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活気あふれる中国(2)過激な問屋街

2000年12月12日   田中 宇

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この記事は「活気あふれる中国(1)賑わう消費」の続きです。

 中国浙江省の寧波市を訪れたとき、寧波から車で4時間ほどいった浙江省の義烏という町が中国3大問屋街の一つになっているという話を聞いた。義烏のほか、遼寧省(旧満州)の瀋陽市、湖北省の武漢市が3大問屋街なのだという。義烏は上海や杭州からも3−5時間でつける内陸部にある。

 この話を聞いたとき、5月に訪れたアフガニスタン・パキスタン国境の大問屋街「バラマーケット」を思い出した。そこは巨大な闇市で、あらゆる種類の商品が並んでいたが、多くは中国製であった。(「自由経済の最先端を行く無法諸国」を参照)

 バラマーケットの商品は、中国西域の新疆ウイグル自治区からヒマラヤの高山地帯を越えて輸入されてくると聞いたが、多くはおそらく3大問屋街のいずれかをも経由していると思われた。バラマーケットが現代のシルクロードの西端だとしたら、義烏は東端といえるかもしれない。

 そんな風に考えて訪れた義烏は、町じゅうが問屋街だった。お世話になった日中合弁企業の社長さんの車を借りて行ったのだが、車の運転手は「飲食店以外はすべて問屋です」と説明した。その言葉が誇張に感じられないほど、中心街は問屋ばかりだった。

 義烏が全国的に有名なのは、日用雑貨品の卸売り市場としてである。「中国小商品城」(雑貨専門店街)と名づけられた体育館のような大きな市場が市内に何ヵ所かあり、その周りに規模の小さい問屋街が並んでいる。

 街角には、商品の運搬などの仕事を求めて立っている出稼ぎの人々がいた。義烏市の人口は公称65万人だが、住民登録をしていないと思われる彼らを加えた総人口は、はるかに多いだろう。広東省の工業都市では、登録人口1万人の町が、出稼ぎ労働者の流入により実際の人口は60万人というケースもあり、それと同じことがここでも起きていると思われた。

▼10秒で7割下がる値決めの果し合い

 最初に入ったのは、メガネ専門店のビル「中国小商品城眼鏡市場」だった。5階建てぐらいのビルの内部を廊下が縦横に走り、両側に何十もの小さなブースが並ぶ。すべての店がメガネやサングラスを売っていた。一つ一つの店にかけられた看板には、浙江省や南隣の福建省の町の名前がついた工場名や代理店名などが書かれていた。

 訪れたのが朝10時ごろだったせいか、お客はほとんどいなかった。呼び止められた一軒で店員さんに尋ねてみると、このメガネ専門ビルができたのは今年10月で、まだ2ヶ月しかたっておらず、全国の商人たちに存在が知られていないから客が少ないのだという。

 温州(浙江省南部)の工場の看板を掲げたその店の店員は「うちの商品の中心はサングラスなので、売れるのは夏場が中心。だから来年春までお客が少ないのは仕方がない。中国人はあまりサングラスをしないので、国内売りより輸出が多い。ここの商品はひとつ1−2元(1元は約14円)からという安い価格帯なので、欧米より中近東などへの輸出が多く、中近東の商人も買いにくる」 と言う。

 値段の安さを聞いて、案内役の運転手さんが買い気を示した。隣の店に行き、店員にいくつかの品を出させ、説明を受けていた。私たちがその場を立ち去る時になってサングラスを買うことに決めたが、店の人が「二つで30元」と言うと、運転手は「冗談じゃない」と言い捨てて、店から出て歩き出した。

 すると、運転手が2−3歩遠ざかるごとに、店員の言い値が「20元」「10元」と下がった。「10元」の声を聞いたところで、運転手は立ち止まって振り返り、店に戻ってサングラスを買った。

 この間、交渉成立まで約10秒。売り手に値引きのチャンスを与えるため、買い手はゆっくりと、しかし毅然として立ち去りかけ、売り手は買い手が視界から消える直前に最終的な価格を出す。中国人の商才を感じさせる、西部劇の早撃ちの果たし合いにも似た劇的なワンシーンだった。

 店から出た運転手は、買ったサングラスをポケットから出して確認しながら、店員のことを「あいつは腹黒い」と言った。多分、店員も同僚に向かって同じ言葉を言っていただろう。この日は、寧波で経営コンサルタントをしている仙波慶子さんが同行してくださったが、仙波さんも「中国人の商売の駆け引きの才能にはいつも驚かされる」と言っていた。

▼ブランド品の大半はニセモノ?

 メガネ市場を出た私たちは、靴下やパンストなど足回り衣料の専門店街に入った。築地の魚市場のような広い平屋建ての中に、約3000店が屋台形式で小さな店を出している。いずれの店もほとんど同じものを売っているが、よく見ると品揃えが微妙に違う。

 日本語の説明と500円という値段が書かれたラベルが貼ってある靴下が、一足7元(100円)で売られていた。日本向け輸出用の商品を売っているのか、日本製に見せかけるために日本語をつけたのか、真相は分からない。

 次に行ったのは、シャンプーや口紅を置いている化粧品店街だった。アメリカのメーカー「P&G」製のシャンプーが1本あたり2元弱(30円)で売られていた(12本入りの箱単位でのみ販売)。上海や寧波の小売価格の半額かそれ以下だというが、本物かどうか怪しいと感じられた。

 WTOへの加盟を控え、欧米から知的所有権の遵守を迫られている中国の当局は最近、ニセモノ商品の取り締まりに力を入れており、中国の公的メディアが、義烏で売られている商品にニセモノが多いことを問題にするようになった。

 一説によると、義烏のブランド品の半分から7割はニセモノだという。シャンプーを何箱か買うつもりなら、その液体を手につけて見ただけで本物かどうか分かる商品知識が必要になる。

 町なかには、ポケモンやハローキティが無数に描かれたシートと、それをTシャツなどにプリントするための熱転写機を売る店もあった。これらのキャラクターを使うには本来、使用料を払わねばならないのだろうが、そんなのはお構いなしのようだった。

 また「シ」と「ツ」を間違えているような日本語の説明書きがついたペーパーナプキンなども目にした。これは多分「日本製は品質が良い」という中国の消費者の心境に付け込んで、日本製に見せかけて売る商品であろう。

▼本物に劣らないニセモノも

 とはいえ、ニセモノは必ずしも粗悪品ではない。たとえば毛布の場合、日系の合弁メーカーは原材料のアクリルに安価な中国製を使わず、高値だが高品質の日本製を輸入することで、良い手触りのものを作っている。ところが、良くできたニセモノを作る中国メーカーもまた、わざわざ日本からアクリル原料を輸入して作っており、手触りなどの品質面で日系メーカーの本物に劣らない「優秀」なものもある。

 ニセモノ品を作る中国メーカーにとっては、宣伝費やデザインにかける費用が要らないのが利点だとされるが、長期的には自社ブランドを育てた方がプラスだということがまだ分かっていない中国企業が多いということだ。中国政府はWTO加盟に先立ち、取り締まりに力を入れているが、消費の拡大に歩調を合わせ、逆にニセモノは増えつつある。

 日系企業が自社製品のニセモノを作っている工場を突き止めたとしても、それを止めさせるのは難しい。相手の工場がある地域の警察や役所に苦情を言っても、なかなか取り締まってくれない。工場の経営者は役所や警察に賄賂を贈っていることが多いし、役所としてはニセモノの取り締まりより、地元産業の振興を優先してしまいがちだからである。

 欧米企業の多くは、もう一段上まで話を持っていく。北京にある自国の大使館から、中国の中央政府に苦情を言ってもらうのである。地方政府は、下手をすると汚職で摘発されてしまうので、中央からの指令なら聞かざるを得ない。

 欧米諸国は、13億人に自国製品を売って儲けることが中国との付き合いの主目的だと自覚しているので、大使館が進出企業の手助けをするが、日本政府にはそうした意志が希薄だとの指摘もある。

▼台湾と関係ありそうな大問屋街の歴史

 このほか義烏には、奥行き1キロ、横幅300メートルという巨大な2階建ての体育館のような場所に、文房具からバッジ、お土産屋で売る仏像などまで、雑貨全般を扱っている屋台形式の店が何千と並んでいる市場や、お釜やドライヤーなど電化製品の街もあった。

 義烏は日用雑貨品に強い市場だけに、低価格の商品が多い。そのため日本からは、100円ショップや格安ドラッグストアの関係者が買い付けにくるそうだ。また、インド・パキスタンや中東系の顔立ちの商人が値決め交渉しているのも見た。

 義烏の市場を運営するのは、市役所の部局から民間企業へと民営化された「中国小商品城集団」であるが、今では新疆ウイグルのウルムチ市や、ロシア国境にある黒竜江省の黒河市にも市場の支店を出し、ロシアや中央アジア、パキスタンなどへの販売にも力を入れているという。やはりここは、アフガンのバラマーケットとつながっていたのだ。

 義烏の雑貨市場は、トウ小平氏による改革開放政策が始まった1980年代の初め、農民による密売市場のようなかたちで義烏の郊外でスタートした。80年代後半になって、市当局がこの市場の将来性に目をつけ、義烏市を問屋街に変身させる政策に着手し、現在の姿になった。

 義烏は上海の大消費地から100キロ以上離れており、港にも遠い内陸部の農村地帯にある。それなのに義烏に大問屋街ができた理由の一つはおそらく、台湾企業の進出と関係があると思われる。

 義烏市がある浙江省から南の福建省にかけては80年代後半以来、台湾企業が自国向け製品生産拠点として中小工場を無数に作った。それらの工場では最初、台湾向けに商品を生産していたが、やがて購買力が増してきた中国国内向けにも商品を作って売るようになり、その際の流通のハブとして義烏が機能するようになったのだろう。

 とはいえ台湾の存在とは別に、浙江省の山間部や南部の海岸地域は、文化大革命の時代から、中央の目が届きにくいのをいいことに、すでに農家がボタンなど軽工業品を作って売るという「資本主義」をやっていたということも関係ありそうだ。義烏のメガネ市場に中小工場がいくつも店出していた浙江省の温州がその中心で、1980年代に改革開放政策が始まり、大っぴらに資本主義的な行為ができるようになると郷鎮企業を作り、ニセモノ製造に力を入れるようにもなった。こうした地域の製品が、義烏の問屋街に流れ込んできている。(「蒼蒼」82号参照)

▼ネクタイ一本で全中国を制覇する

 義烏への行き帰りにジョウ州(ジョウは「山」へんに「乗」)という町を通ったが、ここではネクタイ専門の大きなビル型の問屋街を作り、オープンしたばかりだった。義烏は日用雑貨品全般を扱う問屋の街として全中国に知られているが、後発のジョウ州はネクタイという一つの商品に絞って全国的に有名になることで、地域振興を成し遂げる計画のようだった。

 その後、日本で繊維製品の問屋を経営している読者からいただいたメールによると、杭州の北、浙江省北部にある海寧市には大きな革製品の専門問屋街、その近くの桐郷市にはセーターの専門問屋街があり、それぞれ商品をそろえ方の迫力がすごいという。また、中国では高速道路など産業インフラが急速に整備されているため、より賃金の安い奥地での生産が可能になり、商品価格はまだまだ下がりそうだと予測されている。

 このように浙江省あたりでは、あちこちの市や町で、地域全体が一体となって一つの得意分野を生み出していくダイナミズムがある。役所が「郷鎮企業」と呼ばれる企業を作り、半官半民で新事業に取り組んできた。

 私が寧波から義烏を往復したときの車窓は、ある村では農家の家並みが、5階建ての立派なビルとなって並んでいた(窓はミラーガラス、屋上には東京タワー風の小さな鉄塔を建てるのが流行っている)が、小さな峠を越えると、30年前と同じ古い農家が並ぶ村に入るという感じで、郷鎮企業が成功した地域とそうでない地域の差が画然と表れていた。

 義烏やジョウ州のほかにも、たとえば義烏の近くにある横店という町(浙江省東陽市横店鎮)は、古くから大工や木彫師が多い町として知られており、その特性を生かして改革開放後、町が一つの建設会社として機能し、上海や寧波などのビル建設を次々と請け負い始めた。

 数年前には、中国の伝統的な町並みを建設できる大工の技能を生かし、中国の時代劇の映画を撮影できる映画村を作った。映画村には、映画「阿片戦争」で使われたセットのほか、98年に制作された映画「始皇帝暗殺」の撮影に使われた巨大宮殿(東京ドーム6個分の大きさ)のセットもある。

 最近では中国沿海部の建設業界は、ビルの建て過ぎで発注者の倒産が増え、資金回収が難しくなっている。だが郷鎮企業から大企業に成長した「横店集団」は、北京映画製作所などと組んでテレビ・映画制作の会社を作ったり、日本やアメリカの企業と合弁で電子部品の工場を立ち上げたりして、多角化に成功しているという。

▼日本より過激な中国の地方分権

 浙江省などの郷鎮企業の動きは「一村一品運動」など日本の地域振興策とも似ているが、日本よりはるかに徹底した地域中心運動だ。その背景には、中国が強力な中央集権国家のように見えて、実は日本よりはるかに地方分権になっているという現実がありそうだ。

(戦後日本の地方自治は中央から制御されているから、実は「自治」と呼べるものではない。私は今回、中国と台湾を旅行したが、この2つの地域を回って日本に帰ると、日本の方が社会主義や国家主義、全体主義の体制に近いと思えた)

 中国は50キロ離れると土着の言語がまったく通じない(だから北京語の普及が必要だった)など、人々の種類が多様で国土も広く、北京の中央政府が非常に強い政策を打ち出しても、地方はあまり影響を受けない。北京政府は、中華民族意識や反日精神の鼓舞によって国民の統一意識を高めようとしたり、腐敗取り締まりキャンペーンで地方権力者を逮捕して地方の力を弱めようとしているが、地方は豊かになるほど中央の言うことを聞かなくなっている。

 中国の社会主義はこうした体制の上に乗っているので、地方の指導者は比較的自由に地域経済の方向性を決めていくことができる。そのことが、中国沿海部の経済ダイナミズム(過激さ)の根底にあるような気がした。

(続く)



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