ガザ訪問記(上)2003年10月20日 田中 宇(これは2002年末に書いて未発表になっていた文章です) パレスチナに来てガザ地区に入ると、閉ざされた地域にやってきた、という感覚を強く受ける。私はこれまで3回ガザを訪れたが、そのたびに行く前は「できれば1週間ぐらい滞在しよう」と思いつつ、実際に行ってみると、3日間ぐらいでガザを立ち去ってしまう。閉塞感から逃れたくなって、無意識のうちに滞在を短く切り上げてしまっているのではないか、と思う。 ガザには一応、空港がある。オスロ合意に基づくパレスチナ国家の成立準備の一環として1998年に開港したガザ空港は、一時はヨルダンなどから飛行機が離発着していた。だが、シャロン政権になってイスラエルがオスロ合意を破棄する意思を明確にした後、2000年後半からイスラエルによって閉鎖されるようになり、2001年末には「自爆テロに対する報復」として、イスラエル軍の戦車とブルドーザーが空港施設を破壊し、滑走路をずたずたにして、使えなくしてしまった。 ガザは地中海に面しており、ガザ地区の中心都市であるガザ市には港がある。だが、沿岸漁業のための漁船以外、航行は許されていない。ガザ市内の海岸通りから港に入るゲートには、過激派組織が船で武器を搬入することを防ぐため、パレスチナ自治政府のチェックポイントが設けられていた。検問を怠ると、イスラエルに「報復」の口実を与えてしまうことになる。(オスロ合意破棄はイスラエル側が決めたことなので、パレスチナ側の検問継続とは関係なく「報復」が行われているのだが) ガザ市の港は、錆びついた船の墓場のような場所で、子供たちが錆びた船の甲板から次々に海に飛び込み、エネルギーいっぱいという感じで遊んでいた。カメラを向けると、それに気づいた数人がすぐにポーズを作った。撮り終わって立ち去ろうとすると「俺も撮ってくれ」といった感じで叫びながら、何人かが追いかけてきた。 ガザ市のウォーターフロントには、おしゃれなデザインのホテルがいくつも立ち並んでいる。オスロ合意以来、ガザを地中海のリゾート地にしてパレスチナ新国家の収入源にしようという計画が進み、ホテルが相次いで建てられた。だが、今や泊まる人もほとんどなく、ホテルはがらがらだ。 2001年にガザに行ったときは、夜間、ガザ市の前面の海に、点々と船のサーチライトが見えた。海岸から1キロほどの沖合いに、海岸にそって数百メートルおきに等間隔に光が続き、船の位置は朝まで動かず、翌日の晩にまた同じところで光っていた。イスラエルの警備艇が、夜間にパレスチナ人の船が出入りするのを防ぐため「海の鉄条網」を敷いていた。 2002年に訪れたときには、ガザの上空で30分おきぐらいにジェット戦闘機の編隊が轟音を立てて飛び去るのが見えた。イスラエルがパレスチナ自治政府の破壊を進めた反動で、パレスチナ側の自爆攻撃(自爆テロ)が盛んになっており、それに対する威圧が行われていると思われた。制海権も制空権も、イスラエルが握っていた。 ガザ空港が開いていたときでも、空港に降り立った旅客に対しては、先にイスラエルの入国検査官による入国審査があり、その後パレスチナ自治政府の職員が審査を行う、という手続きになっていた(外国からパレスチナ自治政府の領域に入る際にイスラエルが入国検査を行うのは、陸路でヨルダンから西岸に入るときも同じである)。 制海権も制空権も、出入国管理権も持っていない国家など、国家とはいえない。イスラエルはオスロ合意が生きていた時代でさえ、パレスチナを「国家」としては認めていなかったことになる。ガザは、イスラエルがパレスチナ人を押し込めておくための、広大な収容所のような場所である。 外の世界からガザに入れるルートは、陸路だけだ。ガザの北の端にある、イスラエルと行き来できるエレツ検問所を通るのが、ガザに行く通常のルートである。(このほか外国人には、ガザ南端のラッファからエジプトへ抜ける道や、テルアビブなどからガザの内部にあるイスラエル人入植地にバスで行き、そこから検問所を通ってパレスチナ側に歩いて抜ける方法もある) ガザ地区は、東西10キロ、南北40キロの細長い海岸地域で、東京都23区や横浜市、種子島などと同じくらいの広さに、約170万人のパレスチナ人が住んでいる。ほとんど全員がイスラム教徒だ。彼らはイスラエルから例外的な許可(イスラエルへの日帰り出稼ぎ許可など)をもらわない限り、地区の外に出られない。 しかも、ガザ地区うち3割近い面積は、イスラエル人のための入植地となっており、一般のパレスチナ人はそこに入ることはできない。入れるのは日雇い労働者として認められた人だけだ。入植地は何カ所かに分散しているが、最大のものは海岸沿いのガザ内でも良い場所を占めている。入植地には、全部で4000人ほどしか住んでいない。ガザ地区のうち3割の土地に4000人のイスラエル人が住み、残りの7割に170万人のパレスチナ人が住んでいる。 パレスチナ人は、人口でイスラエルを打ち負かすことを戦略の一つとしているようで、子だくさんである。数年前には、ガザの人口は100万人だった。人口増加率が高いため若い人が多いが、大半の人は失業している。 オスロ合意が破棄されるまでは、エレツ検問所を通ってイスラエルに出稼ぎに行くことが、ガザ地区のパレスチナ人の最大の雇用先だった。かつては労働人口の40%がイスラエルに働きに行き、その収入がガザのGDPの50%を占めていた。毎朝何千人ものパレスチナ人たちが、エレツ検問所に並んでいた。 だが、そんな態勢は2000年後半にイスラエルがパレスチナを破壊し始め、パレスチナ人が自爆攻撃(自爆テロ)を始めたことによって終わった。2002年夏に私がガザを訪れたとき、エレツ検問所を通る人影はなかった。毎日何千人もの労働者を送迎するために作られたイスラエル側の巨大な駐車場も、がらんとしていた。 エレツ検問所を抜けてガザに入るとタクシーがたくさん止まっていたが、まったく越境者がいないため手持ち無沙汰で、旅行者が一人でもイスラエルから入国してくると、皆で取り囲んで何とかタクシーに乗せてしまう。 検問所を出て500メートルほど歩くと、一般のガザ住民のためのミニバス(乗合タクシー)乗り場がある。旅行者にそこを見つけられると、タクシー運転手たちはわずかな収入の可能性すら失ってしまうので、必死の形相で旅行者が検問所から出て行かせないようにする。(ガザ市内まで、タクシーだと500−1000円相当だが、乗合だと60円) しかし、旅行者馴れしてボッタクリのテクニックが上手なエルサレムのパレスチナ人とは異なり、ほとんど旅行者がこないガザの客引きは「生活が苦しいんだから俺の車に乗ってくれ」などと懇願するばかりで、ボッタクリ話術も洗練されていなかった。 半面、ガザの一般のパレスチナ人は、自分たちの現状を見に来てくれた外国人客に対し、非常に親切にしてくれる。町を歩いただけで、あちこちから声をかけられ「お茶を飲んでいかないか」などと誘われた。彼らは旅行者に対して喜んで市内を案内し、自宅に招いてくれる。お金などまったく受け取ろうとしない。そしてパレスチナ問題について、カタコトの英語で説明しようとする。 ガザ市や、ガザ地区のもう一つの町ハンユニスは、古くからの聖都であるエルサレムとエジプトを結ぶ商隊ルート上にある宿場町だった。エジプトに向かう人は、シナイ半島の砂漠を越える前に、ガザとハンユニスで砂漠越えの準備をした。シナイ半島から向こうはアフリカだから、ガザはアジアとアフリカをつなぐ場所に位置している。 ガザ地区が現在のように独立した地域として見られるようになったのは、50年ほど前からのことにすぎない。それまでイギリスの信託統治領だったパレスチナ地方に入植していたユダヤ人たちが、1948年にイスラエルの建国を宣言し、エジプト、シリア、レバノン、ヨルダンのアラブ連合軍がイスラエルを攻撃して第1次中東戦争が起きた。イスラエルは攻撃をはね返して独立を維持し、この戦争でエジプトはガザ地区を手に入れ、ガザと他のパレスチナ地方との間に国境が引かれることになった。 一方、この戦争でヨルダンは、西岸地域を手に入れて併合した。この戦争は、イスラエル、エジプト、ヨルダンがパレスチナ地方を分割する分捕り合戦だったとみることができる。戦争が起きるまで、イギリスや国連は、パレスチナ地方にユダヤ人国家とパレスチナ人(アラブ人)国家の2つの国を作る計画を進めていたが、戦争はパレスチナ人国家の成立を不可能にした。 この戦争の前後にガザ地区には、イスラエルから追い出されたパレスチナ人(アラブ人)たちが難民となって逃げてきて、人口はそれまでの6万人から25万人へとふくらんだ(その後、第3次中東戦争の難民や自然増などで、さらに3倍以上になった)。 エジプトはガザ地区を併合したものの、住民や難民に市民権や国籍を与えなかった。ガザの人々はエジプト人と同じアラブ人だったのに、エジプトの国籍を与えなかったのは、無国籍の「パレスチナ人」にとどめておくことで、イスラエル攻撃の尖兵として使うためだったと思われる。ガザを収容所に仕立てる意志を持っていたのは、イスラエル側だけではない。 (2001年に中東を回ったとき、カイロで出版社を経営するエジプト人と、この件で話をした。その人は「昨年以来、500人ものパレスチナ人が、イスラエル兵に殺されたんだ」と熱っぽく語ったあたりまでは調子がよかったが、エジプト政府が1950−60年代にガザの人々に国籍を与えず、イスラエルに対抗する「盾」として収容所的な状況に押し込めたことについて尋ねると、答えがないまま別の話題に移ってしまった) その後、イスラエルが先制攻撃をして圧勝した1967年の第3次中東戦争で、ガザはイスラエルに占領され、現在までイスラエルによる領有が続いている。この間、イスラエルはガザを自国領土として、都市基盤整備などを少しは進めた。とはいえ、ガザ市は停電が多いなど、都市基盤は今も最低限のものでしかない。 イスラエル軍による占領は、1987年からの「インティファーダ」で変質した。インティファーダは、ガザや西岸のパレスチナ人の青年や子供たちが、占領や弾圧に反対し、検問所などを守るイスラエル軍に対して投石する行為で、ガザ市内にある難民キャンプで偶発的に発生し、イスラエル占領下のガザ・西岸地域全体に広がった。 PLOなどパレスチナ人抵抗組織の多くは、それまで海外のイスラエル関連施設の爆破や民間機ハイジャック、1972年のミュンヘンオリンピックにおけるイスラエル選手団の殺害など、テロ行為によってイスラエルに対する攻撃とする戦略をとっており、「投石」は攻撃メニューには入っていなかった。 インティファーダは、世界のマスコミの目をパレスチナの人権問題に向けることになった。子供の投石に対し、重装備したイスラエル兵が発砲で応じるシーンがテレビで流れ、イスラエルの占領に対する反感が世界的に強まり始めた。大人たちのテロ活動よりも、子供たちの投石の方が、反イスラエル運動としてはるかに効果があることに気づいたPLOは、インティファーダに便乗し、これをPLOが率いるパレスチナ人全体の運動として宣伝するようになった。 エレツ検問所を抜けてイスラエルからガザに入ると、急にあらゆるもののたたずまいがみすぼらしくなる。自動車の多くは20年以上使い続けたと思われるボロボロのもので、1960年代のクラシックな車がたくさん走っている。ロバに引かせた荷車もよく通る。 (2002年には、韓国の現代自動車製の新しい乗合タクシーも走っていた。1996年のアジア通貨危機でウォンの為替相場が急落して以来、韓国企業は中東などで自動車やテレビなどを売りまくっている) ロバについては、一つの話を聞いた。ガザだけでなく、西岸もイスラエルに封じ込められているため人々が貧困になり、ロバに乗って移動する人が多いが、これをアメリカ人の観光客が見て「なんて素晴らしいんだ。人々がイエス・キリストの時代のように、ロバに乗っている。やっぱりここは間違いなく聖地なんだ」と叫んだのだという。私にこの話をしてくれたパレスチナ人は「アメリカ人は、パレスチナ人の生活水準を2000年前の貧しさに引き戻し、聖書のテーマパークを作るために、イスラエルに軍事援助をしているというわけだ」と、怒りを込めて冗談を飛ばしていた。 実は私も、このアメリカ人を笑えないような勘違いをした。ガザ市内にはビルなど大きな建物もけっこうあるのだが、1997年3月に初めてガザを訪れたとき、この市街地のあちこちに羊の大群がいて、群を追う羊飼いの少年もいたりして、こんなところで羊を飼っているのか、と驚いた。 だが実は、私がガザを訪れた時期は、子羊を殺して生けにえにする儀式を各家庭で行う「過ぎ越しの祭」(過越祭)がちょうど始まろうとしているときだった。 毎年3月前後に行われる過ぎ越しの祭は、ユダヤ教とイスラム教に共通している祭りで、ユダヤ教では「出エジプト」を祝う祭りと、豊作を祝ってイースト菌の入っていないパンを食べる行事、それから春先に羊の群を移動させる前に行われる遊牧民の魔除けの儀式が混在している。 このうちガザで私が接したのは、遊牧民が起源の魔除けの行事に使うため、市場で売りに出される子羊の群だった。過ぎ越しの祭りの語源である「戸口に子羊の血を塗っておくと、悪霊はその家に入らず、過ぎ越していく」という言い伝えに基づいて、各家庭で子羊を一頭ずつ殺し、家の玄関の壁にその血を塗り、その肉を家族で食べることで幸福を祈念するのだと後で聞いた。 (「過越祭」はユダヤ教の呼び方で、イスラム教では「犠牲祭」と呼んでいる。これらを別の祭日と見なすこともできるが、私には類似点が多いと感じられる)(関連記事) 大通りを占領する羊の群をよけながら、ガザ市内を歩いていると、向こうから来る青年たちに「どこから来ましたか」と声をかけられた。閉鎖された紛争地域であるガザには観光客がほとんど来ないから、外国人は珍しい。それで、私のような東洋人が街を歩くと、あちこちから「ハロー」「ウェルカム」から始まって「ジャパン?」「カラテ」「ジャッキーチェン!」などと声をかけられる。その多くは冷やかしと思われ、最初は丁寧につき合っていても、だんだん面倒になって、やがて無視するようになる。 だが、この青年たちは例外的にまじめな感じで、外国人からいろいろ話を聞きたいのです、という態度が見て取れた。彼らは、ガザ市内で国連が運営している工業高校の生徒で、放課後で帰宅途中に散歩しているところだった。彼らは5−6人のグループだったが、全員が難民キャンプに住んでいるという。 彼らは「ガザ市内を案内してあげます」というので、私はアラファトの公邸に連れていってもらうことにした。当時はオスロ合意に基づくパレスチナ人の自治が本格化し、国際援助を使ってアラファトやPLO幹部が次々に豪邸を建てて問題になり出したころだった。 海岸近くの高級住宅街にあるアラファトの公邸は、ロサンゼルス郊外の金持ちの邸宅という感じのお洒落なものだった。私は青年たちに「パレスチナ人の多くは難民キャンプで苦しい生活をしているのに、アラファトだけこんなに立派な家に住んで良いと思うか」と聞いてみた。すると「彼は立派な指導者だからかまわない」という答えが返ってきた。それは、外国人向けの模範解答のように感じられた。 ガザ市内を一回りしたあと、青年たちは、私を自宅の難民キャンプに連れていってくれることになった。彼らのうち2人はハンユニスのキャンプに自宅があり、残りの何人かはガザ市内のキャンプから通っていたが、ハンユニスの2人が私を自宅に招待してくれるという。ガザの中心街から乗り合いタクシーでハンユニスに向かった。2人は、モハメドとサイードという名前だった。2人は青年たちの中でも英語ができる方で、私たちはコミュニケーションに困らなかった。
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