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ガザ訪問記(下)

2003年10月20日   田中 宇

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 この記事は「ガザ訪問記(上)」の続きです。

 ハンユニスは人口20万人ほどの町で、その郊外に10万人近い人口を抱える難民キャンプがある。ハンユニスには、観光名所はほとんど何もない。中心街に、中世の城壁の跡と、小さな公園が一つ、それから古いモスクと商店街があるだけだ。この町にはホテルや宿屋が一軒もなく、民泊させてもらうしかないと英文ガイドブックに書いてあった。

 中心街で乗り合いタクシーを降り、郊外の難民キャンプに向かう乗り合いタクシーに乗り換えた。5分ほど走るともうキャンプの中に入ったというが、どこまでが以前からの市街地で、どこからがキャンプなのか、まったく分からなかった。難民キャンプができたのはイスラエルが建国した1948年だから、もう50年以上がすぎ、最初はテントや仮住まいの小屋だったものが、今ではほとんどすべての家が改築され、普通の家並みになっている。

 数軒の店が並ぶ、キャンプの中心街とおぼしき場所でタクシーを降りた。ガザを出るときから、青年たちは私に運賃を払わせようとしない。「お客さんだから」と言って値段も教えてくれず、全部自分たちで払ってしまう。私は結局、彼らと過ごして最後までまったくお金を使わなかった。

 しばらく路地を歩き、青年たちの家に着いた。モハメドとサイードは従兄弟どうしで、20メートルほど離れた別々の家に住んでいた。私はサイードの家に泊めてもらうことになった。

 サイードの家は2階建てのコンクリート造りで、応接間には衛星放送が映るテレビやソファセットがあり、シャワーはお湯が出たし、電話もあった。男4人、女2人のきょうだいで、2階に子供部屋が3つある。日本の住宅と比べても、それほど遜色はない。家の前の道が未舗装の砂地である点が、海の近くのキャンプだということをわずかに感じさせる程度だ。モハメドの家におじゃまする機会もあったが、同じようなつくりだった。

 サイードの父親は小学校の教師で、モハメドの父は警察官だという。ハンユニスには産業が何もなく、民間の仕事としては商店街で店を開くか、タクシーの運転手ぐらいしかない。あとは教師や警察官などの公務員である。失業率は50%ぐらいになっているのではないかと思うが、2人の父親のように定職を持てる人は恵まれている。

 彼らの一族は、1948年までビルシェバに住んでいた。ビルシェバはイスラエルの砂漠の中にある町で、ハンユニスからは50キロほどしか離れていない。しかし、難民となって50年、ビルシェバに一時訪問することすら、一度もイスラエルから許されていない。

 夕方の早い時間に学校から帰宅したサイードの父親は40歳代の前半で、私よりも数歳しか年上ではなかったが、風格があった。生徒を引率した修学旅行のときの写真を見せてくれたが、行き先はガザ市内の遊園地だった。ガザの人々は、ガザから外部に出ることをイスラエルから禁じられており、そんなところしか行くところがない。まさに閉ざされた地域で人生を送っている。サイードの父は私に「明日と明後日はお祭りでいろいろな行事があるから、ぜひ2泊していきなさい」とすすめ、私はありがたくその通りにすることにした。

 サイードとモハメドが、難民キャンプの中を案内してくれるという。家を出て砂地の道を10分も歩くと、イスラエルの入植地が見える場所に出た。ハンユニスは海の近くにあるが、海に面していない。町と海の間には、幅3キロ、長さ10キロほどの細長い「グシュカティフ入植地」が海岸に沿って続き、町と海の間をふさいでいる。グシュカティフの入植地はエジプト国境まで続き、パレスチナ人が武器をエジプトから海上を経由して運べないようにしている。

 ハンユニスの難民キャンプは、市街地と入植地の間に挟まるかたちで広がっている。キャンプは海岸段丘の上にあり、私たちがいる場所から200メートルほど坂を下ると、入植地の入り口のゲートがあり、イスラエル兵が駐屯しているのが見えた。その向こうには、木々の間に点々と建物が並ぶ入植地で、はるかに地中海がかすんで見えた。海までは2キロほどである。周りは砂地で、砂丘もある。

 サイードは「ここでときどき投石をするんだ」と言う。ここは、インティファーダの現場なのだった。この旅行の後、私は、ときどきこの見覚えのある現場の光景が、CNNなどテレビのニュース番組で映し出されていることに気づくようになった。

 このインティファーダ現場は、坂の上にいるパレスチナ側がイスラエル側を見下ろすかたちになっており、ハマスなどの武装過激派が、よく入植地に向かって発砲する。イスラエル側は地理的な不利を挽回しようとその後、難民キャンプとの境界線の近くに大きな砂山を作り、戦車をその上に乗せ、そこから撃ってくるようになったという。

 1980年前後に難民キャンプで生まれたサイードたちは、ちょうど物心がついた1987年からインティファーダが始まり、投石がオスロ合意に変わっていく中で育った世代である。投石だけでなく、入植地に飲料水を運んでいるパイプラインに穴を開け、水を盗む「闘争」もやったという。

 砂地の海岸地域であるガザは、良い水が少なく、西岸からやってきたパレスチナ人でさえ、水にあたってお腹をこわす人が多いという。私もお腹をこわした。だが、入植地にはイスラエル本土から、パレスチナ人地域を通るパイプラインで、良質の水が運ばれている。もともと水が不足しているパレスチナでは、イスラエル人に水を奪われる状態が続くなど、パレスチナ問題とは水をめぐる問題でもある。そうした中で、パイプラインに穴を開ける行為が「インティファーダ」の一つになった。

 入植地のゲートを見せてくれた後、サイードらは、私を近くの友人宅にいざなった。そこには、サイードの友人たちが数人集まっていた。サイードが、私と初めて会ったときのことを友人たちにに尋ねられて話しているときに、アラファト公邸の話になった。私は改めて「アラファトらPLO幹部たちだけが豪勢な生活をして良いと思うか」と尋ねた。すると、彼らの一人が「問題だと思っている人もいる」という半面「指導者だから立派な家に住んでも良いのだ」という意見も出た。パレスチナ人が抱えている複雑な事情を、外国人である私にどう説明するのが良いか、考えあぐねているようだった。

 翌日から、サイードらの家の内外には祭日の雰囲気が漂い出した。犠牲祭の儀式で使う子羊が、近所の空き地に繋いであった。母親や祖母たちがいろいろな民族料理を作り、私にも「もっと食べろ」と盛んにすすめた。バケツのような大きな金属の皿に、鶏肉がたくさん入った「クスクス」(粒粒の状態のパスタ)を大盛りにした料理もあった。クスクスは北アフリカの料理で、ガザが中東と北アフリカの間に位置していることを感じさせた。これを、そこにいた私と2人の子供たちで、昼食として全部食べろと出されたときは、さすがに「これは大変なことになった」と思った。

 だが、実は最初にお客さんに出して「食べたければ、全部食べてもいいですよ」というもてなし方にすぎず、私たちが食べなかった分を、他の家族が食べるということで、むしろ全部食べてしまったら、他の家族が食べる分がなくなってしまうのだった。

 これと同じもてなし方は、2000年にアフガニスタンの山村に行ったときにも接した。そのときは客間の入り口で、私たち数人の客人が食べ切れなかった皿を、他の家族に持っていく係りの男の子が、この人たちはどのくらい食べるのかな、といった表情で、こちらを見ながら立っていた。

 サイードの一家の私に対するもてなし方は、少し古い時代の日本人の家庭における客のもてなし方と似ていた。「たくさん食べなさい」「シャワーを浴びたいでしょ。パジャマを用意しておくから入りなさい」などなど、お節介のように見えて、かゆいところに手が届くもてなしをしようという意志が見てとれた。

 いわれるままにシャワーを浴び、用意されたネグリジェのような民族式パジャマを着て、サイードら家の子供たちと並んで座ってテレビなど見ていると、私はすっかりくつろいだ気分になり、通りかかった父親が「まるでうちの子供だな」と言って笑った。

 私がサイードの家に泊まって3日目の早朝、まだ夜明け前に、モスクのアザーン(礼拝の呼びかけ)が聞こえてきた。ふつうのアザーンはモスクの指導者が歌い上げるが、この朝はそうではなく、子供たちが代わる代わるマイクを握って「アラーフアクバル」(アラーは偉大なり)と節をつけて言い続けるような声が、拡声器から流れていた。

 私は、しばらくうとうとしていたが、ふと起きてみると、同じ部屋に寝ていたはずの2人の子供たちがいない(私はサイードの4人の兄弟のうち、末の方の2人の部屋に居候していた)。もうモスクに行ってしまったらしい。窓を開けると、真っ赤な朝焼けが始まっていた。早朝の空気の中で、子供たちの合唱のような「アラーフアクバル」という声が流れ続け、神々しい雰囲気を醸し出していた。

 間もなくサイードが部屋にきて、一緒にモスクに行こうと誘った。外に出ると、周りの家からも三々五々、人々が出てきてモスクの方に向かっている。私たちが着いたのはモスクそのものではなく、その近くのサッカー場だった。人々がモスクに入りきれないので、そこに並んで説教師の話が始まった。イスラム教徒ではない私は、列の後ろの方で少し離れて聞いていた。

 説教はアラビア語なので私には分からなかったが、後でサイードから訳してもらったところによると、イスラエルとアメリカに対する批判、それからトルコ政府がイスラム政治を捨てて西欧のような政教分離体制を維持し、イスラエルと仲良くしていることを非難したという。イスラム教世界では宗教と政治とが一体で、特に中東では、モスクの説教がこんな風に政治的な攻撃に満ちていることは珍しくない。こういう話を聞いて育つ青年たちは、否が応でも政治のことに詳しくなる。政治の話をする場所がほとんどない日本とは対照的な社会だと感じられた。

 私が聞いた説教に参列していたのは男性ばかりだったが、どこかで別口で女性向けの説教も行われていたらしい。帰り道で、サイードのお母さんやお姉さんら女性陣と合流した。

 家に戻ると、いよいよ子羊を殺す儀式をする段になった。空き地から家の戸口に引っ張ってきた子羊を父親が抱え、喉元に短刀を刺そうとするが、羊が暴れてなかなか刺さらない。それを何とか抑え込み、一気に喉を刺して子羊を倒した。喉元から地面に真っ赤な血がどんどん流れ出している。

 末の弟がその血の中に手を突っ込み、その手を玄関の壁に持っていってペタリと押しつけた。よく見ると、その周りには、昨年や一昨年のものと思われる手の跡が、色あせながらも残っていた。毎年、末の息子がこのペタリの役をやることになっているのだという。これで今年も「悪霊を過ぎ越させる」儀式を果たせたわけだ。

 しばらく痙攣していた子羊の体を、まだ温かいうちに父親とサイードが手分けして解体し始めた。頭から内蔵まで、全部料理に使うという。妹は、長い腸を取り出してバケツに入れたりしている。

 子供たちの目の前で動物を刃物で殺すなんて、日本人には残酷に感じられるかもしれない。しかし私が現場で感じたのは、こうやって自分が食べているものの起源を目の前で見ることは、人間として大事なことではないか、ということだった。

 サイードの一家が昔住んでいたビルシェバ周辺には羊飼いの遊牧民が多く、そのような自分たちの一族の発祥を忘れないためにも、遊牧民の犠牲祭を毎年続けることがパレスチナ人として必要なのかもしれない。この日、ハンユニスの難民キャンプや旧市街には、子羊を殺す儀式を終えて洗い流した跡の赤い水たまりが、あちこちにできていた。

 ハンユニスで過ごした3日間で私が実感したことは、イスラム教というのは「コミュニティの宗教」だということだった。みんなで同じものを食べ、モスクに集まり、断食などの戒律を一緒に行うことにより、人々の中に一体感が生まれ、それが頭のイデオロギーに基づく一体感ではなく体の衣食住に基づく一体感であるだけに、イスラム世界の強さになっている。宗教を個人的な問題にしてしまう政教分離をすると、こうした強さが失われてしまう。そのため、イスラム教の指導者たちは、欧米型の政教分離や個人主義を嫌うのだと思われた。

 2001年初1月、次にガザを訪れたとき、再度ハンユニスに行こうとしたが、ガザ市内の乗り合いタクシー乗り場に行ってみると、ハンユニス行きは出ていないと言われた。ガザとハンユニスを結ぶ道路の途中にイスラエル軍の検問所があり、そこが閉鎖されているのだという。

 前年秋から始まっていたアルアクサ・インティファーダに対する制裁として、ハンユニスは閉鎖されていた。閉鎖地域であるガザの、そのまた閉鎖地域になっていた。長期間ずっと閉鎖されているわけではなく、2−3日おきぐらいに、一日2時間ぐらいずつ検問所の閉鎖を解き、緊急物資や病人などの搬出・搬入を行えるようにしているという。

 この日は行けなくても何日か待てば、ハンユニスに行けると思われた。だが、このときは私がガザにいられる期間が限られていたのと、いったんハンユニスに入ったものの、何日も出てこれなくなるかもしれないと懸念し、結局ハンユニスには行かなかった。

 このときハンユニスに行かなかったことを後悔した私は、その次にガザに訪れた2002年8月、日程に余裕を持って乗り合いタクシー乗り場に行った。すると、すでに数人の客が乗っており、あと一人で出発できるタクシーがおり、すぐに出発となった。

 ところが、20分ぐらい走り、そろそろハンユニスかと思われるあたりで車が止まってしまった。前方には長々と車の列ができている。この先に、イスラエル軍の検問所があり、一時的に閉鎖されているのだという。

 ここは、ハンユニスの向かいにあるグシュカティフ入植地の北端の近くで、グシュカティフから、飛び地になっているクファダロムという小さな別の入植地に行く道が、パレスチナ人のための幹線道路と共有されている。このため、クファダロムに行き来するイスラエル人入植者の車が通るたびに、パレスチナ側の車両を全面通行禁止にしている。パレスチナ人は、この検問所で長いときには数時間も待たされるという。

 通行止めはパレスチナ人の経済に悪影響を及ぼすため、この場所には、ヨーロッパなどからの支援で、すでにイスラエル側が交通止めしなくても双方が別々に通行できるよう、旧来の道と並行して新しい道路が作られ、交差点も立体交差の工事が進んでいる。だが、イスラエルはこの新しい道を使わず、わざわざ入植者に旧来の道を通らせて、通行止めを続けている。パレスチナ人を分断・閉鎖して疲弊させ、テロ支援者に仕立てるため、こんな嫌がらせをするのだと思われた。

 車内で待っていてもらちが明かないので、3シェケル(約90円)払って車を降り、列の先頭まで歩いて見に行くことにした。数百メートル行くと列の先頭で、その先の詰め所の中からイスラエル兵がこちらに銃を向けていた。車の運転手や乗客が列の先頭に集まり、その中の代表者が詰め所の方に行ってイスラエル兵に通行禁止を解くよう求めていたが、相手にされなかった。

 30分近くそのままの状態が続いたが、そのうちに後ろの方から数人の欧米人が登場した。ハンユニスに向かう途中のNGOのメンバーらしい。彼らが詰め所の方に行って交渉すると、イスラエル側は最初、相手にせず追い返したが、その数分後に突然「ゲートを開ける」とアナウンスした。人々は慌てて自分の車の方に駆け戻り、私も近くにいた車に乗せてもらい、車の列が動き出した。イスラエルは国際社会から「民主的な先進国」に見られたいので、外国のNGOがいると、悪く見られないよう、ふだんと違う振る舞いをするのだと思われた。

 車は間もなくハンユニス市街地に入った。5年前に来たときと、町のたたずまいはほとんど変わっていない。難民キャンプに行く乗り合いタクシーに乗り換え、キャンプの中心地で降りた。見覚えのある景色だ。5年前の記憶をもとに歩いていくが、どの通りだったか、今一つあいまいだ。道ばたで車座にすわり、トランプをしている数人の若者がいたので、サイードの家はどこかと尋ねてみた。すると、私が尋ね終わらないうちに、若者の一人が「サカイじゃないか?。モハメドだよ」と言って立ち上がった。

 そうだ。確かにモハメドだった。私たちは抱き合い、再会を喜んだ。「よく僕の名前を覚えていたね」と言うと「ときどき、サカイはどうしているかな、とみんなで話していたんだ」と言う。モハメドの目に涙が光っていた。

 サイードは、トルコで働いているという。モハメド自身もイエメンに留学中で、今はちょうど夏休みで実家に戻ってきているのだという。イスラエルの政策で閉じこめられているガザのパレスチナ人が、ガザから出て世界を見るには、国際機関から奨学金をもらって留学するぐらいしか方法がない。サイードはドイツに留学した後、トルコに職を見つけ、モハメドも奨学金を得てイエメンに行った。高校時代から、私のような外国人に話し掛けたりして世界を知りたがっていた2人が、留学というかたちで海外に行ったのは、当然の展開だったといえる。

 モハメドの家に着くと、モハメドの母親や兄弟、サイードの兄弟など、5年前にお世話になった人々が、次々とやってきて挨拶した。家は、5年前とほとんど変わっていなかった。変化といえば、家の前の通りが、5年前は砂地の未舗装だったのが、今は石畳で舗装されていることぐらいだ。モハメドにも「この5年で何が変わったか」と尋ねたが、ほとんど何も変わっていないとの返事だった。

 ふつうに考えれば、町の様子が5年間変わらないということは、安定していて良いことのように思える。しかし、ここでは「何も変わらない」ということは、いつまでたっても閉じこめられた状態が続いているということだった。終身刑の人が、5年ぶりに接見に来た人に「何も変わっていない」と答えるのにも似ている。

 その晩、モハメドやその兄弟と夜の町を散歩しながら「ハンユニスは君たちの故郷じゃないのか」と尋ねたところ「ここは故郷なんかじゃない。ここは難民キャンプだ」。思い詰めたような、やや語気の荒い返事が返ってきた。難民キャンプは、何十年住んでも、仮の住まいでしかない。モハメドらの雰囲気は、5年前に来たときより、どことなく沈鬱な感じがした。オスロ合意体制が崩壊し、未来が失われたからだろうと思われた。

 モハメドらは20歳代の半ばにさしかかり、結婚適齢期に入っていた。だが結婚するには定職が必要だ。モハメドは4人兄弟で、すぐ下の弟は学校を卒業して自宅に住んでいたが、仕事はなかった。毎日ぶらぶらするしかない。

 彼らの友人で、パレスチナ自治政府の警察官の仕事に就いた人がいた。彼の家に遊びに連れていってもらったのだが、そこはイスラエル側から砲撃を受けて大きな穴が開いている公団住宅だった。グシュカティフ入植地との境界に近い砂地の丘に、5階建ての住宅が数棟建っており、入植地に最も近い列の2棟は、入植地に面した側に大きな穴がいくつも開き、使えない状態になっている。だが、建物は完全に廃墟になったわけではなく、同じ建物の各階の、入植地とは反対側の住宅には人が住んでいて、その一人がモハメドの友人のシャミルだった。

 シャミルは最近結婚し、もうすぐ子供ができる。これまでは実家に同居していたが、結婚したらなるべく早く自分の家を確保した方が良い。ガザでも他のアラブ諸国と同様、新居を用意することが結婚の条件になることが多いと聞いた。ところがシャミルには家を借りるのに十分な資金がない。この公団住宅なら、半分廃墟になっているということで格安だった。

 廃墟になっている向かいの家の壁には大きな穴が開き、そこから入植地の緑が見える。私がシャミルの家に滞在している間にも、遠くで発砲音が聞こえていたほどで、毎晩のように入植地の方から撃ってくる。こちら側からもハマスなどが撃ち返す。イスラエル側は、毒ガス弾を撃ってきたことさえある。私がシャミルの家を出入りするときも、壁に穴が開いている踊り場を通るときは、急いで通過するように言われた。これから子供を育てるのに、こんな危険な場所で大丈夫なのかと思うが、他の階には小さな子供がいる家族もおり、幼い子供たちが階段を上り下りしていた。家賃が破格に安いこのアパートぐらいしか、若い夫婦が住める場所がないのだろう。

 シャミルの家には、ほかにも何人か友だちが集まっていた。私は5年前と同じように「アラファトをどう思うか」と聞いてみた。すると今度は、皆が「アラファトは良くない」と言う。パレスチナ全体で、アラファトの腐敗に対する批判が高まっていることが、若者たちの意見にも反映していた。

 しかし、それでは次の指導者として誰が良いのか、と尋ねると、皆黙ってしまった。一人が「ダハランが良い」という。ダハラン(ムハマド・ダハラン)はハンユニスの出身で、パレスチナ自治政府でガザの治安責任者をつとめ、アラファトの後継者と目されている一人である。しかし、ダハランを支持したのは一人だけで、残りの青年たちはこの意見に賛同せず、黙ったままだった。

「自爆攻撃についてどう思うか」とも聞いてみた。モハマドが「自爆攻撃はテロではない。ほかに反撃の方法がないので、そのぐらいしか攻撃の方法がない」と言う。「イスラエルの一般市民を殺してもかまわないか」と聞くと「国民皆兵制のイスラエルに一般市民なんていない」という返事だった。

 正直なところ、パレスチナ人やイスラエル人に、自爆攻撃(自爆テロ)についてどう思うか尋ねることは、あまり意味がないと私は感じている。互いに相手の実態をよく知らないまま、コメントしてもらうことになるからだ。パレスチナ人はイスラエルに自由に行けないので、兵士以外のイスラエル人と接することが少ないし、逆にイスラエル人のほとんどは、兵役以外でパレスチナ占領地に行くことがないから、占領地の人々がどう暮らしているか実感がない。イスラエル政府は、自国民がパレスチナ人と接する機会を作らないことで、パレスチナ人の人権問題に思い至らないような仕組みを作っている。そんな中で「どう思うか」などと聞くことに意味があるのか、私は疑問に思うようになっていた。

 ハンユニスは、イスラエルに閉鎖されたガザの中で、さらにクファダロムの検問所によって閉鎖された、二重の閉鎖地区だ。和平交渉による自治の可能性が閉ざされつつある中で、人々の絶望感はそれだけ高いといえる。

 ハンユニスだけでなく、パレスチナ人が住む多くの地域では、入植地のイスラエル軍から毎晩発砲され、パレスチナ人の側でもハマスなどが撃ち返し、人々は銃弾が飛び交う中で暮らしている。私がハンユニスに泊まった日の晩にも、ハマスの若手が一人、イスラエル側からの射撃によって殺された。こうした極限状態の中で生きるモハメドやシャミルらは、ハマスなどの過激派を支持してはいなかったが、同時にイスラエルを憎んでいることも確かだった。

 ガザ地区では、訪れるたびに、イスラム主義(イスラム原理主義)の方向に社会が傾いていっているように感じられる。イスラエルによる圧政に対して無力感が強まっている人々にとっては、最後の抵抗線として、ハマスなどイスラム主義勢力ぐらいしか支持する対象がないのも事実だ。

 2000年秋には、ハマスの若手集団がガザ市内のホテルのレストランなどを回り、ビールやワインを出しているところに対し、イスラムの教えに反しているといって、酒瓶を全部割って出ていくという行為が行われた。西岸のパレスチナ人社会にはキリスト教徒も住んでいるため飲酒に対して比較的寛容だが、ガザにはイスラム教徒しかいないので、原理主義的な傾向が強まることに歯止めがかからない。

 イスラエル政府は、こうした憎しみが増幅されていくシステムわざとを作ることで、パレスチナ人全体を「テロ組織」として見なせるようにして、パレスチナに対する弾圧が国際的に容認される状態を作ろうとしているように思われた。



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