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「ガザの壁」の崩壊

2008年1月25日   田中 宇

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 それは、1989年に「ベルリンの壁」が崩壊したときの光景と似た、歴史的な転換点を思わせる、国境の壁の崩壊だった。(アルジャジーラのテレビ放送・YouTubeの動画

 1月23日の朝、パレスチナのガザ地区とエジプトの国境にある、高さ約6メートル、長さ約10キロにわたる隔離壁が、ガザを統治するイスラム主義勢力「ハマス」の武装部隊によって、ところどころ約20カ所が爆破された。ガザに閉じ込められていたパレスチナ人たちは、いっせいにエジプトに越境し、買い物したり、親戚を訪問したり、人によってはバスに乗り継いでエジプトの首都カイロまで出かけた。この日、少なくともガザの総人口の約4分の1にあたる35万人がエジプトに越境した。パレスチナ人の多くは、日帰りでガザに戻ったが、その後、この記事を書いている25日昼の時点でも、まだ国境は自由往来できる状況が続いている。(関連記事その1その2

 ガザは、南北約50キロ、東西約10キロの細長い地域に、約150万人のパレスチナ人が密集して住んでいる、巨大な強制収容所(ゲットー)である。西は海に面し、北と東をイスラエルに、南をエジプトに接している。イスラエルは、ガザの人々を外に出さず、西側の海上も封鎖している。今回、壁が壊されて自由往来できるようになった南の国境でも、従来はエジプト政府が、過激なパレスチナ人の入国を嫌がり、往来を制限してきた。【地図】

 今年に入って、ガザのイスラム主義武装勢力による、ガザからイスラエルへの短距離ミサイル攻撃が頻繁に行われるようになった。イスラエルは攻撃に対する制裁措置として、1月17日から、ガザとイスラエル国境にあるすべての出入国地点を閉鎖した。ガザは、イスラエルから食糧や日用品、ガソリンなどの供給を受けてきたが、これらの物資のガザへの搬入も止まった。イスラエルからの電力供給は止まり、燃料がないのでガザにある発電所も停止し、ガザは停電した。(ガザの電力は、32%が地区内の発電所から、60%がイスラエルから、8%がエジプトから送電されている)

 物資不足や食糧難で、ガザの人々の生活は、急速に悪化した。イスラエルによる国境封鎖の開始から数日たつと、封鎖は国際問題となり、イスラム諸国が国連などの場を使い、イスラエル非難を強めるようになった。中東諸国の世論は、イスラエル非難とともに、ガザに面しているもう一つの国であるエジプトに対しても向けられた。エジプト政府が、ガザへの物資搬入を自由化し、人々の生活苦を緩和してやるべきだという主張が強まった。封鎖開始から6日後の1月22日、エジプト政府は、短期間だけガザとエジプトの間の自由往来を許可することを決め、ガザを統治するハマスにそれを伝えた。(関連記事

▼ガザ中の人々が越境したがった

 ガザの最南端にはラファという町がある。地中海岸を通る街道の宿場町・貿易都市だったラファは、エジプト側とガザ側にまたがる町で、町の中を国境線が通っている。エジプト政府は、ラファの国境線にある検問所を、1月23日の日の出(6時)から開け、ガザの人々が短期間だけエジプト側に日用品の買い出しに出かけるのを許可することにして、ハマスに伝えた。(関連記事

 だが「過激派」のハマスは、過激で巧妙だった。ハマスは、国境の開放を恒久的なものにしようとした。ハマスの部隊は1月23日の午前3時すぎ、ラファ周辺の国境の隔離壁の約20カ所に爆弾を仕掛け、壁を破壊した。爆破の音を聞きつけたラファの市民は、壁が倒れて自由通行が可能になっていることを知り、冒険好きの若者たちは未明のうちにエジプト側に行こうとしたが、ハマスの部隊に制止され、6時まで待てと言われた。

 6時になると、ラファの人々はいっせいにエジプト側に越境し始めた。ガザの人々は、エジプト側のラファや、その向こうのアリーシュの町の市場や商店に行き、食糧や日用品を買い漁ったので、すぐに町中の商品が底をついてしまった。エジプト当局は、ガザの人々がアリーシュよりも遠くに行くことを禁じ、国道などに検問所を設けたが、裏道を知っている地元のタクシーは、何倍かの料金をとってガザの人々を乗せ、検問所を迂回してカイロ方面まで運んだ。

 1月23日朝、国境が開いて間もなく、ラファの知人からの電話連絡などで、ガザ中の人々が、ラファの国境が開いたことを知った。ラファとガザの他地域をつなぐ携帯電話(Jawal)の回線はパンク寸前になった。ガザ中の人々が、バスやタクシーや馬車を乗り継ぎ、イスラエルに制裁されてガソリンも足りない中で、何とかしてラファまで行こうと殺到した。(関連記事

 ガザでは、多くの商品が高騰していたが、ラファから商品が流入したことで、価格は急に下がった。タバコは1箱24シェケルから10シェケルへと、1日で半値以下になった。(シェケルは、パレスチナ占領地でも使われているイスラエルの通貨。1シェケル=29円)(関連記事

 1990年代後半に中東和平が崩れて以来、イスラエルはガザを封鎖する傾向を強め、ガザの人々は収容所に閉じ込められているような、強い閉塞感の中で生きてきた。ガザの人々は皆、外に出られるものなら出てみたいと感じている。1月23日にラファの国境が開いたと知ったとき、150万人のガザの人々の全員が「ぜひ行ってみたい」と思ったに違いない。そして、一度開いた国境が再び閉まることは、誰も希望していないはずだ。(1月26日までの3日間で、ガザの人口の半分にあたる70万人がエジプト訪問を経験した)(関連記事その1その2

▼パレスチナ国家は許しても国境はイスラエルが管理

 ラファの町を通る、ガザとエジプトとの国境線には、幅数百メートルの緩衝地帯がある。緩衝地帯はイスラエルによって「フィラデルフィア・ルート」と命名され、2005年まではイスラエル軍が緩衝地帯を警備し、ガザをエジプトから隔離していた。今回、壊された隔離壁は、緩衝地帯のガザ側に立っており、イスラエル軍が、ガザの人々をエジプト側に越境させないよう建設したものだった。(関連記事

 ガザは、1967年までエジプトの一部だったが、67年の第三次中東戦争(六日戦争)でイスラエルが占領し、1993年にパレスチナ国家の建設を決めた中東和平合意(オスロ合意)まで、ガザはイスラエルが直接に占領統治していた。オスロ合意に基づき、ガザにはパレスチナ自治政府が作られたが、この時イスラエルは、エジプトからガザへの武器の搬入を防ぐため、パレスチナが独立国になっても、ガザとエジプトの国境にある幅数百メートルのフィラデルフィア・ルートはイスラエルが占領し続けることを主張し、和平合意に盛り込ませた。

 イスラエルは、新生パレスチナ国家とエジプトの国境をイスラエルが管理し続けることで、パレスチナ国家がイスラエルを敵視した場合に、いつでも国境を封鎖して制裁できる態勢を作った。

 その後、イスラエルでは和平を嫌う右派勢力が強くなり、1995年には和平派のラビン首相が暗殺され、その後は右派リクードの政権が作られて、オスロ合意は事実上破棄された。和平への希望を失ったパレスチナ人は過激化し、イスラム主義のハマスが台頭した。ハマスは、フィラデルフィア・ルートの地下に細いトンネルをひそかに何本も掘り、エジプトからガザへと小型ミサイルなど武器を搬入し、それを使ってイスラエル側にミサイルを撃ち込んだり、国境のイスラエル軍やユダヤ人入植者を狙撃したりしため、イスラエルはガザを封鎖する傾向を強めた。

 2001年の911事件後、中東全域で、米英イスラエルとイスラム過激派が対立する構図が強まった。2003年の米軍イラク侵攻後の占領が失敗すると、中東では過激派だけでなく一般市民の間でも米英イスラエルに対する憎しみが強まり、ハマスやヒズボラ(レバノン)、イスラム同胞団(エジプト)などのイスラム主義勢力に対する支持が急増した。これに乗って反米的なイランが、ハマスやヒズボラへの軍事支援を増やした。アメリカはイラクで失敗色を強めて撤退せざるを得なくなり、イスラム世界は米英イスラエルを追い出しにかかるという構図が見えだした。

▼シャロンの撤退戦略を潰したアメリカ

 イスラム化の流れに対し、早くから危機感を抱いていたのがイスラエルのシャロン前首相で、シャロンは、いずれアメリカが中東から敗退してイスラエルは孤立しかねないので、その前にアラブ諸国と和解しておく必要があると考えた。

 だが、イスラエルでは右派が非常に強く、アラブが要求するパレスチナ国家の創建を実現した上で、イスラエルがアラブと和解することは無理だった。そこでシャロンは、パレスチナ国家が創建されなくても、パレスチナ(ガザと西岸)でのイスラエルによる占領を終わりにして、ガザと西岸の統治権をアラブ側に押しつける流れを作ろうとした。イスラエルが占領地を放棄できれば、アラブはイスラエルを敵視する理由がなくなり、和解が可能になる。

 西岸とガザには、イスラエル右派が作った入植地が無数にあり、占領を放棄するには、入植地の撤去が必要だった。西岸では、ユダヤ教が聖地とみなす旧約聖書に出てくる場所と入植地が絡んでおり、撤去は非常に難しいが、ガザには聖地はないので、撤去は比較的簡単だった。シャロンは、先にガザから撤退することにして、2003年末にガザからの入植地撤去を決め、入植者とそれを支持する右派勢力に反対されつつも実施し、05年にはフィラデルフィア・ルートの警備の権限をエジプトに委譲する決定を行った。

 建国以来アラブ人と敵対するイスラエルとは逆に、エジプトはアラブ人の国である。同胞のアラブ人であるガザのパレスチナ人を、イスラエルがやったように封鎖し続けるのは、国内世論を気にするエジプト政府にとって、非常に難しかった。エジプトは、イスラエルから国境警備を委譲されることに消極的だったが、シャロンに押し切られて委譲に了承し、2005年9月にイスラエル軍はフィラデルフィア・ルートから撤退した。(関連記事

 しかし「隠れ多極主義」「親イスラエルのふりをして実は反イスラエル」の米ブッシュ政権は、シャロンの占領放棄戦略をぶち壊すかのように2006年1月、パレスチナでの選挙を予定通り実施させ、反米のハマスを圧勝させ、親米のファタハ(アッバス大統領)を惨敗させた。選挙をしたらハマスが勝つことは見えており、イスラエルとアッパスは談合して選挙を延期しようとしていたが、ブッシュ政権は「中東民主化」を主張し、延期に反対した。反米感情の高まりで「中東民主化」は「中東イスラム主義化」と同義になっていたが、それを知りつつ米政府は中東民主化を掲げ続けていた。(関連記事

▼破綻したイスラエルのミニ冷戦戦略

 右派の謀略の結果なのか、翌06年2月にはシャロンが脳出血で倒れて植物人間となり、イスラエル政界は混乱期に入った。選挙でハマスが勝ったのに、欧米とイスラエルはそれを認めず、惨敗したアッバスに政権を維持させた。07年6月には、ハマスとファタハの対立からパレスチナは内戦となり、ハマスはガザからファタハを追い出した。パレスチナは、ガザにハマスの政権、西岸にアッバス(ファタハ)の政権が並び立つ分裂状態となった。(関連記事

 中東全域で反米反イスラエルのイスラム主義が台頭していることに対抗し、イスラエルはアメリカを動かして、ファタハ、エジプト、サウジアラビアなど親米勢力を糾合し、イラン、ハマス、ヒズボラなどの反米勢力との対立関係を恒久的に構築する「ミニ冷戦」の構図作りを画策した。(関連記事

 しかしブッシュ政権は、この戦略に乗るふりをしつつ、反イラン的な言動を強めることで逆に中東の世論をますます反米・親イランの方向に誘導することを繰り返し、今年1月にブッシュが中東諸国を歴訪するころには、ブッシュがいろいろ言うほど、中東の世論はブッシュを嫌い、反米反イスラエルの感情を強める態勢が完成した。その一方でブッシュ政権は、実はイランは核兵器を開発していなかったとする報告書を昨年12月に流し、これを機にサウジアラビアやエジプトは、イランとの関係を強化する方向に動き出した。サウジやエジプトとイランとを対立させるイスラエルの戦略は破綻した。(関連記事

 イスラエルの不利に乗じるように、ガザのハマスや関連イスラム主義勢力は、イスラエルに向けた短距離ミサイルを発射し続けた。ハマスらは、しだいに飛距離の長いミサイルを撃つようになり、脅威を感じたイスラエル側は、1月17日から制裁的なガザ封鎖を開始した。数日間の封鎖の後、1月22日にはラファの国境検問所のガザ側に数千人の人々がおしかけ、買い物に行きたいのでエジプト側に越境させてくれとエジプト当局と押し問答になり、銃の発砲があって死傷者が出た。混乱の末、エジプト政府は対応せざるを得なくなり、翌23日にラファの国境の壁が壊され、往来が自由化された。(関連記事

▼イスラム主義化するエジプト

 国境の壁が壊された後、イスラエル政府内からは「これでガザの面倒はエジプトが見る体制ができた。イスラエルはもはやガザに物資や電力を供給する必要はない」という主張が出ている。ガザの面倒をエジプトに見させようとするのは、シャロン以来のイスラエルの戦略である。エジプト側の国境が開いた以上、イスラエル側の国境は閉めたままにしておきたいはずだ。イスラエルはアメリカからの援助に頼っているが、アメリカは財政難の度合いを強めている。財政を無駄遣いしたくないイスラエル政府は、もうガザに金を出さなくなる可能性も強い。(関連記事

 エジプト政府は、ラファの国境は近いうちに再び閉めると言っているが、それはおそらく不可能だ。ラファの国境が再閉鎖されたら、ガザの人々は再び窮乏する。エジプト国民の世論は、再閉鎖に猛反対するはずだ。親米なのですでに人気が落ちているエジプトのムバラク大統領は、自分の政治生命を危うくするラファの再閉鎖には踏み切りにくい。(関連記事

 しかし逆に、ラファを開けたままにしておくこともまた、ムバラクの政治生命を危険にする。ガザのハマスは、エジプトのイスラム主義の野党「イスラム同胞団」の弟分にあたる組織である。ムバラクの独裁であるエジプトでは、イスラム同胞団が政党として認められておらず、同胞団の支持者はしばしば逮捕され、弾圧されている。中東全域でのイスラム主義の高まりの中で、ムバラクは同胞団を脅威だと思っている。(関連記事

 今後、ガザとエジプトの人々が自由に往来するようになると、エジプトでは、みんなでガザを助けよう、イスラエルと戦おうという気運が強まり、ハマスとイスラム同胞団への人気が高まり、ムバラクの政権の座を脅かす。ハマスは、そのことをよく知っているから、ムバラクが世論に圧され、少しだけラファの国境を開けざるを得なくなった時に、国境の壁を大々的に爆破して、国境の再閉鎖を困難にした。

 イスラエルは、ガザの面倒をエジプトに押しつけて得をしたかに見えるが、エジプトの政権が親米のムバラクから、反米反イスラエルのイスラム同胞団に交代していくのだとしたら、それはイスラエルにとって国家的な危機になる。ラファの国境が開いたままだと、エジプトからガザに武器がどんどん搬入され、ガザからイスラエルに撃ち込まれるミサイルの飛距離も伸びる。(関連記事

 アメリカがハマスや、その背後にいるイランをテロ組織扱いしているので、エジプト政府は、表向きハマスやイランを敵視してきた。だが、イスラム主義化するエジプトの世論は、ハマスやイランを支持する傾向を強めている。中東におけるアメリカの影響力低下を横目で見つつ、すでにイランとエジプトは政治家の相互訪問を繰り返し、国交正常化は時間の問題である。イランからエジプトを経由してガザに運び込まれる武器の質量は、増えるばかりである。

▼近づく「和解しない」ことと「戦争」との距離

 イスラエルでは、2002−05年にシャロンが打ち出した「占領地を放棄してアラブと和解する」という戦略は、アラブの反米反イスラエル化の強まりの結果、もはや無効になったとする右派の主張が強くなっている。しかし、和解しないなら戦争である。以前は、中東におけるアメリカの力が強く、エジプトやサウジなどのアラブはアメリカの言いなりで、アメリカを牛耳っているイスラエルは、アラブと和解しなくても、何の不都合もなかった。しかし今では「和解しない」ことと「戦争」との距離が、しだいに近くなっている。

 しかも、アメリカの力が弱まり、後ろ盾が失われる中でイスラエルがパレスチナ・アラブ側と戦争すると、負ける可能性が強まっている。緒戦で勝てても、パレスチナ人と、レバノン南部のヒズボラが長期のゲリラ戦に持ち込むので、最終的に勝てる見込みはゼロである。

 欧米の支援は大して期待できない。アメリカは政治経済的に自滅しつつあるし、欧州は以前から傍観の構えが強い。米英イスラエル中心の世界体制に悩まされてきたロシアや中国は、イスラム世界の味方である。イスラエルが負けてユダヤ人が再び世界に離散せざるを得なくなったら、ロシアや欧米は移民として受け入れるだろうが、それ以上の援助は期待できなくなりつつある。

 イスラエルのオルメルト首相は、ラファの壁が崩れる前の1月18日に、すでにガザからミサイルが撃ち込まれる状況を「戦争」という言葉を使って説明している。(関連記事

 状況は戦争に近づきつつあるが、戦争したらイスラエルは終わりだ。だからオルメルト政権は、パレスチナ側との和平交渉を何とか成就させようと努力してきた。和平のためにイスラエルがせねばならないことの要点は「西岸の入植地からの撤退」と「エルサレムの半分をパレスチナ国家の首都として割譲する」という2点である。2点ともイスラエルの右派は猛反対しているが、今年に入ってオルメルトは、この2点を本気で実施しようとしている。

 従来はオルメルトの連立政権に参加していた右派政党「イスラエルわが祖国」は、オルメルトが入植地撤退とエルサレム分割を本気でやり出したので、1月16日に連立政権から抜けた。連立政権は、かろうじて議会の過半数を維持できる水準まで議席が減った。(関連記事

 イスラエルでは1月30日に、一昨年のレバノンとの戦争を総括している「ウィノグラード委員会」の最終報告書が発表される。報告書が、一昨年の戦争で負けたのはオルメルトの責任だ、という内容なら、オルメルトは辞任に追い込まれるかもしれない。イスラエル政界の乱闘は深まっている。オルメルト政権が崩壊し、総選挙になると、世論調査の結果から考えて、リクードなど右派政党が勝つ可能性が高い。イスラエルは、自滅的な最終戦争にさらに近づく。(関連記事

▼ベルリンの壁の崩壊との類似性

 1989年のベルリンの壁の崩壊は、ゴルバチョフのソ連が、レーガンのアメリカと談合し、東欧を手放す決断をした結果、起きている。壁の崩壊は、東西ドイツを統合させ、EUとユーロの誕生につながった。EUは今のところ、既存の米英中心の世界体制に協力しているが、長期的には、アメリカとは別の、ロシアや中国と並ぶ地域覇権勢力となっていきそうである。ベルリンの壁の崩壊は、欧州が統合して世界的な大勢力の一つになることの開始点として起きている。(それを誘発したのはレーガンのアメリカだった)

 1月23日のガザの壁の崩壊は、同様に、中東のイスラム諸国が統合して世界的な大勢力の一つになっていくことの開始点になるかもしれない。中東は従来、米英イスラエルによる分断支配下にあったが、最近、急に、これまで分断され、相互に敵対してきた中東諸国が、仲直りする傾向を強めている。

 昨年12月に開かれたペルシャ湾岸アラブ諸国(GCC)のサミットに、アラブの敵だったはずのイランのアハマディネジャド大統領が招待され、アラブとイランが急に接近し始めたのはその一例だ。その後、1月中旬にはクウェートの外相がイランを訪問し、チグリス・ユーフラテス河口の国境紛争の解決に向けて動き出している。両国の間のイラクも絡んだこの国境紛争は、1990年の湾岸戦争のきっかけになったものである。

 1月24日には、ギリシャの首相が約50年ぶりにトルコを訪問した。ギリシャは、かつてトルコ帝国の傘下にいたが、第一次大戦の時期にイギリスから独立を扇動され、トルコに戦いを挑んで独立して以来、強い反トルコ意識を国是としてきた。しかし今、ギリシャは、イギリスから植え付けられた「反トルコ」の束縛から自らを解放しようとしている。この動きも、アメリカの重過失(故意)的な中東戦略の大失敗の結果、米英イスラエル中心体制が壊れていることと、おそらく関係がある。(関連記事

 ギリシャ・トルコの対立は、アラブ・イスラエルの対立と連動している。従来、ギリシャは親アラブ、トルコは親イスラエルだった。しかし、トルコからの分離独立を画策するクルド人を米イスラエルが支援し、トルコで反米的なイスラム主義が強まった結果、トルコは反イスラエル・親アラブに転換し、先日トルコの大統領がハマスを支持する発言を行い、イスラエルと対立している。ギリシャとトルコの和解は、米英イスラエルの力が低下した結果である。(関連記事

▼ここでも出てくるサルコジのフランス

 米英の中東支配が崩れる中で、ちゃっかりと登場しているのが、サルコジのフランスである。フランスは先日、ペルシャ湾岸のアラブ首長国連邦(UAE)との間で、軍事基地を設けることで合意した。ペルシャ湾岸はこの200年、米英の勢力圏であり、フランスは基地を置くことを許されなかった。UAEの首都アブダビの基地に2009年から駐屯する予定のフランス軍は500人と小規模だが、フランスが米英の力の低下をしり目に、縄張りを破ってペルシャ湾に入ってきたことの意味は大きい。(関連記事その1その2

 ペルシャ湾岸のGCCの6カ国は2010年に通貨統合を実施する予定で、GCCはEUのような経済統合地域になることを目指している。そこにはイランも絡んできて、GCC+イランは、アメリカがイラクから撤退した後の中東の、中心的な存在になるだろう。その一角にフランスが小さな軍事基地を置くことは、統合された欧州(EU)と、統合された中東との、将来の関係を模索する動きとして興味深い。(関連記事

 アメリカでは先日、不況突入の懸念と株価急落を受け、連銀(FRB)が0・75%という大幅な利下げを実施したが、この利下げは、ドルの信用不安を強め、GCCの通貨がドルへの連動(ペッグ)をやめて自立していく動きを速めそうだ。中東は経済的にも、米英中心体制からの脱却を加速している。(関連記事その1その2

 フランスはまた、表向きは米英によるイラン制裁に協力する姿勢を見せながら、裏ではイランとの関係を目立たないように強化する一方、イランに対抗して原子力開発を始めようとしているエジプトに、原子力技術を売り込もうともしている。サルコジはユダヤ系だが、イスラエルが潰れてもかまわないようだ。シオニストではなく、イスラエルを支援するふりをして抑制してきたロスチャイルド系(資本家系)の人なのだろう。(関連記事その1その2



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