カシミールでも始まるロードマップ2003年6月24日 田中 宇アメリカがパレスチナ問題に続き、インドとパキスタンが対立するカシミール問題に関しても、和平の枠組みを示す「ロードマップ」を作って和平交渉を後押ししている、と指摘する記事が出始めた。 6月9日付けUPI通信の記事によると、アメリカ国務省傘下の在パキスタン米大使館から「カシミールのロードマップ」といえる計画案がリークされている。国務省自体は「あの計画案は予算獲得のために作ったものでしかない」と説明しているが、計画案の存在自体は認めている。 印パ双方が政府内から和平反対派の政治家を追い出した後、2004年末までにインドとパキスタンが協力してカシミールの暫定国境線(停戦ライン)を警備し、パキスタンのテロリストがインドに入れないようにする。その上で、2005年から印パ間で本格的にカシミール問題の解決に向けて話し合う、というのが計画案の内容だ。 印パとも、アメリカの介入に反対する政治家が多いため、アメリカ主導の和平案であっても、アメリカがそれを正直に発表するとマイナスの影響が出かねない。米国務省が「カシミールのロードマップ」の存在を否定するような態度をとっている背景には、そんな事情がありそうだ。 このアメリカのロードマップ計画が事実だとすると、5月初めにインドのバジパイ首相が、他の閣僚の反対を押し切って、パキスタンに対して和平交渉を呼びかけたことともつながってくる。この呼びかけの背景に、アメリカの提案があったと思われるからだ。 バジパイ首相は今年5月2日、議会の演説で「パキスタンとの和平交渉を真剣に行う。閣内で反対されてもやる」と発言し、人々を驚かせた。その前日の閣議で、バジパイ首相はパキスタンとの和平計画を提案したが、タカ派のアドバニ副首相ら閣僚の多くが反対し、首相は和平案をいったん引っ込めた。ところが翌日の議会演説では、用意されていた演説台本を離れ、パキスタンとの和平について独断で発言した。(関連記事) ▼2年前の繰り返し? バジパイ首相は2年前の2001年6月にもパキスタンに対して和平会談を呼びかけ、パキスタンのムシャラフ大統領が7月にインドのアグラを訪問して和平交渉が行われたが、決裂して終わっている。このときも、表向きはインド側が最初に和平交渉を発案したことになっているが、実はアメリカがインドに対して「パキスタンに和平を提案せよ」と働きかけたのではないか、という指摘がある。(関連記事) 2001年7月の場合、アメリカはムシャラフ政権の崩壊を食い止めるために努力していた。パキスタンではイスラム勢力と軍の諜報機関(ISI)が結びつき、大きな政治力となっていた。この勢力は、カシミールのイスラムゲリラ組織や、アフガニスタンのタリバンを作り、動かしていた。 軍人のムシャラフは、もともとこの勢力に近く、1999年10月にクーデターで権力を握ったときもISIの力を借りた。その後、タリバンに対する敵視を強めたアメリカとの関係改善のため、ムシャラフはISIの力を削ぐ必要に迫られ、自らの権力を強化するため、2001年6月に選挙などを経ずに大統領に就任した。アメリカは即座にこれを承認したが、パキスタン国内では反ムシャラフ勢力が依然強かった。 こうした不安定さを取り除こうと、アメリカの肝いりで2001年7月の印パ首脳会談が行われた。カシミール問題でインド側に譲歩を求めるムシャラフと、譲歩の前にパキスタンから越境してくるイスラムゲリラ(テロリスト)を止めろと反論するバジパイの対立が解けず、首脳会談は決裂した。 この決裂から2カ月後に起きた911事件では、事前にISIが実行犯に送金を指示していたとの指摘があり、ISIは911事件のカギを握る存在である。アメリカでは今日に至るまで、ISIと911事件の関係について突っ込んだ捜査や情報公開が全く行われておらず、これが911事件をめぐる「疑惑」の一つとなっているが、2001年7月の印パ会談を行ったアメリカの思惑と911事件の発生には、何らかの関係があるかもしれない。(関連記事) 2001年のパキスタンとの交渉が決裂した際、バジパイ首相は「選挙を経ずに大統領になったムシャラフに箔をつけてしまっただけで、インドには何の得もなかった」と、インド政界で非難された(アメリカにとっては、まさにムシャラフに箔をつけることがインドと会談させる目的だったと思われるが)。 それから2年後、周囲の反対を押し切って、今年5月に再びバジパイがパキスタンとの和平を呼びかけた。何か、再度の政治リスクをバジパイにとらせるだけの提案が、アメリカからなされたのではないかと思われる(内容は分からない)。 ▼逆周りで英米を回る印パ首脳 その後、今年6月に入り、インドとパキスタンの首脳が、それぞれ逆回りで世界を回っている。インドからは、アドバニ副首相がアメリカに行ってブッシュ大統領らに会った後、イギリスに行ってブレア首相ら会談した。パキスタンのムシャラフ大統領は逆に、ヨーロッパを先に回り、イギリスやドイツなどを訪問後、6月24日に米大統領の別荘があるキャンプ・デービッドに招待され、ブッシュに会う。 バジパイ首相は、政権内で最もタカ派のアドバニ副首相を自らの代理として選び、米英に派遣したが、これは、これから始まる和平交渉に対して国内タカ派からの反対を封じ込めるためだったと思われる。 アメリカはインド側だけでなく、パキスタン側でも工作を始めた。アジアタイムスによると、アメリカ国務省の担当官が最近パキスタンを訪問し、反ムシャラフ勢力の政治家や将軍たちと個別に面談した。(関連記事) また最近、アメリカで銀行家として成功した後、母国のパキスタンに戻って大蔵大臣に就任した経緯があるシャウカット・アジズ蔵相が、パキスタンの核兵器開発の中心である「カフタ研究所」を視察した。ここは極秘態勢の研究所で、閣僚は首相でさえも、これまで研究所への視察を許されたことがなかった。そんな異例の視察に対し、野党からは「アジズ蔵相は、アメリカ政府の代理人として研究所を査察したのだ」という批判が浴びせられた。 ▼カシミール州首相の提案 インドとパキスタンの双方が領土権を主張し、第二次大戦の直後から長い紛争が続いてきたカシミールでは、1960年代までの戦いがおおむねインドの勝利に終わっている。そのため、勝っているインドは、国連主導で引かれた現状の停戦ラインをそのまま国境にしても良いと考えているのに対し、負けているパキスタンでは「カシミール地方で住民投票を行い、その結果によって帰属権を決めるべきだ」と主張している。 人口比で見ると、カシミール全体の住民の大半が、親パキスタンの姿勢をとりやすいイスラム教徒だ。そのため、住民投票の実施はパキスタンにとって有利だ。パキスタン側のカシミールでは、パキスタンともインドとも別の国家としてカシミールが分離独立べきだ、という主張も増えている。 インドのバジパイ首相がパキスタンとの和平を提唱してから約2週間後の5月19日、こんどはパキスタン側カシミール州ハヤト・カーン首相(Sardar Sikandar Hayat Khan)が爆弾発言をした。カーン首相は「分離独立は現実的ではない。むしろ、イスラム教徒が多い地域はパキスタン領に、ヒンドゥ教徒や仏教徒が多い地域はインド領にする、という地域再編を行って紛争を解決するのが良い」と主張し始めた。(関連記事) パキスタンは、人口がインドの5分の1、国土の広さが4分の1しかない。インドの国防予算はGDPの2・5%で140億ドルの支出なのに対し、パキスタンはGDPの4・2%も国防予算を支出していながら、その額はインドの4分の1以下の33億ドルしかない。国力の差があるため、パキスタンはカシミール紛争でインドに勝てない。(関連記事) この劣勢をカバーするため、パキスタン軍ではISIが中心になってゲリラ戦法を展開してきた。イスラム教徒が多いカシミール人の宗教精神を鼓舞してイスラム聖戦士を募り、それを戦乱が続くアフガニスタンなどで訓練した上、インド側でテロ活動をさせることを繰り返してきた。 また「カシミールはパキスタンからもインドからも独立すべきだ」という主張を広げ、インド側のカシミール(ジャム・カシミール州)に住むイスラム教徒にもゲリラ(テロ)活動を呼びかけた。インド側になるべく多くの血を流させ、撤退に追い込もうとする戦略だった。 この傾向は、アメリカのクリントン政権が仲裁した印パ間の和平交渉が頓挫した1999年から強くなり、パキスタン側のカシミールでは、和平交渉ではなくゲリラ活動でインド側のカシミールを奪取するという考え方が強い。そのため、カシミール州の首相が「(ゲリラ活動ではなく)和平で解決すべき。(インド側の奪取ではなく)印パ間の境界線引き直しで解決すべきだ」と主張したことは、驚きをもって受け入れられ、カシミールの野党勢力はすぐに反対を表明した。(関連記事) ▼チェナブ方式がロードマップ? ハヤト首相が主張した和平案は、目新しいものではなかった。同様の「イスラム教徒が多い地域はパキスタンに、ヒンドゥ教徒などが多い地域はインドに」という提案は1960年代になされ、この案に沿って考えると印パ間の境界線がカシミール中央部を流れるチェナブ川になるので「チェナブ方式(Chenab formula)」と呼ばれてきた。 パンジャブやベンガルなど、英領時代にイスラム教徒とヒンドゥ教徒が混じって住んでいた地域は、インドとパキスタンに分離して独立する際、州をイスラム地域とヒンドゥ地域に二分する解決案が採られている。それらの分割方法をカシミールに当てはめたのがチェナブ方式だった。 1960年代には、パキスタンが提案したこの案をインドが拒否した(それ以前のカシミール紛争で勝利していたため譲歩を嫌った)。その後1999年にクリントン政権が印パ間を仲裁したときもチェナブ方式が出てきたが、その後パキスタン側がカシミールのゲリラ(テロ)戦法を強めたため和平が頓挫し、再び立ち消えになった。(関連記事) そのような何度も挫折している和平案を、今になってカシミール州の首相が主張し始めたのはなぜなのか。その疑問の答えは、6月24日のキャンプ・デービッドにおけるムシャラフ大統領とブッシュ大統領の首脳会談の中身にあった。 アジアタイムスの記事によると、首脳会談では「チェナブ方式」を「カシミールのロードマップ」としてアメリカ、パキスタン、インドが推進することについて話し合うという。おそらく、ムシャラフらパキスタン政府首脳が最初に「チェナブ方式」について言及してしまうと「カシミール問題の解決は分離独立で」と主張する国内の反政府勢力や世論を刺激してしまうので、代わりにカシミール州首相が観測気球として最初に言及する役割を担ったのだろう。 (前出のUPIの記事では、チェナブ方式ではなく既存のカシミール停戦ラインを維持する前提で書かれており、内容に矛盾があるが) ▼イスラエルやアフガン問題とも関係 チェナブ方式は、インドにとっては譲歩を強いられることになる。そのためカシミール問題が解決されたら、パキスタンは核兵器とミサイルの開発を中止することを約束させられる。 また、パキスタンがイスラエルを国家として承認することも、和平案に盛り込まれている。これは印パ関係には直接関係ないものの、イスラエルが「イスラム諸国がわが国を敵視している以上、中東和平交渉で譲歩できない」という立場をとっているのを緩和させる効果があり、イスラム世界とイスラエルとの対立を和らげることにつながる。 パキスタンがイスラム世界で唯一核兵器を持っている国であることを考えると、パキスタンが核兵器開発を中止し、イスラエルを国家承認すれば、次に問題になってくるのはイスラエルの核兵器だということになる。 在米政治圧力団体の強さを背景に、イスラエルはこれまで一度も核査察に応じず、核兵器の保有も認めていない。だが、イギリスのBBCテレビ(国際放送)が来週末(6月28−29日)にイスラエルの核兵器開発を批判する特集番組を放映する予定であるなど、中東和平の進展とともに、イスラエルの核兵器に対する批判が強まっている。 ムシャラフとブッシュの首脳会談で語られる和平案にはこのほか、パキスタン軍(おそらくISIを含む)の大規模な縮小も盛り込まれている。これはムシャラフに対抗する軍内の勢力を弱めようとする目論見だろうが、ISIがアフガニスタンのタリバンと親しかった(タリバンはISIの支援なしには存在できなかった)ことを考えると、アフガン情勢の安定化と関係している。 ブッシュ・ムシャラフ会談の内容がどの程度発表されるかは疑問で「カシミールのロードマップ」も、公式に発表されることなく潜行するかもしれない。また、パレスチナのロードマップ同様、うまく進展するかどうかも疑問だ。「テロ戦争」をできるだけ長引かせたいと思っているふしがあるアメリカ政府が「テロリスト育成学校」であるパキスタンの問題を解決しようと本当に思っているのか、という疑いも残る。 インドとパキスタンの対立には、もう一カ国重要な役者がいる。中国である。今回の印パの接近にともなって、中国とインドとの関係も大きく変わろうとしている。そのことは改めて書くことにする。
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