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活気あふれる中国(5)発展の裏側

2001年1月1日   田中 宇

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 上海の繁華街の一角に、静安寺というお寺がある。三国時代の紀元3世紀に創建された真言宗(密教)の名刹で、9世紀には日本から空海(弘法大師)が遣唐使としてこの寺に学びにきた。今では地下鉄の駅が門前にあり、周りは高層ビルが立ち並ぶ賑やかな場所だ。私が上海で泊めていただいた和紙芸術家、有留修さんの家の近くなので、ある日、上海人の若い読者と寺の近くで待ち合わせたとき、散歩がてらに一緒にお寺に入ってみることにした。

 境内は、東京でいうと浅草の浅草寺を小さくしたような感じというか、巣鴨のとげぬき地蔵などにも似た感じだった。ところが、のんびりしている日本の寺と決定的に違っていたのは、参拝者の雰囲気だった。日曜日の昼前だったので境内は混雑していたが、人々は異様にまじめに、せっぱ詰まった表情で参拝していた。

 境内にはいくつかのお堂があったが、どのお堂の前にも人がすき間なく行列を作り、火のついたお線香を手に持ったりしながら、参拝の順番を待っていた。堂内の仏像の前にはクッションのようなものが置かれており、行列はそこにひざまづいて拝む順番を待つためのものだった。わざわざ並んで正面から拝まなくても、横から立ったまま拝めばいいではないか、と思ったが、ここの人々の仏様との付き合い方はもっと真剣で、正面でひざまづいて拝まないと効果がないと思っているようだった。

 境内にある数面の仏様や布袋様を全部拝み、その後「素食」といわれる精進料理風の麺を食べるのが、人々の参拝フルコースで、それをきちんとこなせば願いごとが本当にかなうと信じているため、人々の表情が真剣で必死なのではないかと感じられた。中国がいまだに公式には「無神論」を貫き、迷信が攻撃される社会主義体制であることを思うと、静安寺の光景は異様だった。

【写真】静安寺のお堂前で行列を作る参拝者(その1)(その2)

 参拝者の中には若い人もいたが、主力は40−60歳の人々だった。この世代は、若い時に文化大革命が起き、教育を受けていないので、迷信に入りやすいと聞いた。案内してくれた上海の若者によると、国有企業で社内失業状態(下崗)の人が仕事探しを祈願したり、収入増や健康不安の解消などを祈る人が多いという。

 その若者の家でも、5年ほど前に母親が持病を治すためにお寺通いを始め、その後は父親が信仰し始めて、今では父親の方が強く信仰するようになり、家での食事も毎週1回は「素食」にしているそうだ。

 1992年ごろに上海を訪れたとき、カトリック教会のミサに参加する機会があった。それは土曜日の昼すぎだったが、教会堂の入り口にも入れない人々が外にあふれている状態だった。これらの例にみるように、中国における宗教信仰の復活は数年前から目立っているが、この背景には共産党に対する幻滅感があると指摘されている。

 1989年の天安門事件の後、政治危機を乗り越えるため、経済の改革開放政策が強化され、上海など沿海部には豊かな人々が現われ始めた。だがその裏で貧富の格差が進み、当局の取り締まり強化にもかかわらず、役人や国有企業幹部の汚職も増えた。こうした社会悪に疑問を持つ人々や、不公正の犠牲になった人々は、理想から離れていく社会主義に幻滅し、別の信仰を求めてお寺やキリスト教会、法輪功などに入るようになった。

▼政治より消費の南京路

 その意味で、私が上海で「静安寺」の対極にあると感じた場所は「南京東路」である。この大通りは、上海で最もきらびやかな繁華街で、市街中心部「外灘」から1キロの区間が歩行者天国になっている。夜にはデパートや専門店の看板が色とりどりのネオンサインに飾られ、家族連れなどで混雑する中をそぞろ歩きをすると、まるで東京ディズニーランドにいるような気分になる。

 日本の大都市のネオンサインは、各看板の持ち主がばらばらに林立させたものだろうが、南京東路のネオンは最初から全体的な美しさを考えて作られたものに違いない。だから東京より圧巻なのだ。私が数年前に上海を訪れたときの南京東路は、車道にはバスと自動車がぎっちりと渋滞し、その両側は自転車の洪水、そのさらに外側の歩道は人々で埋まっているという状態だったが、昨年秋に建国50周年記念事業の一つとして、完全な歩行者天国となった。

 その変貌を見て私は、中国共産党も人々にサービスするようになったのだ、と思って驚いた。南京東路は「どんどんお金を稼ぎ、どんどん消費する人生が楽しいんです」という改革開放政策のメッセージだと感じられた。お金のない人でも、ネオンの下を家族でそぞろ歩きし、わずかなお金でアイスクリームを食べたりすれば、その楽しさをある程度は享受することができる。「政治より消費」「幻滅より享楽」というわけだ。

 こういったことは、根っからの政治都市である北京ではなく、「租界」から生まれた都市である上海からでないと、言い出せないだろう。だからこそ、改革開放政策の生みの父だったトウ小平にとって、後継者として北京政府の中心に江沢民、シュヨウキら「上海派」を据えることが必要だったのかも知れない。

▼党批判を回避しつつ社会正義をめざす新聞

 政治の自由化を回避しつつ、現実の矛盾に対処する中国共産党のやり方の実例を次に知ったのは、北京で中国の新聞記者と会い、社会正義を貫く記事が増えているという話を聞いたときだった。

 中国の新聞のほとんどは、党の本部や支部、政府省庁などの「機関紙」であり、党や政府の決定や考え方を下々に伝えることが主目的だ。日本や欧米のような自由言論を許された報道機関ではない。新聞が共産党を批判したり、上部機関の意志に沿わない独自の論陣を張ることは役割上、不可能である。

 だが、中央の党と政府が力を入れる汚職取り締まりに協力し、地方政府の腐敗ぶりをすっぱ抜くことはできる。環境問題に取り組む政府を支援する意味で、現地取材によって公害の現状を暴くこともできる。つまり体制に逆らわなくても、かなりのことが書けるようになっている。

 また、貧困をなくす政策をとる政府に同調し、貧困のために学校に行けない子供たちの頑張りを、暖かいまなざしの筆致で「ルポ」にすることもできる。こういう社会派の記事が新聞に載ると、無数の読者が「記事に出てくる子供たちが学校に行けるよう、支援金を送りたい」という電話や手紙、電子メールを送ってくるといったことも多い。

 党中央の機関紙である「人民日報」など「お堅い新聞」には、こうした「社会派記事」はあまり載らない。正義にこだわるのは青年たちに任せようという方針なのか、共産党青年団の機関紙である「中国青年報」や、共産党青年団北京市委員会の機関紙である「北京青年報」といった新聞が「社会派記事」を好んで載せ、人々によく読まれている。いずれもカラー写真を多用し、時代の先端を行くデザインを組んでいる。

 中国青年報には「冰点(氷点)」という異色の長期連載記事があり、ウェブサイトですべての記事が読める。中国の新聞で「焦点」「熱点(熱く語られているトピックス)」と呼ばれている特集記事の多くは、人目を引くために誇張されて描かれているものが多いが、「熱点」の反対で「ビン点」と名付けられたこの連載は、事実を冷静にとらえ、人々の良心や正義感がこもったストーリーを淡々と描くというスタイルをとり、人気だという。

 かつて、日本でもまだ高度経済成長だったころ、新聞社には社会派の記者がけっこういて、ヒューマンタッチのルポやノンフィクション系の記事が書かれていた。今の青年報の紙面には、そのころの活気を思わせるものがある。

 社会正義に根差した記事を書く記者には、89年の天安門事件の前の反政府デモに参加した人が多い。事件後、その多くは当局による摘発人事でクビにされたり、降格されたりした。だが、あの事件で民主化を求めた勢力の中には、正義感と愛国心が強くて優秀な人がたくさんおり、心ある新聞社の幹部は、記者たちが現職にとどまれるよう口添えした。その記者たちがその後、社会派の記事を書き始め、現在の新聞報道の流れを作るに至ったという。

(続く)


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