終わらない。難民キャンプには学校や医療機関があったが、故郷の村には多くの場合、何もないからである。

 村人が難民になる前の1970年代にも、アフガンのほとんど山村には、学校も病院もなかった。それと同じだからかまわない、という考えもあるが、いったん教育や医療というものが生活をいかに向上させるか味わってしまった人々は、もはや昔の状態に戻ることはできない。教育や医療を受ける権利は、人間だれにもあるから、国連では教育や医療の施設を整えることも、アフガン難民の帰還事業の一環と考えている。

 ところが、ここで問題がおきる。国連では「教育」といった場合、男女問わず受けるものと考えているが、タリバン政府は必ずしもそう考えていない。タリバンは今のところ、12歳(中学1年生)以上の女性が教育を受けることを原則として禁止し、都会の女性が家の外で働くことも禁止している。

 この規則は「イスラム教に沿ったもの」とされているが、それに異論を唱えるイスラム学者も多い。結局のところ、タリバン側の事情によるものではないか、と分析されている。タリバンの戦士たちの多くは、イスラム教の学校に通っていた学生で、学校は全寮制の男子校だった。青年の多くは姉妹、従姉妹、母、祖母など親族とは親しくしても、それ以外の女性と接したことがない。青年の中には孤児も多く、彼らは親族がいないので、生まれてこのかた、女性というものと話したことがほとんどなかったりする。

 そのためカブールなどの都会を統治するようになった際、女学生や大人の女性が普通に町に出歩いていると、タリバンの若者がどう対応して良いか分からず、タリバン全体の評判を落とす暴行事件などを起こしかねない。それで、なるべく女性が町を歩かないような政策を展開した、という解釈がなされている。(「タリバン」は「学生たち」という意味のアラビア語が語源)

▼難民帰還支援の資金は日本が提供

 国連や国際NGOは、難民が帰る村に小学校を立てる場合、地元のタリバンの州知事などに、午前は男子、午後は女子といったように、女子も教育を受けられるカリキュラムにする約束をとりつけてから、建設を開始することが多い。

 たとえばカブールから40キロ南に行った山岳地帯の入り口にあるカキジャバ村では、学校を建て始めたとき、タリバンの州知事は女子のクラスを設けることに同意し、国連側と文書を取り交わした。だが、そのあとの人事異動で州知事が交代し、学校が完成して授業が始まると、後任の知事は「女子の登校は認めない。同意文書は先代の知事のもので、私とは関係ない」と言い出した。(タリバンの指導者は、部下の腐敗を防ぐため、政府内の配置替えを頻繁に行い、役所の幹部と戦場の司令官という2種類のポストを行き来させたりしている)

 カキジャバの小学校はレンガ造りで、アフガンにしてはモダンな感じだが、国連にとっては失敗の記念碑のようなものだとも思えた。山本さんは「(国連側の)担当者がもっと粘り、女子のクラスを認めないなら完成した校舎を壊すという決意で交渉すべきだった」と言っていた。(山本さんは今年2月からUNHCRで働いており、この学校の一件はその前の出来事だった)

 このように、難民帰還には難しさも多いのだが、その中で比較的成功しているのが、カキジャバからさらに山の中に入っていったアズロという地域である。そこはUNHCRの帰還プロジェクトの重点地域になっているのだが、そのことは改めて書きたい。

 それともう一つ、重要なことを書き忘れていた。国連のアフガン難民に対する帰還支援プロジェクトで使われているお金はほとんど全額、日本政府が出資しているということである。このことについても、次の機会に詳しく紹介する。

「日本がよみがえらせたアフガンの村」に続く



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