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中国・胡錦涛の戦略

2005年10月25日   田中 宇

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 中国で、地方や中央の行政機関の失策や腐敗に対する、市民の抗議行動が増えているという。昨年あたりから、中国各地の役所前などで発生する市民の抗議集会やデモ行進の情報が、少しずつ外の世界に漏れ出し、香港や台湾、欧米や日本などのマスコミで報じられることが多くなっている。(関連記事

 市民が抗議行動を起こす理由は、たとえば、市役所が市街地で計画した再開発計画で、立ち退きさせられた住民に対してほとんど補償が支払われなかった一方、市長の親戚がこの開発計画でぼろ儲けしていることが地元新聞で暴露され、それをきっかけに地元住民たちが市役所に押し掛ける、といったようなものである。役所の幹部の乱脈行政や腐敗に対し、被害に遭った市民が声を上げると、幹部から頼まれたやくざがその市民の家を訪れて脅したり殴ったりする事件も頻発している。(関連記事

 最近の中国では、国有企業に勤めていた人が、民営化の結果、大した補償を受けられないまま解雇され、無料だった企業併設の社宅や学校、病院などが有償になり、生活水準が下がるケースが多い。その一方で、就職やビジネスのコネがある党幹部やその一族は、儲けて豪邸を建て、高級車を乗り回している。一般市民は不平等感を募らせ、不満が高まっている。そのため、何らかの事件で市民の抗議行動が起きると、その事件に直接関係ない市民たちも多数合流し、巨大な動きに発展しがちである。(関連記事

▼年に7万4千件の抗議行動

 中国で貧富格差が拡大して市民の不満が高まっている、ということが世界に報じられる傾向が頂点に達したのは今年8月、公安省の周永康大臣がロイター通信や香港の新聞の取材に対し「中国で一年間に全国で発生した100人以上の規模の抗議行動は、一昨年は5万8千件だったが、昨年は7万4千件に増えた。昨年は380万人が抗議行動に参加した」という統計数字を明らかにした時だった。(関連記事

 このニュースは驚きをもって世界のマスコミをかけめぐり、それ以来、中国の政治情勢を分析する欧米や日本などのマスコミの「解説記事」の多くに「7万4千件」という数字が使われ「こんなに多くの反政府行動が起きているのだから、中国の体制は間もなく崩壊するかもしれない」といった論調の記事が目につくようになった。(関連記事

 しかし、そのような記事が世界を一巡した後、別の疑問が出てきた。「なぜ中国政府は、抗議行動の増加を、わざわざ外のマスコミに伝えたのか」という疑問である。

 中国では従来、抗議行動や暴動の発生について、年間の発生数などの統計的なことだけでなく、個別の発生についても、全く発表してこなかった。抗議行動や暴動の発生は、中国の国内マスコミでも、散発的にしか報じられない。中国全土で起きている抗議行動や暴動の全体的な動向について把握しているのは、共産党のごく一部の幹部だけである。公安大臣が抗議行動の数を発表しなかったら、抗議行動が増えていることが世界の人々に知られることはなかった。

 中国の人々に話を聞くと、ほとんどの人が「貧富格差が拡大しているのは確かだが、抗議行動や暴動は昔からたくさんあり、それによって政府が倒されるということはないだろう」と答える。

 中国で増えている抗議行動は「経済闘争」であって「政治闘争」ではない。役所が不正をしなかったら得られた補償金その他の経済利益が、不正のために得られていないことに対する怒りが、抗議行動の発生原因となっている。そのため、役所や共産党の側が、人々に補償金などを支払い、不正をやった役人を処罰すると約束すれば、抗議行動はおさまる。(関連記事

 中国は、交渉で値段が決まる傾向が強い世界である。労働組合の賃上げ要求ストと同様の「値決め交渉」としての示威集会も多いと思われる。賃上げを求める労組が自社の倒産を求めることはあり得ないのと同様、中国の抗議行動も「補償金をよこせ」と怒鳴るだけで「共産党打倒」と叫ぶことはない。

▼政策転換の前に危機感を煽る

 中国の人々は、このような感覚に基づき、抗議行動を現実的に分析しているが、欧米や日本のマスコミの多くや人々は、そのような事情を理解していない。アメリカのマスコミでは、まず中国敵視ありきのタカ派の論調が幅を利かせ、日本のマスコミもその受け売りが多い。公安大臣が「7万4千件の抗議行動が起きた」と言えば、欧米で「中国は間もなく潰れる」という記事が増えることは容易に予測できる。(関連記事

 それなのになぜ中国政府は、わざわざ危機感を煽るようなことをするのかと思っていたら、最近その謎が解ける出来事があった。中国の胡錦涛政権が、10月中旬に開いた共産党の代表者会議(5中全会)で、これまで大都市の経済を中心に政府がテコ入れしていたのを転換し、今後は農村経済へのテコ入れを強化するという「5カ年計画」を決定したのである。(関連記事

 中国では、たとえば役人の腐敗を厳しく取り締まる新政策を発表する前には、新政策が必要なんだと内外の人々に思わせるかのように、地元の役人の腐敗を暴露する記事が中国各地の新聞に掲載される。腐敗取り締まり強化の法律を発布するだけでは、役人たちが反発し、共産党内で現政権に不満な派閥のもとに結集して政治闘争が起きる。その傾向を軽減するため、マスコミに腐敗暴露の記事をどんどん書かせ、現実の一部を暴露することで世論を動員し、新政策の実施がスムーズに行えるようにする。

 同様に、公安大臣が抗議行動の増加をマスコミに発表したり、中国国内の新聞に地元の暴動についての記事が散発的ながら掲載される傾向が強まったことは、来年からの新5カ年計画を円滑にスタートできるよう、地方の農民は不満を持って強めているんだと、中国内外の人々に思わせる効果があるのではないか。新しい5カ年計画では、大都市への政府投資が減るということだから、大都市の党幹部は反対する。中共中央は、それを抑えるため、農村で暴動が増えているということを、あえて宣伝したのではないかと思われる。

▼トウ小平の遺言?

 農村経済をテコ入れする新5カ年計画が発表されたのは、ちょうどアメリカのスノー財務長官が中国を訪問する直前だった。それまでスノー長官は、人民元の対ドル為替をなかなか切り上げない中国当局に対して不満を言い続ける人だった。

 ところが今回の訪中でスノーは「農村経済へのテコ入れは、中国だけでなく世界にとっても良いことだ」と、5カ年計画を絶賛した。13億中国人の10億人を占める農村人口が少しでも豊かになれば、その分アメリカ製品を買ってくれて、アメリカの対中貿易赤字も減るので良い、という理由だった。(関連記事

 従来の中国は、トウ小平が1980年代に決めた「先に豊かになれるものから豊かになる(豊かになれない人々が取り残されるのは、しばらくは仕方がない)」という経済方針(先富政策)に沿って動いていた。この方針に基づき、政府の投資も、先に豊かになれる大都市や沿岸地域に対して重点的に行われてきた。今回の転換は、このトウ小平の方針を20年ぶりに胡錦涛が書き換え、取り残されていた農村経済を引き上げることに重点を移すものだ。(関連記事

 胡錦涛は、トウ小平が「次の次」の後継指導者として決め、中継ぎとして置いた江沢民に対し「10年たったら胡錦涛と代われ」と厳命していたとされる。江沢民から胡錦涛に交代して1年たったところで、トウ小平の先富政策が終わりになることは、もしかするとトウ小平自身が「先富政策は20年で終わりにせよ」と長期計画を遺言していたのかもしれないとも思える。

▼台湾を抱き込む政策

 胡錦涛は、ほかにも新戦略をいくつか打ち出している。その一つは台湾政策で、台湾の政権が「独立」を明言したり国民投票で決定しない限り、中国は台湾に危害を加えないという「生け簀」戦略である。(関連記事

 経済面では、台湾の自主性をある程度認め、11月に韓国の釜山で開かれるAPEC(アジア太平洋経済協力会議)会議に台湾が代表を派遣することも、韓国の仲裁によって検討されている。

【10月12日に韓国政府の代表が台北を訪問し、台湾政府は、大陸寄りの立場をとる野党国民党の幹部である王金平・国会議長(立法院長)を釜山APECに派遣するところまで決めたが、その後、中国側が「政治家はダメだ」と主張したらしく、韓国のAPEC事務局は「台湾代表は経済専門家にしてほしい」という態度に変わった】(関連記事

 台湾でとれる果物が中国大陸で売れるようになったり、中国の観光客が台湾を旅行できるようになったり、人民元と台湾元の直接為替取引が限定的に開始されるなど、経済面では台中の関係は緊密化が始まっている。経済関係が緊密化するほど、後で分離独立することが難しくなるため、台湾政界の独立派は「カネで中国に釣られるな」と反対しているが「大陸で儲けよう」という台湾世論の流れを抑制できていない。こうした現象も、胡錦涛政権になってからのことである。(関連記事

 その一方で胡錦涛は、9月の国連総会で米ブッシュ大統領と会った際に「台湾海峡の安定を維持するための米中2国間の組織を作りましょう」と提案している。これは、台湾政府を外し、米中間だけで台湾海峡問題を決めてしまう体制を作る試みである。ブッシュ政権は、台湾が独立傾向を強めることに対して「米中関係を悪化させるので迷惑だ」と感じているふしがあり、胡錦涛はそこにつけ込もうとしたようだが、議会など米政界では反中国・親台湾の傾向が強いため、ブッシュは色好い返事をしなかった。(関連記事

 胡錦涛政権はまた、台湾政界で親中国的な傾向の強い国民党を抱き込もうとしている。最近の新戦略は「日本を共通の敵とする」ことである。胡錦涛は9月3日の「抗戦勝利60周年大会」の演説で「抗日戦争で、国民党は共産党とともに戦い、両党は役割を分担し、日本を打ち負かした」と述べた。中国共産党の最高指導者が、抗日戦争における国民党の貢献を認めたのは、1949年の中国建国以来、これが初めてだった。(関連記事

 中国にとって日本との関係は、小泉首相の靖国神社参拝によって敵対的になっている。それを利用し「日本を悪者にして、中国と台湾が結束しよう」という呼びかけが、胡錦涛発言の深意であろう。

▼対中批判を弱めるアメリカ

 台湾では最近、元外務大臣で現在は国策研究所の所長をしている田弘茂が、地元マスコミのインタビューの中で「アメリカは、今後イラクから撤退すると、外国のことに関与したがらない孤立主義に陥り、中国の覇権拡大を容認する度合いが強まりそうだ。アメリカが中国と争わなくなる分、台湾海峡で軍事衝突が起きる可能性も低くなる。台湾政府は、そうなったときのことを考え、現実的な政策を立てておいた方が良い」と述べている。

 田氏の指摘は、自滅的なイラク侵攻の結果、アメリカは孤立主義に陥り、世界が多極化し、中国の覇権力が強まり、台湾政府はアメリカの強さを背景とした対中国強硬策をとれなくなる、という予測である。(関連記事

 この田氏の指摘を裏付けるように、最近、相次いで中国を訪問しているブッシュ政権の高官たちは、いずれも中国に対する従来の批判的なトーンを弱める傾向が見られる。すでに書いたように、10月上旬に訪中したスノー財務長官は胡錦涛の5カ年計画を賞賛して帰った。スノー訪中の目的は、アメリカの金融機関や製造業が中国で儲けられるようにすることだった。(関連記事

 スノーと入れ替わりに訪中したラムズフェルド国防長官は、口では中国の軍事費の増加を批判したが、その一方で中国とアメリカの軍事交流を強化することを希望した。(関連記事

 ラムズフェルドは軍事産業のセールスマン的な存在だ。イラン・イラク戦争時には、サダム・フセイン大統領に毒ガス兵器を売り込みに行った(同時にアメリカはイスラエルを通じてイランにも武器を輸出していた)。今回ラムズフェルドは、口では中国を批判しつつ、実際には中国に武器を売り込みに行ったのではないかと考えられる。(関連記事

 スノーの前には、ライス国務長官が北京を訪問している。ライスは、中国がロシア、インドとの3国間でユーラシアの安全保障について戦略会議を開いた際、歓迎する電話を中国の外相に入れている「隠れ多極主義者」である。(関連記事

 11月中旬には、ブッシュ大統領がAPEC会議に出席した後、訪中することが決まっている。政権の1期目の4年間には中国を批判していたのが、2期目には批判を弱め、代わりに中国で儲けたい米企業のために笑顔で北京を訪問するというパターンは、クリントンの時と同じである。

▼「民主化計画書」の虚実

 ブッシュ政権は胡錦涛政権に対し「中国が少しずつでも民主化する素振りを見せてくれれば、米政府は中国批判を弱めるようにする」と約束したのではないかと思われる。そう思えるのは、中国政府が最近、民主化を進めているかのように見せるイメージ戦略を展開しているからである。

 その一つは、中国政府が10月19日に発表した「民主化計画書」(「中国の民主政治と建設」、中國的民主政治與建設)である。この計画書によると、中国の党と政府は今後、国会(全人代)の制度改革など党内民主化を進め、少数民族の自治権拡大を検討し、地方の村々での村長選挙など草の根の民主主義を拡大し、人権問題にも配慮する予定となっている。(関連記事

 計画書にはいろいろ盛り込まれているのだが、以前の状態から前進したといえる部分は少ない。全人代の改革や村長選挙は以前から決まっていたことで、村長選挙もかなり前から一部で実施されている。少数民族地域も、建国当初から建前的には自治区である。

 中国で最も注目されている「民主化」は、現在は共産党による任命で決められている市町村(郷鎮)議会の議員を、住民の直接選挙で選出するようにするかどうか、というものである。9月に北京を訪問したイギリスのブレア首相に対し、温家宝首相が、郷鎮レベルでの直接選挙制度を実施すると述べるなど、口頭ではこの件は実施が約束されている。だが、中国政府が作った「民主化計画書」には盛り込まれていない。(関連記事

 中国では、政治家が民意を得ると、党や政府の中央の言うことを聞かなくなり、地元で集めた税金を中央に納めなくなったりする可能性が大きい。中国が民主化されると、地縁血縁主義や地方の分離独立傾向が今よりも強まり、中央集権制が崩壊に瀕し、国内の秩序が乱れ、地方勢力間の争いが強まる。

 そのような懸念をふまえると、中国が民主化した方が良いという考えは、ブッシュ政権の「中東民主化」と同様、机上の空論もしくは破壊工作の一環である。中国共産党の強烈な独裁制度は、フセインやサウド家やアサド家の独裁と同様に「必要悪」である。「民主化計画」には「共産党が存在しなければ、民主化も存在しない」と書かれているが、これは当たっている。(関連記事

 このように、中国政府が作った「民主化計画」は、本物ではない。アメリカが中国に対し「大国として国際社会で認められるには、民主化することが必要だ」と言うので、それらしい計画書を作っただけだろう。

▼胡耀邦の名誉回復、チベットや香港との話し合い

 そのほか、胡錦涛政権がやっている「民主化」的なこととしては、1989年の天安門事件の直前に死去した開明的な指導者だった胡耀邦の名誉を回復する動きがある。天安門事件が、胡耀邦の死をきっかけに始まっただけに、その後の中国では、胡耀邦の名前はほとんど無視されていたが、今年11月に胡耀邦の生誕90周年を機に、共産党は胡耀邦を記念する行事を行うことにした。これも、共産党は民主化を嫌っているというイメージを払拭するためのものだろう。(関連記事

 胡錦涛政権はまた、チベットのダライラマ政権と話し合う機会を増やしたり、香港で反中国的な論調を展開している民主派の政治家と交流する機会を設けたりして、民主的なイメージ作りに精を出している。いずれも、中国が国際社会での覇権を拡大していくための布石として行われているものだろう。(関連記事

▼覇権拡大に冷淡な共産党員

 このように胡錦涛政権は、国際社会での覇権拡大の野心を持っているようだが、この方針は、中国共産党の全体で共有されているかと言えば、そうでもなさそうだ。

 先日の共産党代表者会議(5中全会)で、胡錦涛政権は、国内貧富格差を縮小する農村テコ入れ策のほか、台湾問題や、国際社会における地位向上を目指す戦略などを議題に載せた。しかし、350人の代議員の関心は、圧倒的に国内貧富格差の問題に集中しており、台湾問題や国際社会との関係の問題は「そんなことをしている暇があったら国内問題に注力せよ」という感じの反応を受け、あまり討議されなかった。(関連記事

 9月13日、香港のとなりにある広東省の深セン市を訪れた温家宝首相は「中国の経済体制改革で最先端を走ってきた深センは、今後は政治体制の改革でも最先端を行くべきだ」といった主旨の発言を行った。共産党中央は、今後深センで実験的に市議会選挙などを行い、1980年代に自由市場経済の実験を深センから始めたように、民主主義の実験を深センで始めるつもりではないかと思われる発言だった。(関連記事

 ところが、温家宝が去った翌日、深センで開かれた共産党の幹部会で、深セン市の共産党の最高位にいる李鴻忠書記は、演説の中で前日の温家宝発言に一言も触れず、党中央が提案した政治改革実験について完全に無視する態度を見せた。こうした出来事は、国際的に大国になるために必要な政治改革(をしているふり)を行うことに積極的な中央の胡錦涛政権と、政治改革に関心がない地方幹部との温度差を感じさせる。

 深センの場合は、沿岸部の大都市として従来どおりの経済発展を続けたいという地元幹部と、沿岸部大都市に偏っていた発展状況を変え、内陸部の農村も発展させたいと考える北京の首脳との対立という側面もありそうだ。(関連記事

 こうした現象は、以前の記事「否決されたEU覇権」に書いたEUの状況を思わせる。フランスやドイツでは、米のイラク侵攻後、政権上層部の指導者たちが、EUをアメリカに対抗できる世界的な覇権勢力にしようと積極外交を展開した。だが国民の方は「外のことにうつつを抜かす前に、国内経済を何とかしろ」という感じでしらけていて、EU憲法をめぐる今春の国民投票がフランスとオランダで否決されたことを機に、EUの覇権拡大には急ブレーキがかかり、世界を多極化しようとしたブッシュ政権の目論見は失敗した。

 ブッシュ政権は、中国に対しても覇権拡大を黙認・誘発している観がある。胡錦涛政権の上層部は、それに乗って中国を大国にしようとしているが、その下の共産党員たちには、アメリカの自滅と世界の多極化という大きな世界の流れが見えていないため、胡錦涛政権が提案した国際戦略や台湾政策が軽視され「国内の問題を先にせよ」という話になるのだろう。(関連記事


この記事は英語訳されました



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