自滅の仕上げに入った米イラク戦争2006年12月5日 田中 宇11月7日にアメリカの中間選挙で民主党が勝ち、ブッシュ大統領の共和党は連邦議会の上・下院とも多数派を奪われてしまって以来「アメリカはイラクから早く撤退する戦略に転換するのではないか」という見通しが、世界中で高まっていた。 しかし、それから1カ月が過ぎて、ほぼ確定しつつあることは、米軍はイラクから撤退する方向には転換しないということである。アメリカやアラブの政界では「ブッシュ政権は、イラクに影響力を持っている北隣のイランや西隣のシリアに対する敵視をやめて、イラクの安定化に向けてイランやシリアにも協力を仰ぐべきだ」という声も強かったが、その点も変化せず、アメリカはイランとシリアを敵視したままである。(関連記事) 11月29日にブッシュがイラク隣国のヨルダンを訪問し、そこでイラクのマリキ首相と占領政策について話し合ったが、新味のあることは何も出てこなかった。これと前後して、イラク戦争の作戦変更について検討していたブッシュの顧問的な超党派組織「ベーカー委員会」(イラク研究会)が、イラクからの撤退は時間をかけて行うというブッシュ政権の従来の方針を踏襲した方針しか出さないことが、米マスコミで報じられた。(関連記事) ベーカー委員会は、イラクの泥沼化を引き起こしたチェイニー副大統領らネオコン(タカ派)のやり方に反対する勢力によって構成されており、イラクからの早期撤退への方針転換を実現すると米マスコミで予測されていたが、それは肩すかしに終わった。(関連記事) ブッシュは中間選挙の敗北後、ラムズフェルド国防長官を辞任させ、後任にはベーカー委員会のメンバーであるロバート・ゲイツが指名されたが、ゲイツは就任前の議会上院からの質問への返答の中で、ラムズフェルドの方針をほぼ踏襲すると表明している。この点でも、予測されていた方針転換はなさそうだ。(関連記事その1、その2) イラクは、各派の反米ゲリラが跋扈する状況がひどくなっている。アメリカの傀儡色が強いイラク政府が統治するのは、米軍とイラク政府が本拠地としているバグダッドのグリーンゾーンのみである。米軍によるゲリラ掃討作戦は、このところすべて失敗している。状況は今後急速に悪化しそうだと、米軍自身が予測している。(関連記事その1、その2) イラク以外のアラブ諸国では、国内の反米世論が強まり、親米の政府が窮地に陥っている。こんな危機的な状態なのに、ヨルダンまで来て何の新政策も決められずに帰っていったブッシュ大統領に、アラブ諸国は唖然としている。ブッシュ政権は、イラクだけでなく中東全域を破壊しつつある。(関連記事) ▼アメリカの計画的自滅策 イラク戦争は、いくつもの点で、アメリカにとって「計画的な自滅」である。その一つは、ブッシュ政権がイラクに侵攻する理由となった「サダム・フセインは大量破壊兵器を開発している」という主張が、ネオコンによる誇張に基づいたでっち上げであることが確定し、アメリカは国家犯罪を犯したと世界の人々が考えるようになったことである。 この問題で重要なのは、フセイン政権は本当に大量破壊兵器の開発をしていなかったのかどうか、という最終的な「事実」ではない。でっち上げの理由でイラクを侵略して破壊したことを、アメリカの中枢や大手マスコミが認め、それが事実として世界の人々の頭の中に定着したという「認識」の問題である。アメリカの中枢やマスコミは、黒を白と言いくるめるプロパガンダの達人たちなのだから、自国の国家犯罪を認めず、上手に世界の人々の認識を操作することもできたはずだ。それがなされず、アメリカの「有罪」を確定させた点で、大量破壊兵器の問題は「意図的な自滅」である。 自滅の2点目は、イラクを占領した米軍が、イラク人を故意に怒らせ、反米感情を扇動したことである。反米ゲリラが跋扈して治安が悪化したため、予定されていた復興も進まず、イラク人の生活は全く良くならず、逆に悪化した。たとえば、イラクの病院の総数は、米軍侵攻前より減っている。新しい病院を建てる計画はいくつも米英などの机上で作られたが、一つも実現していない。イラクの惨状は、衛星放送「アルジャジーラ」などで中東じゅうに伝えられ、イスラム世界の反米感情を煽った。 アメリカは、国際問題の専門家が世界で最も多い国で、これまでに多くの国家再建を手がけている。上手にやれば、イラクを親米の国として再建することは可能だった。ところがブッシュ政権は、イラク占領を担当する責任者のポストに未経験の人ばかりをあてた。その一方で、中東専門家の多くを「アラブやイスラムに寛容すぎる。テロを容認する傾向がある」として要職から排除した。 もしイラクが世界のメディアによって自由に取材できる地域であり続けたら、これらの「失策」は暴露され、ブッシュ政権は世論の圧力を受けて、もっとまともなやり方に変えていたかもしれない。だが、米軍占領下のイラクでは「ゲリラ」による記者の誘拐が頻発し、イラクは危険なので取材できない場所になり、実状は外部に伝えられなかった。 記者の誘拐は、すべてアメリカと敵対関係にあるゲリラの犯行とされているが、ゲリラの素性も確定的には分かっていない。米軍は、イラクに7万人と言われる下請け的な傭兵組織を持っており、傭兵の多くは米軍特殊部隊の元要員である。このような非正規の特殊部隊を使えば、ゲリラを扇動して記者の誘拐をやらせるのは難しくない。 ▼世界を騙して多極化する イラクでの計画的な自滅は、おそらく、チェイニーらブッシュ政権内の「隠れ多極主義者」による、世界を多極化する戦略の一環である。従来、世界の中心はアメリカであり、アメリカの傘下に欧州や日本が先進国として存在し、G7など先進国間の談合で世界が運営されてきた。しかし、先進国はすでに経済が成熟してこれ以上の経済発展が望めない。それで、先進国以外の勢力にも世界の覇権を分散し、発展する地域がいくつも新設されるよう、世界を誘導するのが多極化戦略である。 (政権内でも、当のブッシュ自身は、何も理解しておらず、側近にうまく言いくるめられているだけだろう) 多極化戦略は、世界全体としての経済成長を促進するが、先進国の覇権や経済力を低下させるので、ブッシュ政権が「これから多極化をやります」と明言して実施したら、アメリカや他の先進国では多極化を阻止しようとする動きが強まる。特に、アメリカの覇権を利用して国力を拡大してきたイギリスとイスラエルは、米政界に強い影響力を持っているので、騙す必要がある。 そこでブッシュ政権は、アメリカの覇権を強化するかのような「単独覇権主義」を宣言した上で、アメリカが単独覇権主義をやりすぎた結果として覇権を失う、というシナリオを実行していくことで、途中で阻止されずに多極化を実現しつつある。(関連記事) ▼テロ戦争をやりすぎて多極化する 話が複雑になって恐縮だが、もう一つ多極化戦略とねじれた関係にあるのは、911事件をきっかけにした「テロ戦争」である。テロ戦争は、もともと「アメリカを先頭に世界が結束し、世界的なテロリストの脅威と戦う」という、アメリカ中心の世界体制を強化する戦略として開始された。1990年に終わった冷戦(米ソ対立)のからくりをバージョンアップし「敵」をソ連という実態のある(潰れ得る)ものから、アルカイダという実態のないもの(米英イスラエルの諜報機関が実態を操作できる、潰れることのないもの)へと進化させた「50年戦争」である。(関連記事) ブッシュ政権内の多極主義者は、このテロ戦争を止めるのではなく、逆に過激にやりすぎることで、アメリカを自滅に導き、アメリカの覇権にとりついていたイスラエルとイギリスを振り落とし、NATOをアフガンで自滅させ、国連をロシアや中国が活躍する場所にして、世界を多極化している。テロ戦争という、アメリカ中心主義者による策略を故意に失敗させることで世界を多極化するという、妙策が行われている。 ブッシュ政権の多極主義者にとって、最も心強い「味方」は、イランのアハマディネジャドや、ベネズエラのチャベス、ロシアのプーチンといった、アメリカの覇権を嫌う指導者たちである。ブッシュ政権は、彼らを名指しで敵視して「反米の英雄」に仕立てた。アメリカが自滅に向かうのに合わせて、チャベスは中南米、アハマディネジャドは中東、プーチンはユーラシア西部で、最大級の指導者になりつつある。 アメリカが敵視しがちな勢力の中でも、たとえば中国の共産党政府(胡錦涛政権)は、中国の商品をアメリカに売ることで儲けているため、アメリカに敵視されることを好まず、多極主義者の扇動に乗らないようにしている。中国は、東アジアでの自国の覇権はある程度拡大したいものの、世界的にアメリカが覇権や経済力を失うことを望んでおらず、アメリカに頼まれても、中国は人民元の対ドルペッグを外したがらない。ブッシュが「人民元ペッグ外し屋」として雇ったポールソン財務長官が、来年にかけて、この行き詰まりをどう打ち破るかが注目される。(関連記事その1、その2) 中東でも、イラン(シーア派)のライバルであるサウジアラビアやエジプトといったスンニ派のアラブ諸国の政府は、中国と同様、アメリカ中心の世界体制の方が心地よいと思っている。 おそらく多極主義者は、最終的には、イラクを強くて反米の産油国に仕立て、米軍は決定的な敗北を喫して不名誉な撤退を余儀なくされるというシナリオにしたいだろう。イラクとイランという2つの大産油国が反米の国になったら、その影響で、サウジやエジプトなども親米をやめざるを得なくなる。 ▼民主党もぐるだった イラク占領の泥沼化は、ブッシュ政権の多極化戦略の最重要の柱として「順調」に進んでいるが、同時に、アメリカの政界や世論の中からは「イラクの泥沼を早く何とかすべきだ」という主張が強まっている。その一つの表れが、中間選挙での共和党の敗北だった。 どうやら、ブッシュ政権の共和党だけでなく、ライバルである民主党も、上層部は隠れ多極主義者のようで、前回の大統領選挙で民主党候補となったジョン・ケリーも、次回の大統領選挙で民主党候補になりそうなヒラリー・クリントンも、隠れ多極主義者の特徴である「過剰な強硬派」という点で、ブッシュ政権の人々と同様である。(関連記事) 民主党も上層部は隠れ多極主義者が席巻している限り、議会の多数派がどちらの政党になっても、自滅的な強硬策が続けられることには変わりがない。実際、中間選挙後、議会の多数派になった民主党は、当初はイラクからの早期撤退を実現しそうな勢いだったが、1カ月経ってみると「無理に撤退するとイラクが内戦になってしまう」などという主張が強くなり、しりすぼみになっている。 ブッシュ政権のもう一つの多極主義的な特徴として、軍事費などの予算を過剰に大盤振る舞いして、財政赤字を野放図に増やし、アメリカを財政破綻に追い込もうとしていることがある。中間選挙で民主党が勝ったことで、予算の大盤振る舞いに歯止めがかかるのではないかと選挙直後の米マスコミでは分析されていたが、その後、国防総省が1270億ドルという史上最大級の臨時予算を要求したところ、民主党は反対する姿勢をとらず、来年1月の議会ですんなり通ってしまいそうである。この点からも、米政界の中枢では、超党派で隠れ多極主義が席巻しているように見える。(関連記事その1、その2) ▼ベーカー委員会はガス抜き策 アメリカは二大政党制を装った独裁になっているわけだが、それに有権者の多くが気づくと、3つ目の政党が台頭したりして、隠れ多極化戦略が阻止されてしまう。それではまずいということで、ベーカー委員会を使った「ガス抜き」が行われている。 ブッシュ政権では911以前から、政権内に「タカ派」(強硬派、右派)と「中道派」(穏健派、現実主義者)が対立しているという見方が、米マスコミによく出ていた。タカ派は同盟国など要らないという単独の覇権主義、中道派は国際協調的な隠然とした覇権主義である。911によってタカ派が中道派を追い出して無茶なイラク侵攻を挙行したが、その後の泥沼化を受け、救世主として中道派のベーカー元国務長官がブッシュの顧問として戻り、ベーカー委員会を作ってアメリカをイラクの泥沼から救うという筋書きの話が、今年9月ごろから米マスコミに載るようになった。(関連記事) しかし、ベーカー委員会は、ブッシュ政権の方針を何も変えそうもない。ベーカーらは「現実主義」なので、事態をゆっくり変えるソフトランディングの方針で、いずれブッシュ政権は方針転換するという見方も可能だが、もうアメリカはイラク占領をゆっくり続けている時間的な余裕がない。早くイラクから撤退しないと、中東で反米イスラム主義が拡大し、レバノンやパレスチナなどで反米親イランの政権が確立され、取り返しがつかなくなる。為替市場でドルが売られ、住宅バブルの崩壊で景気も悪化し始め、アメリカは経済的な覇権も陰り出している。もうアメリカの方向転換は、時間切れになりつつある。 ベーカー委員会は、中道派としてタカ派がやった無茶苦茶からアメリカを救うのではなく、むしろ最初から、タカ派と中道派の対立の方が演出されたものであり、アメリカを自滅させて世界を多極化するという、ブッシュ政権の隠れた目的を人々に分からせないようにするための煙幕として機能しているのではないか、と疑われる。 ▼イラク内戦説は疑問 「米軍が撤退したら、その後のイラクは内戦になるので、軽々に撤退できない」という説もあるが、イラクが本当に内戦になりつつあるのかどうかは疑問である。最近、アメリカのマスコミで「イラクは内戦になっている」と指摘する分析がたくさん出されているのは確かである。 しかし、イラクの各武装勢力間の関係は、殺し合うときもあるが、基本的には日本の暴力団どうしの関係や、昔の戦国大名どうしの関係に似ており、どちらかが完全に潰れるまで戦う徹底内戦ではない。ゲリラは各派とも、同じ宗派の地縁血縁のネットワークの上に成り立っており、自派の勢力範囲の地域に住む人々(領民、一族)の生活を守ることが、各派の存在基盤である。利権争いはあるが、できる限り交渉とか脅しによって解決し、流血は避けようとする。 報じられている「内戦」は、相互の憎しみを煽るようなものばかりだが、それは地縁血縁をベースにしたゲリラの行動としては理解しにくい。イラクは、長い歴史を持った文明社会で、人々は社会内部の問題を解決するための気配りや社会規範を持っている。組織間で対立する場合は、白昼に通行人を殺すのではなく、もっと巧妙で目立たない暗闘を行うはずである。 最近「シーア派がスンニ派のモスク参拝者にガソリンをかけて火をつけ、6人を殺害した」という事件をアメリカのAP通信が報じたが、この報道は架空のイラク人警察幹部を情報源に見立てて書いた、でっち上げ報道だった可能性が指摘されている。イラクは記者が誘拐されたりして危険なのでマスコミ他社が報道の検証をできず、扇動的なウソ報道がまかり通る状況にある。(関連記事) すでに述べたように、イラクにはアメリカ国防総省傘下の傭兵軍団が7万人も存在しており、彼らがスンニ対シーアの「内戦」を扇動する殺害作戦を続けているのではないか、という指摘もある。(関連記事) ▼アメリカとゲリラの板挟みで弱るイラク首相 イラクでは今後、シーア派の中の最大勢力であるサドル師の派閥が、スンニ派など他の勢力に呼びかけて、反米の連合戦線を組織し、イラク議会を席巻しようとする動きが強まりそうである。サドル派によると、275議席のイラク議会のうち、すでに100人の議員が、反米連合戦線に参加する意向を表明したという。(関連記事その1、その2) イラクのマリキ首相は、アメリカの認知のもとに首相になったが、政治基盤が弱いので、シーア派の最大勢力であるサドル師の一派に頼らざるを得ないが、イラン寄りのサドルは最近、アメリカの敗色が濃くなり、イランのアハマディネジャド政権が強気になっているのに合わせて、反米の傾向を強めている。 11月29日にブッシュがヨルダンでイラクのマリキ首相と会う予定が出てきた時、サドルは「マリキがヨルダンまでブッシュに会いに行くのなら、もうマリキには協力しない」と表明した。(関連記事) サドルに離反されたら、マリキ政権は崩壊してしまう。マリキは、11月29日から2日間の日程で予定されていたブッシュとのイラク対策会議(ヨルダン国王との3者会議)を、土壇場でキャンセルした。その後、マリキはアメリカから圧力をかけられ、結局会談は1日遅れで始まり、2日間の日程が1日に短縮された。(関連記事) マリキは、サドルとアメリカの両方の顔を立てようとしたがうまくいかず、サドル派はイラク政府への支持をやめ、マリキ政権に送り込んでいた6人の閣僚を辞任させた。(関連記事) アメリカは、イラクの政府軍や警察を訓練して強くして、彼らに反米ゲリラを掃討させることでイラクを安定させ、米軍を撤退させる戦略を採っている。アメリカは、首相のマリキに資金とアドバイスを与えて、サドル派や、スンニ派のゲリラを退治させようとしてきた。 しかし現実的には、サドルやスンニ派は、イラクのほとんどの地域で、地元の人々に支持されて行政権を握っており、マリキのイラク政府は、実際の統治権を持っていない。マリキがイラクを統治しようと思ったら、サドル派などのゲリラとの敵対を避けねばならない。アメリカがマリキにサドル派を退治させようとしているのは、実現不可能な夢物語である。ブッシュ政権のイラク撤退案は、この夢物語を前提にしており、実現性が薄い。 アメリカがイラク占領を長引かせているうちに、イラク人は宗派を超えて反米で結束し、いずれイラク議会の過半数が反米連合戦線に入って、米軍撤退要求を決議するようになりそうである。
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